ジゴワットレポート

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最終回感想『仮面ライダージオウ』 豊潤な歴史を祝う、笑顔の敗北宣言。平成ライダーはここに終わる! ZI-O signal EP FINAL

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「平成が終わった」という、令和開始からすでに4ヶ月が経過したこの時点で発せられる、耳を疑うような世迷言。しかしそこに一定の説得力を持たせたのが、他でもない『仮面ライダージオウ』であった。

 

「平成ライダー20作記念はタイムトラベラーのライダー!過去作の歴史を巡り、魔王となる運命に抗います!」。約一年前にこれを知った時、期待に胸を膨らませつつ、不安も相当に大きかったのをよく覚えている。

 

平成ライダーの歴史をひとつに束ねて物語ることなど、果たして本当に可能なのだろうか。実際に番組が開始されると、ライドウォッチという歴代ライダーの歴史そのものとも言えるアイテムが登場し、それが主人公・ジオウに託されていく物語が展開された。そして、続々と登場する歴代レジェンドキャストたち。当時のライダー、当時の怪人。

 

Over “Quartzer”

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約20年前、『クウガ』から始まった平成ライダーは、昭和ライダーのように歴史が緩やかに連続する設定を盛り込むことなく、個々が独立した作品群としてシリーズを発展させてきた。やがて、ファンの俗称だった「平成ライダー」という呼び名が公式に取り込まれ、『ディケイド』が開始される。それまで番組の冠としてしか連続していなかった平成ライダーを、同作は盛大にライブラリ化し、パッケージングを果たした。

 

しかし、『ディケイド』には決定的に避けた一点があった。それは、「リ・イマジネーションという設定を採用することでオリジナルの歴史を扱わないこと」。パラレル化された「クウガの世界」や「キバの世界」を描くことで、そのライダーの物語ではなく、概念やテーマを紐付けていく。

 

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「不揃い」すぎた平成ライダーの物語をまとめ上げることに、番組コンセプトそのものが駆け出しから白旗を掲げていたのだ。斜め上の視点から、不遜な態度で平成ライダーを総括していく。その結果、後年の玩具バブルに繋がるほどに、平成ライダーというコンテンツは巨大に成長していった。

 

そこから、更に10年。『仮面ライダージオウ』は、『ディケイド』のその先に踏み込んでいた。「オリジナルの歴史」から逃げることなく、2017年を訪れればビルドが、2016年ではエグゼイドが、当時のまま活躍する世界を描いた。制作する東映の公式サイトにも、第1話放送時点で、「レジェンドから逃げずに正面から向き合う」というフレーズが記されていた。

 

本当に、そんなことが可能なのか。

 

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平成ライダーの歴史は、なぜそんなにも独立性が強いのだろう。それは、「最初から連続性を意図していない」というシンプルな答えに他ならない。

 

徹底的にリアルな質感を追求した『クウガ』があれば、鏡の世界とバトルロイヤルという弩級のSFを描いた『龍騎』、ティーンの成長譚としての『響鬼』や、職業ドラマとしての『ダブル』。それぞれが、それ以前の作品を顧みることなく、毎年のように「時代をゼロから始めて」作品を作ってきた。その有象無象の集合体が、ただ結果として「平成ライダー」と呼ばれているに過ぎない。

 

しかし、だからこそ、このシリーズは発達してきた。作劇や作風を踏襲することなく、更には、仮面ライダーという固定概念に縛られることなく、常に手を変え品を変える。そこに通底する要素を見出す者もいれば、ありもしない文脈に騒ぐ者も、変化を嘆き憂う者もいた。しかし、「その時代が求める仮面ライダー」を常に反映させてきたこのシリーズだからこそ、色んな角度から、様々な嗜好を持つ人の琴線に触れ、今日に達してきたのだろう。まさに「新たな個性、これが平成」。

 

『ジオウ』に課せられたテーマは、そんな、「不揃い」だからこそ発展してきた作品群を「揃える」という、誰の目にも無理難題なものであった。

 

