2006年04月10日
三村踊り節
三村踊り節
みむら うぅどぅいぶし
mimura wuduibushi
語句・みむら 本土にもあるが、沖縄では昔から近隣する二つ、ないし三つの村を並べて呼ぶことが多い。「二村落連称」などと呼ぶ。(例:「スーキカンナー」)同じ名前の村が多いことから区別するため、という説もあるが例外も多く根拠は不明。・うどぅい 踊り。
作者不詳
一、小禄 豊見城 垣花 三村 三村のアン小達が揃とて布織い話 綾まみぐなよ 元かんじゅんど
'うるくてぃみぐしく かちぬはなみむら みむらぬ'あんぐゎーたーが すりとーてぃぬぬ'ういばなし 'あやまみぐなよーむとぅかんじゅんどー
'uruku timigushiku kachinuhana mimuranu 'aNgwaataa ga suritooti nunu'uibanashi 'ayamamiguna yoo mutukaNjuN doo
◯小禄 豊見城 垣花という三つの村 三つの村の姉さん達が揃って布織り話 模様を間違えるなよ 元が取れず損をするぞ
語句・あんぐゎーたー姉さんたち。「あんぐゎー」は平民の若い女性を指す。+たー 達。・すりとーてぃ 揃っていて。<すりてぃ 揃って。<すりゆん 揃う。+うてぃ<うゆん → 揃って居て。・ぬぬうい 小禄紺地(うるくくんじ)を指していると思われる。小禄紺地とは、17世紀から始まった木綿布で作られた紺地の絣。1611年に儀間真常が薩摩から木綿の種を持ち帰り栽培した。そして儀間真常も木綿の生産を勧めた。木綿を琉球藍で染めることで本土にはない味わいの琉球紺絣が生まれた。戦前まで生産され九州などで好評だったが沖縄戦で伝統が途絶えた。現在復活させる活動が行われている。参照「小禄間切口説」・あや 「縞。着物などの縞をいう。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・まみぐな <まみじゅん。「取り違える。間違える。」【沖辞】。否定形「まみがん」の命令形は「まみぐな」。・むとぅ 元。・かんじゅん「(負債などを)負う。損をする」【沖辞】。むとぅかんじゅん「(商売)で元がとれずに、損をする。」【沖辞】。
二 上泊 泊 元の泊と三村三村のニ才達がすりとーて塩炊き話 雨降らすなよ 元かんじゅんど
'うぃーどぅまい とぅまい むとぅぬとぅまいとぅみむら みむらぬにせたーがすりとーてぃまーすたちばなし'あみふらすなよ むとぅかんじゅんどー
'wiidumai tumai mutunu tumai tu mimura mimura nu nisetaa ga suritooti maasa tachibanashi 'amihusasuna yoo
◯上泊 泊 元の泊という三つの村、三つの村の青年達が揃って塩炊き話 雨を降らすなよ 元が取れず損をするぞ
語句・うぃーどぅまい 現在の「おもろまち」あたりにあった古い村。・とぅまい現在の泊。三山時代から八重山宮古などの船が着く港であり、泊と「浮島」と呼ばれた那覇の間にあった潟原という干潟に塩田があった。・ますたち 塩炊き。塩を作るための工程。たち<たちゅん 炊く、煮る。泊にあった塩田は薩摩から導入された入浜式塩田方式というもの。潮の干満を利用して海水を集め、太陽の熱と砂の毛細管現象を利用してかん水(濃度の高い塩水)を作り、それを薪燃やして煮詰めて塩を生産する方法。雨が降るとかん水も薄まり、塩炊きもできなくなる。
三、辻仲島と渡地と三村 三村の尾類小達がすりとーて客待ち話 美ら二才からはい行ちゃらなや
ちーじなかしまとぅ わたんじとぅみむら みむらぬじゅりぐゎーたーがすりとーてぃ ちゃくまちばなし ちゅらにせからはい'いちゃらなや
chiiji nakashima wataNji tu mimura mimura nu jurigwaataa ga suritooti chakumachibanashi chura nisee kara hai'icharanara
