水を守る森林篇第6話 -100年樹を伐るな!明治神宮外苑の再開発-
- 2023/10/27
- 22:59

明治神宮外苑の再開発計画の認可取り消しを求める訴訟の第1回口頭弁論が6月29日、東京地裁で開かれました。原告は、周辺地域の住民を含む市民や専門家、環境活動家ら59人。 東京都と小池百合子都知事を相手取り、神宮外苑再開発の認可取り消しと賠償、事業の執行停止を求めています。
外苑再開発とは、神宮球場と秩父宮ラグビー場を建て替え、高さ190メートルや185メートルなど、複数の商業高層ビルを建築しようという計画です。 原告は、その工事過程で多くの樹木が伐採され、歴史ある景観が損なわれること。また、新しい神宮球場の壁が、外苑のシンボルであるいちょう並木の間近まで迫るため、根を傷つけると警鐘。更に、事業者が提出した評価書に「誤りや虚偽がある」と指摘しています。
献木と青年団の植樹奉仕が造った森
明治神宮内外苑の樹木は全国から献木されたものです。
明治神宮は内苑を国費、外苑は寄付金で造られました。予算を切り詰めるため献木を呼びかけたところ、全国から申し込みが殺到。1918(大正7)年には原宿駅の引込線ホームに献木を積んだ貨車が多い日には30輌にも達し、献木は9万5000本を超えたそうです。 そして、それらの樹木は青年団の造営奉仕により植林されました。全国から駆け付けた青年団は209団体1万3000名(注1)。当時の人々が“明治”という時代に、いかに強い哀惜を抱いていたかが伺われます。
明治神宮外苑に籠められた“近代”
そもそも神宮外苑とはどのような位置づけから始まったのでしょう。
明治天皇大喪の儀は1912年(大正元年)9月13日夜、青山練兵場で執り行われ、翌14日天皇は京都の伏見桃山陵に埋葬されました。その大喪の儀が執り行われた青山練兵場を記念公園にしようというのが始まりです。
(正徳記念絵画館。写真は神宮外苑HP)
① 葬場殿趾記念物(棺の置かれた場所を記念する塔などを建造)
② 正徳記念絵画館(明治天皇を中心とした史実を写実画で展示)
③ 憲法記念館(現在の明治記念館です)
④ 陸上競技場
この原案をめぐりさまざまな意見、要請が巻き起こり活発な議論が重ねられました。時代は大正デモクラシー。リベラルでオープンな時代でした。議論は公表され新聞紙上には辛口な批判が掲載されます。
造営に関わった主要なメンバー(政治家、実業家、学者、建築家、造園などの研究者)は、渋沢栄一や本多静六をはじめ、みんな一時期をヨーロッパで過ごしたいわゆる“洋行帰り”です。
彼らは明治神宮を“近代日本を象徴する神社”にしたい、伝統の踏襲に留まらない“新たな空間”を創出したいと想い描いていました。この“近代日本を象徴する神社”というコンセプトは外苑の設計で顕著になります。
近代化とはイコール欧米化です。神宮外苑には彼らが咀嚼したヨーロッパが埋め込まれることになりました。
スポーツ施設(注2)は近代文化を代表する一つです。芝生の公園にスタジアムや美術館(絵画館)を配することは当然でした。表参道はシャンゼリゼ通り、絵画館はルーブル美術館などが下敷きにされたと伝えられています。
大災害が外苑に残したものとは
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災発生、造園中の外苑は罹災者に開放され、公設バラック(仮設建物)が設置されます。9月15日に着工、ほぼ3週間後の10月8日から罹災者の収容が始まりました。
(外苑バラック村。朝日新聞)
震災2か月後には、敷地1700坪の外苑に1800所帯、6700人を超える罹災者が収容されました。
外苑バラックには病院、公設市場、公衆浴場、炊飯所なども設置され、“外苑村”とも言える罹災者共同体が誕生しています。
バラック村は外苑の他に日比谷公園、芝公園、上野公園など計6か所に設置されたそうです。
大震災によって公園が担う社会的な役割が見直されます。東京市には震災後、52の小公園が整備されました。この公園造営の中心的な担い手、東京市公園課の井下清(いのしたきよし)(注3)は、
「公園とは闘争社会における生存をめぐる争いを緩和し、ここでこそ自由と平等が実現される場所」であり、「ルンペン(現在のホームレス)も当然、利用者である」としています。
更に、井下清は「民衆の憩いの場であると同時に保険事業、社会事業、教育事業の機能を果たすものである」とも語っています。
大震災は外苑造園にも、当然のことながら大きな影響を与えています。(次稿に続きます)
サザンの新曲「Relay~杜の詩」 桑田佳祐さんが込めた思い
デビュー45周年を迎えた
サザンオールスターズが、「Relay(リレー)~杜(もり)の詩(うた)」を発表。
外苑再開発に反対していた故・坂本龍一さんの問題提起を受けて創った新曲です。桑田佳祐さんはラジオ番組で「(樹を伐るのは)は非常にもったいない」という想いを歌に込めたと語っています。主な詞は、
「誰かが悲嘆(なげ)いてた 美しい杜が消滅(き)えるのを」
「麗しいオアシスが アスファルト・ジャングルに変わっちゃうの?」
「未来の都市が空を塞いで良いの?」
歌詞の最後は「意志を継(つ)ないで この杜(ここ)が好きだよ」と締めくくられています。
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注1)全国から駆け付けた青年団は209団体1万3000名:今泉宣子著「明治神宮―伝統を創った大プロジェクト」新潮社2013年刊、225頁。
注2)スポーツ施設:この時代のスポーツは富国強兵の一環でもあった。
注3)東京市公園課の井下清:東京の公園行政の基礎を築き、多摩霊園など墓地霊園制度の整備にも尽力した造園家(1884~1973年)。本多静六の教え子でもある。井下の言説は皆川真希著「東京史」ちくま新書2023年刊による。