小学生当時『クウガ』に衝撃を受け、それから約20年、同シリーズを追いかけてきた私にとって、『ジオウ』はひとつの戦争であった。公式が持つ平成ライダーへの解釈と、我々個々のファンが持つ解釈。正史を扱って束ねるというのなら、それは、壮大な解釈戦争が勃発することが目に見えている。そんな戦いを記しておこうと、このブログでも、毎週感想を残すことを自分に課してきた。

 

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感想を文字に起こすというのは不思議なもので、書いているうちに、平成ライダーへの様々な思いが溢れてきた。この作品のあのシーンを観た時の気持ち、あの玩具を買って遊び倒した記憶、あの映画を観に行って受けた衝撃。『ジオウ』の感想を綴ると銘打ってはいたものの、振り返ってみれば、その多くが『ビルド』以前の平成ライダーを語ってしまっていた。『ジオウ』を通して、約20年間を走馬灯のように駆け抜ける。

 

そんな『ジオウ』のメッセージとしては、シンプルに、「今を懸命に・大切に生きる」というものなのだろう。

 

番組序盤、アナザーライダーが生まれ、歴史が歪み、過去のレジェンドライダーたちの多くが違う歴史を歩むこととなった。しかし、ビルドにならない桐生戦兎は相棒の万丈と軽口を叩き合い、オーズにならない火野映司は国会議員として誰かの手を掴もうと奔走する。誰もが、例え歴史が変わったとしても、「今」を生きるその歩みを止めなかった。

 

やがて、ライダーバトルが再び始まってしまったかと思えば、バトルファイトが終結し、師が不在でも弟子は学びを得て、カブトでない者がカブトとなる。そうして、我々が知る平成ライダーの物語は、ひとたび歪んだかと思えば、望まない「未来」までもが与えられていった。

 

「龍騎のテーマ的にもう一度戦いが始まってしまうのは駄目なのではないか」「剣崎と始は再会しないからこそあのエンディングが素晴らしいのではないか」。そういったオタクたちの拗らせたこだわりを鼻で笑うかのように、『ジオウ』は、容赦なく「過去」に「未来」を付与してきた。

 

2068年の「未来」で因縁があったゲイツとウォズも、2019年という「過去」なら新しい未来を築くことができる。未来が過去になり、過去は当然、未来になる。もうひとつの可能性を象徴していた白ウォズは、「今」を生きる男たちの前に敗北し、消失。未来で仕込まれたライドウォッチが、仮面ライダーツクヨミとして過去である「今」に発現する。

 

時計の針のように、未来と過去は紙一重なのだ。針が指した時刻は、過去の時刻でもあり、未来の時刻でもあり、今の時刻でもある。混濁する、幾重にも繰り返される時間。だからこそ大切なのは、「今」を大切に、必死に生きることにある。

 

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主人公である常磐ソウゴは、自身に最低最悪の未来が待っていると知りながら、それを覆そうと懸命に「今」を生きる。未来から過去を変えようとやってきたゲイツは「今」にほだされ、未来を知るはずのウォズは「今」を前にその書物を破り捨てる。

 

そして何より、「今」を懸命に生きてきたのは、他ならぬ平成ライダーというシリーズそのものなのだ。「今」の群れこそが、「不揃い」を意味する。先に公開された『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』は、これこそをテーマとして、大いなる開き直りを見せた。露悪的で、卑怯な、しかし絶対的に力強い主張。平成ライダーにしか作れない、稀有な一作であった。

 

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また、昨年の冬には、『平成仮面ライダー20作記念 仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』が公開された。二重にも三重にもメタ構造を重ねることで、平成ライダーを観てきた視聴者への感謝を放つ。もはやアートの域に達したかのような一作だったが、私のように長年同シリーズを追いかけてきた人にとって、その半生を銀幕の向こうから肯定される感覚を味わえたのは、貴重な体験であった。