◯辻、仲島、渡地という三つの村 三つの村の女郎達が揃って客(を)待ち(ながらの)話 美しい青年に早く会いたいな
語句・じゅり 女郎。娼妓。「じゅり」という言葉は九州方言と関わりがあるといわれている。「<料理;‘尾類’」と書かれ旧かなは‘づり’;‘料理茶屋の女’意;‘女郎’系ではなく九州諸方言〔鹿児島でジョーリ[料理]の影響らしい〕」【琉辞】遊郭の制度は尚真王の時代、羽地朝秀(1617ー1675年)が1672年、辻、仲島に遊郭を公設したことに始まる。背景には薩摩藩からの指示があったと推測される。・はいいちゃらなや 早く逢いたいな。<はい 走って。早く。+ <いちゃゆん 会う。
四、潮平 兼城 糸満と三村 三村のアン小達が揃とて魚売り話安売りすなよ元かんじゅんど
すんじゃかなぐしく'いちまんとぅみむらぬ'あんぐわーたーがすりとーてー'いゆ'ういばなし やし'ういすなよーむとぅかんじゅんどー
suNja kanagushiku 'ichimaN tu mimura mimura nu 'aNgwaataa ga suritooti 'iyu'uibanashi yashi'uisunayoo mutukaNjuNdoo
◯潮平、兼城、糸満という三つの村 三つの村の姉さん達が揃って魚売り話 安売りをするなよ 元が取れず損をするぞ
語句・いゆ 魚。
五、赤田 鳥小堀 崎山と三村 三村の二才達が揃とて酒たり話麹できらしよ元かんじゅんど
'あかたとぅんじゅむいさちやまとぅみむら みむらぬにせたーがすりとーてぃ さきたりばなし こーじでぃきらしよーむとぅかんじゅんどー
'akata tuNjumui sachiyama tu mimura mimura nu nisetaa ga suritooti sakitaribanashi koojidikirashiyoo mutukaNjuNdoo
◯赤田、鳥小堀、崎山という三つの村 三つの村の青年達が揃っていて酒醸造話 麹をうまく醗酵させろよ 元が取れず損をするぞ
語句・あかたとぅんじゅむいさちやま 首里の赤田、鳥小堀、崎山という三つの村。泡盛の醸造が盛んだった場所で、醸造所は戦前まで10数軒あった。・さきたり 「酒の醸造」【琉辞】。「たりゆん」は「(酒や醤油)を作る」【琉辞】つまり、醸造の意味がある。・こーじでぃきらし 麹をうまく醗酵させろ。 でぃきらし<でぃきらしゅん 成功させる。 の命令形。 麹の「成功」とは「醗酵する」こと。
概要
那覇市のゆいレールに乗ると、駅ごとに民謡のオルゴール音が流れる仕組みになっていて、この「三村踊り節」は「小禄駅」に接近すると流れてくる。
軽快な早弾きで、沖縄音階で出来ている。人気の高い曲の一つだ。
舞踊曲でもある「取納奉行節」とほぼ同じメロディーである。
歌詞には沖縄本島南部の村の名前を三つ並べて併称し、その地域の名産品にまつわる話を盛り込んでいる。村名を併称するのは民謡「スーキカンナー」にもみられる。
歌詞についてみてみよう。
一番【小禄・豊見城・垣花】について
一番は「布織」をしながら世間話をしている女性達が登場する。
この辺りは小禄紺地(ウルククンジー)の産地で、1611年に儀間真常が薩摩から木綿の種を持ち帰り栽培した。そして儀間真常もこの地域での木綿の生産を勧めた。木綿を琉球藍で染めることで本土にはない味わいの琉球紺絣が生まれた。小禄紺地の特徴は小絣(模様が小さく多い)であること、何度も藍染を重ねていることに特徴があるという。戦前まで生産され九州などで好評だったが沖縄戦で伝統が途絶えた。現在復活させる活動が行われている。
▲小禄南公民館にある小禄紺地。小絣の複雑な幾何学模様が特徴。
機織りは女性たちの仕事だった。ヤガマーという作業をする家に集まり徹夜の作業もあった。この歌詞では「あんぐぁーたー」、若い女性達が話に気をとられて糸を間違えばやり直しをしなければならず、大損するぞ、と戒められている。
