がんすり

世界系とか言ってるのうざいです。
この種の新語、造語を使うと反論が封じられるというのがまずある。<教養小説>であるとか<シュールレアリスム>であるとかなら、面倒見のいいツッコミ役が「本来の意味」なり「評論用語としての文脈」なりを参照してツッコミを入れてくれる可能性もあるけれど、造語は「俺の中でこうだから」で完結してしまう。あるいは、ネットの言葉を鵜呑みにしてどっか別の飲みの席で「○○は教養小説として…」と思わず言ってしまっても「いや、それ意味わかんねえし。教養小説って○○って意味じゃねえの?」といったストッパーがあることも期待できるが、造語は期待できない。
次。定義が雑。
社会てナニ。近代国家? 脱近代? ならそう書けって。
手法の稚拙さを指摘したそうに見えるわりには、どの作品のどの手法のどの部分がどう稚拙なのかを具体的に指摘しない。数学の問題を解くときに法学は参照しないし、逆もまた然り。で、創作て普通、アカデミックな手法や政治的な手法から取りこぼされてくモノや過程を取り上げてると思うんだけど、ナニを参照しないとシャカイとやらが抜けてることになるんでしょう。読者のイメージする常識的な社会制度が健全に施行されてる状態? そーゆーのが踏襲されてる小説を読みたいのデスか。いいけど。
次。
フィーリングオンリーで十把一絡げにまとめて呼んでるものを評論ぽく見せかける態度は何て言うの。そーゆーのは「中抜き」にならないんですかね。世界系評論。
次。
人類滅亡であるとか最終戦争であるとかいった単語の扱いについては、イメージの発生元から辿ったほうがいい。そうすっと、要するにそのイメージを管理してきた文法や表現形式が立ち腐れてんのに、そこにしがみついてる人たちってのも見えてくる。人類滅亡や最終戦争はとっくの昔に好きな子への告白と同列に扱われる代物。横並びのガジェットの中から好きなのを選ぶ、その中で偶々、最終戦争が選ばれたにすぎない。
次。
世界系て単語について真面目に文芸評論の遡上に載せようとしてる人たちもいるわけだが(割と初期にこの単語を普及させる役割を果たした惑星開発委員会の用語集の記事も一応はそういう意図で書いてたはず)あまり成功してるように見えない。これは、元の囲いが大きすぎて雑すぎるせいでもあるし、世界系て単語の持つイメージ喚起が作品解析を妨げるからでもある。なにせ該当する作品は本来ならあるはずのもの、必要なものが欠落していると定義されるのである。ナニが欠落してるのかは論者の好みとなってしまえば、経済学的な考察が抜け落ちている、歴史考察が抜け落ちている、といった具合で大概の作品は当てはまってしまう。さらに言うと、「抜け落ちている」という部分を強調することで、創作の、何かを「作り出している」という部分が評論対象から回避されるようになってしまっているのが、世界系という単語のイメージ喚起力なわけ。
とりあえずそんなん。思いついたら追記するかも。