 

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『ジオウ』の作品に「あーでもない・こーでもない」と理解や解釈を重ねてきた一年間だったが、その多くが、言葉足らずや明かされぬままに終わってしまった。

 

「2068年でなぜウォズはゲイツたちを裏切ったのか」「劇場版との整合性はどう解釈するべきなのか」「時間を移動していたと思しきタイムトラベルは実は世界移動だったのか」「そもそもライドウォッチやジクウドライバーとは何なのか」。そういった意味では、真剣に観ていた人ほどに匙を投げたくなるのが、『ジオウ』だと言えるだろう。

 

しかし、ここにアクロバティックな「一本筋」を設けるとするならば、「でも、こういうのが平成ライダーでしょ?」という、憤慨を加速させるかのような開き直りだ。

 

例え整合性がボロボロでも、繋がっていなくても、理路整然でなくとも、その時その時、つまるところの「今」を懸命に生きてきたじゃないか。レジェンドキャストを大量に出演させ、当時のライダーだけでなく、怪人も武器もエフェクトも、その時に出来るサービスは可能な限り披露してきた。奇しくも、『ジオウ』が作り上げたこの輪郭こそが、個々で「不揃い」に群れを成してきた平成ライダーそのものなんだ、と。

 

『ディケイド』のその先。「平成ライダーをシリーズとして仕立てる」からもう一歩踏み込んだ、「シリーズを通したテーマを見出す」。ここに挑んだ『ジオウ』は、笑顔で敗北宣言を打ち出したと言える。「平成ライダーをまとめようと思ったけれど、まとめきれませんでした」。意気揚々と掲げられる白旗。そんな、番組が当初打ち出したテーマを自ら反証するかのような、けろりとした笑顔。

 

しかし、ただ負けて終わりなのではない。「まときれなかった」結果そのものが、『ジオウ』が辿り着いた答えであった。だからこそ、この敗北宣言は、開き直った末の勝利宣言でもあるのだ。「平成ライダーの歴史は束ねることができない。だがそれがいい」。「不揃い」で「豊潤」な歴史を、シリーズとしてライブラリ化することはできても、物語としてひとつにまとめることはできなかった。だからこそ、それこそがテーマである、と。

 

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最終回、平成ライダー全ての歴史を束ねた存在・オーマジオウに、常磐ソウゴが変身を遂げた。圧倒的なパワーで歴代の敵をなぎ倒すその姿は、「オーマジオウ」ではなく、『仮面ライダージオウ』という番組そのものだ。全てのライドウォッチを束ねたその存在には、何者も敵わない。約20年分の、作風・物語・作劇・コンセプト・キャスト・スタッフ・視聴者の、血と汗と涙の融合体なのだ。そりゃあ、「負ける」はずがない。

 

そんな『仮面ライダージオウ』こと「オーマジオウ」は、世界を創造するために破壊を行う。新たに創造された世界は、スウォルツあるいはクォーツァーの画策に反した、「それぞれが独立性を保った20の世界」。束ねられない平成ライダーは、そのまま個々であれ。そんなメッセージをはらんだ、20の地球が並ぶ強烈な絵面。

 

そして他ならぬ「ジオウの世界」は、ソウゴの創造によって、「平成ライダーというシリーズや歴史と不可分である」という十字架から解き放たれた。真に20番目の独立した世界として、改めて2018年から「今」を紡ぐ。ソウゴが王様を目指す、『仮面ライダージオウ』の物語。級友のゲイツやツクヨミらと共に、20番目の「不揃い」がここから幕を開けるのだ。

 

今思えば、スウォルツの「平成ライダーの歴史をジオウの世界に集約させる」という目的や、クォーツァーの「物語を綺麗にするために平成をやり直す」という作戦は、『仮面ライダージオウ』という番組が当初掲げていた番組コンセプトそのものなのだろう。事実、物語中盤までは、個々の歴史を改変して繋げることで、そのコンセプトを全うしようとしていた痕跡があった。しかし、「今を描く」という軸だけは保ったまま、そのコンセプトは緩やかに自壊し、最終回で遂に自らの手によって否定されてしまった。