那覇の古地図に三村の位置を書き込んでみる。
(スタンフォード大学がインターネットで公開している大日本帝国陸軍測図の地形図に加筆。1910年頃ー明治40年台に測量されたもの)
古地図といっても測量されたものでは1910年頃のものが最も古い。昔の村の大まかな位置を理解するために古地図に地名を入れた。
二番【上泊・泊・元の泊】について
二番は塩炊きの話だ。地名として出てくる上泊(うぃーどぅまい)は明確ではないが現在の那覇市立泊小学校あたりではないか。はっきりしない。
「元の泊」(むとぅぬとぅまい)は通称で現在の前島(昔潟原と呼ばれる地域で、塩田があった)あたりではないか。
この二番の歌詞「塩炊き」(まーすたち)を理解するためには琉球、泊村での製塩について知らなければならない。
まずはその様子を知る手がかりとして貴重な絵が二つある。
(那覇市歴史博物館 デジタルミュージアムより)
「バジルホール・ペリー航海記等関係写真/拡大写真2枚あり/青い目が見た大琉球 P137 写真番号211を参照/那覇と泊の潟原には広大な入浜式塩田が広がっていた。この絵は泊潟原である。遠方に天久聖現時と泊高橋が見える。」(同上)
この絵の下側の絵は上の一部を私が拡大したもので、塩田から塩水(かん水)のようなものを甕に入れて運び手前の窯のようなものに入れている。その下には火を起こしているような人の姿も描かれている。
沖縄の塩、といえば今では「島マース」として人気があるが、その塩の歴史を見るとそれほど古いものではない。
17世紀頃、薩摩藩から製塩の方法が導入された。それまでは海水から塩を作る技術がなく、海水を直接 調理に利用したり、薩摩藩や薩摩商人から高い塩を買わねばならなかった。海水を煮詰めるには大量の薪が必要となり、山が少ない琉球の島々では薪も自由ではなかった。
泉崎の宮城芝香は薩摩の弓削次郎右衛門から入浜式の塩づくりの方法を習得し、1694年(元禄7年)に泊に塩田を作った。この入浜式は琉球諸島にも広がって行くが、米軍の統治下まで続いていたという。
入浜式とは、簡単に言えば、それまでの手で海水を砂にまいて塩分濃度を高めるやり方ではなく、潮の干満を利用してかん水(塩分濃度の高い水)を作る方法。それを炊いて塩を作る。
さてもう一つの絵は「琉球貿易港図屏風」だ。薩摩藩への土産として琉球の絵師達が描いた物だとみられている。そこに泊潟原での塩田が描かれている。
「琉球貿易港図屏風」(浦添市美術館蔵)全体図
部分図。地名を書き込んである。
Google mapからの写真だが、塩田があった潟原は現在は前島という地名だ。那覇市前島1丁目3の公園に「泊塩田之跡碑」がある。
三番【辻・仲島・渡地】について
この三つの遊郭が「仲島節」でも取り上げた「沖縄志」(伊地知 貞馨著)に描かれている。沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫にある。
伊地知(1826-1887)は薩摩藩出身の明治時代の官僚だ。この伊地知が1877(明治10)年に書いたこの本の第1巻に「那覇港圖」がある。
現代の地図、google mapに地名を重ねてみた。
「じゅり」と呼ばれる琉球王朝時代の女郎については、これまでも「さらうてぃ口説」や「仲島節」などでも取り上げてきた。遊郭が制度として薩摩藩からの要請で整備されたということは「じゅり」という言葉が九州方言の「じゅーり」(料理)からきていると言われていることにも表れている。
「さらうてぃ口説」で書いたが、遊郭が長年にわたる女性蔑視、人身売買の根源であることは歴史的に間違いない。しかし、そこで生み出された芸能、文化はきわめて琉球文化を理解する上で重要であるということは私などが言うまでもないことであろう。
例えば、吉屋チルーという琉球時代の女流詩人は読谷に生まれ8歳のとき那覇仲島へ遊女として身売りされた。このように大半が地方の貧困層、つまり士族以外の平民の娘が身売りさせられた。女郎は琉球では「ジュリ」と呼ばれた。遊郭は自治制度があり女性だけで管理され、ジュリアンマー(女郎の抱え親)と呼ばれる人々が母子関係を結び、歌や三線、舞踊などの芸事を教えていった。
