社会学者の渡辺健太郎氏の週刊ゲンダイ掲載のエッセイ「日本の〈文系大卒男性〉から失われはじめた「リベラルさ」」とにコメントしろとリクエストが来たので拝読してみたのだが、どうも語義曖昧で誤謬推理になっている気がするし、言及している文献(渡辺氏自身のモノを含む!)の内容をよく吟味していないように感じた。ネット界隈の社会学者全般に言えると思うのだが、用語を慎重に定義・把握し、注意深く参考文献に言及して欲しい。
1. 独自定義される用語
「リベラルさ」の定義が独自定義になっている。「自身の恵まれた環境を振り返って他者を思いやることのできる公正観、そして、新たな社会を見通すことのできるイノベーティブな思考」となっているのだが、欧州風の伝統的なリベラリズムと米国風のものは異なるし、欧州風のにも米国風のにもイノベーティブな思考などと言うものは含まれないはず。
「新自由主義的な立場から行われる学問批判」と言うのは何であろうか。文系学問が役に立たない論は、新自由主義的な立場からのものと言えるのであろうか? — リバタリアンの理論的支柱と言われるノージックの権原理論から、文系学問が役に立たない論を導きだせるのであろうか?
リベラル・アーツの定義が支離滅裂になっている。「本記事内では、古典的な自由七科との学問領域的対応という文脈で、人文学・理学・芸術学をリベラル・アーツとして言及している」とあるのだが、理学とは物理学、化学、生物学、地球科学、天文学、数学など伝統的な自然科学分野全般をさすので、渡辺氏が説明するこの定義では新たな大卒人材を育成するものではないし、人文学、社会科学、自然科学の講義を雑多に履修できる米国のリベラル・アーツ・カレッジの教育内容とも異なる。「文系と理系という区分によって見過ごされた、リベラル・アーツ」ともあるし、書き間違えたのかも知れない。しかし、米国風のリベラル・アーツ・カレッジは、日本だと4年間教養学部のところが該当すると思うが少数で、かなり大きなサンプルを取らないとリベラル・アーツ・カレッジ出身者の特徴を掴めず、「非大卒層に比べ、リベラル・アーツ分野の大卒者は反権威主義的態度が強く、それ以外の社会科学や工学といった分野の大卒者は格差肯定意識が強い」と言えるような分析を出すのは大変そうであるが、渡辺氏らの研究ではそのような結果が得られたとある。また、「アカデミアや左派の側にしてみれば、リベラル・アーツという「最後の砦」を守るために、こうした批判に対して反論を試みる必要が生じる」とあるのだが、そもそもリベラル・アーツ・カレッジが日本にほとんど存在しない。
リベラルも新自由主義もリベラル・アーツも広くコンセンサスがある明快な定義があるわけではないが、それこそ他の人文学の研究に沿ったもので議論すべきであろう。
2. 計量分析での操作的定義の中身を見ていない
「リベラルさ」の逆を示す変数として新自由主義的価値観と権威主義的態度をとっているのだが、渡辺氏の意味でのリベラリズムの逆になる理由が説明されていない。参照している研究では何かの合成変数となっていると思うのだが、本当に渡辺氏の意味でのリベラリズムの逆を示しているのであろうか*1。
渡辺氏自身の論文である渡辺(2017)*2における「権威主義的態度」は、次の4種類の5段階評価の合成変数になっていた:「権威のある人々にはつねに敬意を払わなければならない」(権威),「以前からなされていたやり方を守ることが、最上の結果を生む」(従前),「伝統や習慣にしたがったやり方に疑問を持つ人は、結局は問題をひきおこすことになる」(伝統) ,「この複雑な世の中で何をなすべきかを知る一番よい方法は、指導者や専門家に頼ることである」(委任)。権威と委任、従前と伝統が同じモノをさしている気がするがそれはさておき、権威主義的なリベラリズムがあり得ないとは言い切れない。「教育機会が出身階層に依存するというのは、社会学の偉い研究者が不正だというから不正なのであろう」と権威主義的に考える人は、渡辺氏の意味でのリベラリズムに沿っていないと言えるのであろうか?
3. 言及している文献の内容をミスリードしている
「文系がリベラルだと考えられているためだ。例えば、各国の研究大学が採択した『Leiden Statement』という声明では、人文社会科学がリベラルな価値意識を養う学問分野として位置づけられている」とあるのだが、言及されている声明をざっと読む限りではそんな事は書いていない。少なくともリベラリズムと言う単語は無い。どこをどう解釈したら、人文社会科学が渡辺氏の意味でのリベラルな価値意識を養う学問分野と言えるのか詳細な説明が要る。
渡辺氏自身の論文である渡辺(2017)への言及も細部を誤魔化しているきらいがある。論文では「大学進学率が高まると、文系学部卒の男性は権威主義的態度を強めるということが確認された」「旧来の高学歴層に比して権威主義的な層が高学歴層に「流入」することで、結果として高学歴層の権威主義的態度は平均して高まった」と明確に書いてあるのだが、週刊ゲンダイ掲載のエッセイの方では大学進学率に関してまったく言及がされていない。なお、論文の方も大学が権威主義的態度を剥奪することを前提に分析が解釈してあって、苦しいことにはなっている。
人文・社会科学は別にリベラル思想を広めるために存在しないし、権威主義的な層が高学歴層に「流入」したから権威主義的になったのであって、大卒が保守化したことは社会の保守化に寄与しているとは言えないと言う話になったら、渡辺氏の議論が成立するように思えない。
4. まとめ
こういう隙が多い作文を一般に見せていると、社会学部は不要、文系学部は不要と言うような話になりかねない。用語はなるべく学術の世界で一般的な意味で定義し、参照している文献の操作的定義や説明に留意し、さらには言及している文献の内容をよく吟味して欲しい。そして、そのような計量分析があると言及するだけで、リベラル・アーツ・カレッジが渡辺氏の意味でのリベラさを育む理由が示されていないし、また、マルクス経済学の衰退でソーシャリズムの影響が低下した効果を見過ごしているし、ビジネスにおけるイノベーションで必要とされる「視野の広さ」に公正観がなぜか入っていることになっているし、論の甘さや視野の狭さや独善性を強く感じるので、その辺も考えて欲しい。
*1年末に入ってしまって、吉川 (2014)『現代日本の「社会の心」 — 計量社会意識論』と『社会意識からみた日本 — 階層意識の新次元』の確認は来年以降になった。関西社会学会での報告論文、渡辺・齋藤 (2019)「専攻分野による高学歴層の保守主義の分化」は公刊されておらずアクセスできないようなので、どこかに公開して欲しい。
追記(2020/01/11 16:14):吉川 (2014)は、pp.176–179に、SSP-I調査(2010年)の以下の社会的態度からつくった尺度をネオ・リベラリズム的格差間として分析しており、自由競争を重視しているが、再配分に否定的とは限らないところに注意が要る。
- チャンスが平等に与えられるなら、競争で貧富の差がついても仕方ない(+寄与)
- 競争の自由をまもるよりも、格差をなくしていくことの方が大切だ(- 〃 )
- 今後、日本では格差が広がってもかまわない(+ 〃 )
- 今の日本では収入の格差が大きすぎる(- 〃 )
*2渡辺健太郎,2017,「文系学部卒男性がもたらす若年層の権威主義化」『年報人間科学』38: 139-57.
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