6月23日、ロシアの民間軍事会社「ワグネル」の創設者エフゲニー・プリゴジンが引き起こした反乱は世界に大きな波紋を広げた。翌24日には、ベラルーシのアレクサンドル・ルカシェンコ大統領の仲介でプリゴジンがモスクワへの進軍を停止し、制圧していた南部軍管区司令部からも撤退。これによって「プリゴジンの乱」自体は1日で終息した。
だが、プリゴジンが起こした波紋は現在も広がり続けている。そこで本稿では、現時点におけるごく限定的な情報をもとに、今回の事件がなぜ起きたのか、どれだけの影響を及ぼすのかについて考えてみたい。
「日陰者」の不満
今回の反乱の背景には、プーチン政権の「裏方」であるワグネルが表舞台に出てきてしまったという構造的な変化が存在している。
ワグネルが設立されたのは2010年代初頭のことと言われ、以降、ウクライナ、シリア、リビアへの秘密軍事介入や、アフリカ諸国における資源利権・政治的コネクションの獲得のために投入されてきた。その一方、ロシア政府は傭兵業を違法であるとする刑法の規定を変えようとせず、ワグネルもその他の民間軍事会社も存在しないと言い張ってきた。プリゴジン自身もワグネルとの関わりはおろか、その存在さえ認めていなかった。
状況が大きく変わったのは2022年にウクライナへの侵略が始まって以降のことだ。開戦から半年ほど経った昨年9月、プリゴジンは自らがワグネルの設立者であることを初めて認め、公然と刑務所を回っては傭兵として使えそうな囚人を物色し始めた。さらに年明けになると軍服に身を包んで激戦地バフムトの前線にまで姿を現し、プリゴジン=ワグネルを鮮明にしていく。
その一方で、連邦軍との対立は深まっていた。
バフムト制圧に関して連邦軍ばかりが脚光を浴び、ワグネルの手柄が無視されているとして、プリゴジンは公然と軍への不満を口にするようになった。依然としてワグネルは非合法組織なので国防省が彼らに言及できないことは当然なのだが、ともかく前線で一番血を流してきたのは自分たちなのだ、という自負がプリゴジンにはあるのだろう。こうした不満はシリアに送られたワグネル傭兵の手記にも出てくるものであり、日陰者であるが故のフラストレーションが組織的に溜まっていたような感じがしないでもない。
また、ワグネルは所詮、軽歩兵部隊であるということにも注意せねばならない。したがって、戦車や火砲などの重戦力は(基本的に)持たず、弾薬の補給や重傷者の治療といったロジスティクスは軍に頼ってきた。したがって、彼らがどれだけの戦力を発揮できるかは軍からの支援の大小にもかなりよってくるのだが、プリゴジン側からすると、この点にもかなりの不満があったらしい。
その結果が、戦死者の遺体が累々と並ぶ前でプリゴジンがショイグ国防相とゲラシモフ参謀長に「弾はどこだ!」と怒鳴る有名な動画へと繋がっていくわけである。
生き残りをかけての反乱
潮目が変わったのは6月10日、ショイグが7月1日までにワグネルの兵士に国防省と契約を結ぶよう命令を出したことだった。要するに通常の契約兵(志願兵のことをロシア軍ではこう呼ぶ)と同じ身分になれということであるが、とするとワグネルは事実上、ロシア国防省の傘下に入るということになってしまう。プリゴジンにとって受け入れ難い要求であることは明らかであった。また、プリゴジンは、国防省と契約を結ばないならば物資や装備も供給しないし戦闘にも参加させないと通告されていたという。
ショイグの命令から1週間後、プリゴジンは数名の部下とともにロシア国防省に乗り込み、2枚から成る書簡をショイグに手渡そうとした。国防省の傘下に入る代わりに、弾薬と重装備を必要なだけ供給することや運営資金の半分を国防省が出すことなどを要求したもので、要は国防省の下でも一定の独立を保つための条件闘争に移ったのだろう。
しかし、プリゴジンの文書は受け取りを拒否された。それどころか、ショイグをはじめとする国防省高官とさえ会うことができず、郵便窓口のようなところで……
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