遊郭は各地にあったが、尚真王の時代、羽地朝秀(1617ー1675年)が1672年、辻、仲島に遊郭を公設した。背景には薩摩藩からの指示があったと推測されるが、遊郭の管理を王府として行う事で風紀の乱れを防止しようとした。そして琉球王朝が廃藩置県で沖縄県となり、太平洋戦争で米軍によって空襲を受けるまで辻、仲島の遊郭は存在し続けたのである。
沖縄語辞典(国立国語研究所編)には「辻」の項でこうある。
「[辻]那覇にあった遊郭の名。本土人・中国人・首里・那覇の上流人を相手とした高級な遊郭であった。那覇にはciizi,nakasima[中島],wataNzi[渡地]の三つの遊郭があり、ciiziが高級で、nakasimaは首里・中島相手、wataNziはいなか相手と、それぞれ、客の層が違っていた」
本土人とは主に薩摩藩の役人で、中国人とは冊封使のことである。それ以外、商人なども含まれる。遊郭で展開された琉球芸能は表に出ることがほとんどなく記録も非常に少ない。
それでも琉球古典音楽や舞踊、さらには地方の祭祀や芸能も含め、琉球芸能の重要な部分を構成していたと言われている。琉球王朝の文化である古典音楽も含め遊郭の中で展開された芸能との関わりは無視できない。
この三番の歌詞が省略されて歌われることも多い。
四番 【潮平・兼城・糸満】について
糸満は昔から沖縄を代表する漁師町であり、戦前までは大型追い込み漁が続けられていた。
漁をするのは男性で、それを買い、さらに町で高く売る役目は多くは女性だった。
したがって、この四番の歌詞の主人公は女性となっている。
三村の位置を確認しよう。
五番 【赤田・鳥小堀・崎山】について
「首里古地図の全体図」【沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫】より「赤田、鳥小堀、崎山」の地名を書き入れた。
「首里三箇(しゅりさんか)」と呼ばれ、この三つのむらでは琉球王朝により酒(泡盛)の醸造が許可された。
当時の醸造所で、現在ものこっているのは瑞穂酒造、咲元酒造、瑞泉酒造、石川酒造場、崎山酒造廠、比嘉酒造、識名酒造。
ほとんど移転してしまい、現在あるのは咲元酒造(鳥堀)、瑞泉酒造(崎山)、識名酒造(赤田)の三醸造所になっている。
琉歌との関係
ところで「琉歌大成」にはこの唄の元になると思われる琉歌は一首だけある。
小禄豊見城垣花三村あんに誰が捨てて布織りばなし
うるく とぅみぐしく かちぬはな みむら あんにたがしてぃてぃ ぬぬういばなし
しかし、この本では珍しく、大意は「不勘」(不詳の意味)と書かれている。「あんに」の意味が不明なのだと思われる。
みむら うぅどぅいぶし
mimura wuduibushi
語句・みむら 本土にもあるが、沖縄では昔から近隣する二つ、ないし三つの村を並べて呼ぶことが多い。「二村落連称」などと呼ぶ。(例:「スーキカンナー」)同じ名前の村が多いことから区別するため、という説もあるが例外も多く根拠は不明。・うどぅい 踊り。
作者不詳
一、小禄 豊見城 垣花 三村 三村のアン小達が揃とて布織い話 綾まみぐなよ 元かんじゅんど
'うるくてぃみぐしく かちぬはなみむら みむらぬ'あんぐゎーたーが すりとーてぃぬぬ'ういばなし 'あやまみぐなよーむとぅかんじゅんどー
'uruku timigushiku kachinuhana mimuranu 'aNgwaataa ga suritooti nunu'uibanashi 'ayamamiguna yoo mutukaNjuN doo
◯小禄 豊見城 垣花という三つの村 三つの村の姉さん達が揃って布織り話 模様を間違えるなよ 元が取れず損をするぞ
