停電のストレス

 計画停電を始めようとしたとき、東電の人も官僚や政治家あたりも「停電枠に入ってて、たまたま停電しなかったらみんなラッキーと思うだろう…」ぐらいに考えていたんじゃないかと思っています。
 準備はしてて、でも結局停電はなかったとしたらその時間は儲けもの。合理的に(他人事として)考えればそういうふうに見えるんじゃないかと。


 計画停電が突然アナウンスされた翌朝、私のところは第一グループ(か第三グループ)に割り当てられていて、十中八九第一で朝6時20分には電気が停まるはず…と思ってあわただしく準備してました。で、実際その時間になっても電気は来ていて、あれ?ちょうどには始まらないのか…と三十分ぐらい待ちましたが変わらず。おそるおそるテレビをつけてみると「今日の第一グループの停電は停止です」とか言ってます。


 停電するはずの時間に停電しないことに対して、私には不安感がありました。結構強いストレスを感じていたのです。そして、停電が無いということを聞いても「お得感」はまるで無く、むしろここまでやきもきさせて心配だけさせられたという腹立たしさが残っただけでした。
 心配させられて、身構えさせられたところの肩すかしは、かなり強くストレスになります。特に最初は全然情報(経験)もありませんでしたし、ほっとするなんてところは欠片もありませんでした。
 そして却って停電させられた時のストレスよりも、振り回されたストレスの方が蓄積するもののような気がします(少なくとも私にとってはそうでした)。


 その後出てきた「無計画停電だ」「不平等だ」というような声も、実際には停電するんだかしないんだかわからないストレス、そうしたもので醸された怒りがはけ口を求めて「正当性の口実」として押し出されてきたもののようにも思えます。


 むしろどうせ停電を押し付けるならはいここでやりますと決めて、実際の使用量はどうあれ、そしてそれほど停めなくていい場合でも(少々無駄になるとしても)グループ全体をバサッと切ってしまった方が、よしんば合理的では無いにせよ無駄なストレスを与えずに済んでいたんじゃないでしょうか?
 そしてそういう問答無用のやり方をする場合にはもっと対象地域を細分化して、停電する時間も一時間ほどにするとか、影響を軽減したうえで峻厳な措置を取るといった方策があったように思えるんです。


 おためごかしのぬるいやり方は「責任は取りたくない」もしくは「責められたくない」っていう弱さの反映と人々の目にうつります。責任は取るから問答無用という潔さ、そのへんのリーダーシップが非常時にはむしろ頼もしいんじゃないでしょうかね。命を賭けるという姿勢とはそういうものでしょう。


 情報開示を合理的にする。予測不能なものはわからないと言う。これも確かに正しい姿勢かと思います。でもそうやって判断を投げられた時、往々にして不合理な行動をとってしまうのですよ、人は。何百万人も居れば当然かなりの人がそうでしょう。


 危機的状況の時の情報伝達、混乱を未然に防ぐ行動要請、風評被害の防止のための言辞…いろいろ考えを練って、単に合理的であるとかいう域を越えた災害行動学的な(あるいは特殊政治的な)手法が考えられても良いように思いますね。

イメージとしては

 もちろんハリ・セルダンでしょうか…