蔦重が演出「華やかな吉原」に潜む"遊女の悲惨" エンタメ化されても遊廓の本質は「風俗街」

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吉原遊廓の本質はあくまでも「風俗街」だという(写真:健一郎/PIXTA)
1月5日から放送の始まったNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」。本作では、吉原の出身で、江戸の「メディア王」として活躍した蔦屋重三郎の活躍を描かれていくことになりますが、歴史評論家の永井義男氏は、蔦重が演出した華やかな吉原遊廓には「闇の側面」もあることを忘れてはいけないといいます。
そんな吉原の、まさに「苦界」ともいうべき過酷な一面について、永井氏の著書『蔦屋重三郎の生涯と吉原遊廓』から、一部を抜粋・編集して解説します。

「遊女三千」の吉原に生まれ育った蔦重

吉原遊廓については「江戸の文化の発信地」であるとか、「江戸の流行の源泉」とかさまざまな言われ方があります。しかし、その根本は公許の遊廓、つまり「風俗街」であり、そこで働く遊女は「風俗嬢」であるということです。吉原遊廓の本質はそこにあることを、まずは押さえなくてはいけないと思います。

公許の遊廓としてスタートした吉原は、1657(明暦3)年に、現在の日本橋人形町から台東区千束へと移転して、浅草寺の裏手に広がる田圃の中に新吉原が作られました。

時代によって多少の増減はありますが、千束へと移った新吉原の場合、2万坪ほどの敷地に、およそ1万人が居住していたとされます。

1846(弘化3)年の「町役人書上」によれば、男性1439人、女性7339人と総人口は8778人とされます。女性のうち遊女は4834人ですから、まさに女性たち、とりわけ遊女たちの活躍で成り立つ世界でした。俗に「遊女三千」と言われますが、おおよそ実際の数字と合っているのではないかと思われます。

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