語句・あんぐゎーたー姉さんたち。「あんぐゎー」は平民の若い女性を指す。+たー 達。・すりとーてぃ 揃っていて。<すりてぃ 揃って。<すりゆん 揃う。+うてぃ<うゆん → 揃って居て。・ぬぬうい 小禄紺地(うるくくんじ)を指していると思われる。小禄紺地とは、17世紀から始まった木綿布で作られた紺地の絣。1611年に儀間真常が薩摩から木綿の種を持ち帰り栽培した。そして儀間真常も木綿の生産を勧めた。木綿を琉球藍で染めることで本土にはない味わいの琉球紺絣が生まれた。戦前まで生産され九州などで好評だったが沖縄戦で伝統が途絶えた。現在復活させる活動が行われている。参照「小禄間切口説」・あや 「縞。着物などの縞をいう。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・まみぐな <まみじゅん。「取り違える。間違える。」【沖辞】。否定形「まみがん」の命令形は「まみぐな」。・むとぅ 元。・かんじゅん「(負債などを)負う。損をする」【沖辞】。むとぅかんじゅん「(商売)で元がとれずに、損をする。」【沖辞】。
二 上泊 泊 元の泊と三村三村のニ才達がすりとーて塩炊き話 雨降らすなよ 元かんじゅんど
'うぃーどぅまい とぅまい むとぅぬとぅまいとぅみむら みむらぬにせたーがすりとーてぃまーすたちばなし'あみふらすなよ むとぅかんじゅんどー
'wiidumai tumai mutunu tumai tu mimura mimura nu nisetaa ga suritooti maasa tachibanashi 'amihusasuna yoo
◯上泊 泊 元の泊という三つの村、三つの村の青年達が揃って塩炊き話 雨を降らすなよ 元が取れず損をするぞ
語句・うぃーどぅまい 現在の「おもろまち」あたりにあった古い村。・とぅまい現在の泊。三山時代から八重山宮古などの船が着く港であり、泊と「浮島」と呼ばれた那覇の間にあった潟原という干潟に塩田があった。・ますたち 塩炊き。塩を作るための工程。たち<たちゅん 炊く、煮る。泊にあった塩田は薩摩から導入された入浜式塩田方式というもの。潮の干満を利用して海水を集め、太陽の熱と砂の毛細管現象を利用してかん水(濃度の高い塩水)を作り、それを薪燃やして煮詰めて塩を生産する方法。雨が降るとかん水も薄まり、塩炊きもできなくなる。
三、辻仲島と渡地と三村 三村の尾類小達がすりとーて客待ち話 美ら二才からはい行ちゃらなや
ちーじなかしまとぅ わたんじとぅみむら みむらぬじゅりぐゎーたーがすりとーてぃ ちゃくまちばなし ちゅらにせからはい'いちゃらなや
chiiji nakashima wataNji tu mimura mimura nu jurigwaataa ga suritooti chakumachibanashi chura nisee kara hai'icharanara
◯辻、仲島、渡地という三つの村 三つの村の女郎達が揃って客(を)待ち(ながらの)話 美しい青年に早く会いたいな
語句・じゅり 女郎。娼妓。「じゅり」という言葉は九州方言と関わりがあるといわれている。「<料理;‘尾類’」と書かれ旧かなは‘づり’;‘料理茶屋の女’意;‘女郎’系ではなく九州諸方言〔鹿児島でジョーリ[料理]の影響らしい〕」【琉辞】遊郭の制度は尚真王の時代、羽地朝秀(1617ー1675年)が1672年、辻、仲島に遊郭を公設したことに始まる。背景には薩摩藩からの指示があったと推測される。・はいいちゃらなや 早く逢いたいな。<はい 走って。早く。+ <いちゃゆん 会う。
四、潮平 兼城 糸満と三村 三村のアン小達が揃とて魚売り話安売りすなよ元かんじゅんど
すんじゃかなぐしく'いちまんとぅみむらぬ'あんぐわーたーがすりとーてー'いゆ'ういばなし やし'ういすなよーむとぅかんじゅんどー
suNja kanagushiku 'ichimaN tu mimura mimura nu 'aNgwaataa ga suritooti 'iyu'uibanashi yashi'uisunayoo mutukaNjuNdoo