 

「不揃い」すぎて「豊潤」すぎる平成ライダーの歴史は、束ねることができない。しかし、だからこそいい。そして『ジオウ』もまた新たに、そこに準じていく ・・・だなんて、こんなにも卑怯で小狡い、厚かましい着地もあるまい。私も心の中に、この着地に憤慨する自分を確実に飼っている。

 

しかし同時に、どうしようもなく、この結論を受け入れてしまう自分もいる。

 

それは、他でもない自分自身が、不揃いな歴史そのものに魅了された半生を過ごしてきたからだ。これを頭から否定してしまうことは、どこか、過去の自分に嘘をついていしまうような気がする。平成という約30年の時代そのものも、醜く、不揃いであったが、確かに私が生きた時代なのだ。「凸凹で何が悪い!」「それこそがいいんだ!」というマジックワードは、あまりに図々しい思考停止の呼びかけだと分かっていながら、受け入れたくなってしまう。そんな自分を完全に殺すことは、私にはできない。

 

『ジオウ』にNOを突きつけることは、「平成」という時代や「不揃い」を追いかけた自らの半生にもNOを突きつけることになる ・・・などと、どうしてこんなにも荒唐無稽な理論が成り立ってしまうのだろう。言うなれば、「平成」という元号だけでなく、視聴者の「平成ライダーへの思い入れ」をも人質に取ったのが、『仮面ライダージオウ』なのだ。

 

平成ライダーの物語を束ねることを諦め、白旗を掲げたと思ったら、全体構造こそが平成ライダーじみていた。どこまでが計算されたもので、意図された作りなのかは分からない。いや、おそらくこの凸凹な着地は、あくまで結果論なのだろう。作り手の欺瞞すら感じられる結果論。しかし同時に、終わってみれば恥ずかしげもなく「これぞ平成ライダーだったでしょ?」と言ってのける。そうして、からからと笑う。

 

ずるい。なんてずるい。しかし、『ジオウ』が大好きな自分が絶対的に「今」ここにいる。この一点だけで、パズルのピースがはまってしまう感覚がある。

 

最終回でオーマジオウになったソウゴは、自らウォズに祝福を催促する。「ウォズ、祝え。……祝えと言っている」。このオーマジオウこそが『仮面ライダージオウ』であり、平成ライダーという不格好なシリーズそのものもあるならば、その平成ライダーこそが自らを祝福せよとドヤ顔を決める、なんとも思い上がったシーンだ。

 

しかし、そこにどうしようもなくグッときてしまった視聴者は、もう決定的に、『ジオウ』の開き直りに屈していたのだろう。ある種の根負け、諦め。しかし平成ライダーは、そんな視聴者のうなだれる肩を抱きながら、自らを祝うように諭す。

 

『ジオウ』とは、一体なんだったのか。それは、平成ライダーというシリーズへの「セルフ賛歌」であり、ファンの思い入れや元号を人質に取りながら、共犯関係を積み上げていくような、不遜で図々しい作品。これほどまでに稀有な作品をリアルタイムで追いかけることができた、そこに達成感を覚えてしまうのも、仕掛けられた罠なのだろう。

 

罠、かかろうではないか。共犯関係、上等ではないか。血を吐き愚痴を漏らしながらも、私は『ジオウ』が好きだったと、そう声を大にして言いたい。ソウゴの、ゲイツの、ウォズの、ツクヨミの。そして沢山のレジェンドキャストやスタッフの。彼らの奮闘を、平成から令和に移りゆくこの一年に目撃できた、その危うげな達成感に、まずはゆっくりと浸かりたい。

 

さようなら、『仮面ライダージオウ』。ありがとう、平成仮面ライダー。

 

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