◯潮平、兼城、糸満という三つの村 三つの村の姉さん達が揃って魚売り話 安売りをするなよ 元が取れず損をするぞ
語句・いゆ 魚。
五、赤田 鳥小堀 崎山と三村 三村の二才達が揃とて酒たり話麹できらしよ元かんじゅんど
'あかたとぅんじゅむいさちやまとぅみむら みむらぬにせたーがすりとーてぃ さきたりばなし こーじでぃきらしよーむとぅかんじゅんどー
'akata tuNjumui sachiyama tu mimura mimura nu nisetaa ga suritooti sakitaribanashi koojidikirashiyoo mutukaNjuNdoo
◯赤田、鳥小堀、崎山という三つの村 三つの村の青年達が揃っていて酒醸造話 麹をうまく醗酵させろよ 元が取れず損をするぞ
語句・あかたとぅんじゅむいさちやま 首里の赤田、鳥小堀、崎山という三つの村。泡盛の醸造が盛んだった場所で、醸造所は戦前まで10数軒あった。・さきたり 「酒の醸造」【琉辞】。「たりゆん」は「(酒や醤油)を作る」【琉辞】つまり、醸造の意味がある。・こーじでぃきらし 麹をうまく醗酵させろ。 でぃきらし<でぃきらしゅん 成功させる。 の命令形。 麹の「成功」とは「醗酵する」こと。
概要
那覇市のゆいレールに乗ると、駅ごとに民謡のオルゴール音が流れる仕組みになっていて、この「三村踊り節」は「小禄駅」に接近すると流れてくる。
軽快な早弾きで、沖縄音階で出来ている。人気の高い曲の一つだ。
舞踊曲でもある「取納奉行節」とほぼ同じメロディーである。
歌詞には沖縄本島南部の村の名前を三つ並べて併称し、その地域の名産品にまつわる話を盛り込んでいる。村名を併称するのは民謡「スーキカンナー」にもみられる。
歌詞についてみてみよう。
一番【小禄・豊見城・垣花】について
一番は「布織」をしながら世間話をしている女性達が登場する。
この辺りは小禄紺地(ウルククンジー)の産地で、1611年に儀間真常が薩摩から木綿の種を持ち帰り栽培した。そして儀間真常もこの地域での木綿の生産を勧めた。木綿を琉球藍で染めることで本土にはない味わいの琉球紺絣が生まれた。小禄紺地の特徴は小絣(模様が小さく多い)であること、何度も藍染を重ねていることに特徴があるという。戦前まで生産され九州などで好評だったが沖縄戦で伝統が途絶えた。現在復活させる活動が行われている。
▲小禄南公民館にある小禄紺地。小絣の複雑な幾何学模様が特徴。
機織りは女性たちの仕事だった。ヤガマーという作業をする家に集まり徹夜の作業もあった。この歌詞では「あんぐぁーたー」、若い女性達が話に気をとられて糸を間違えばやり直しをしなければならず、大損するぞ、と戒められている。
那覇の古地図に三村の位置を書き込んでみる。
(スタンフォード大学がインターネットで公開している大日本帝国陸軍測図の地形図に加筆。1910年頃ー明治40年台に測量されたもの)
古地図といっても測量されたものでは1910年頃のものが最も古い。昔の村の大まかな位置を理解するために古地図に地名を入れた。
二番【上泊・泊・元の泊】について
二番は塩炊きの話だ。地名として出てくる上泊(うぃーどぅまい)は明確ではないが現在の那覇市立泊小学校あたりではないか。はっきりしない。
「元の泊」(むとぅぬとぅまい)は通称で現在の前島(昔潟原と呼ばれる地域で、塩田があった)あたりではないか。
この二番の歌詞「塩炊き」(まーすたち)を理解するためには琉球、泊村での製塩について知らなければならない。
まずはその様子を知る手がかりとして貴重な絵が二つある。
(那覇市歴史博物館 デジタルミュージアムより)
「バジルホール・ペリー航海記等関係写真/拡大写真2枚あり/青い目が見た大琉球 P137 写真番号211を参照/那覇と泊の潟原には広大な入浜式塩田が広がっていた。この絵は泊潟原である。遠方に天久聖現時と泊高橋が見える。」(同上)
この絵の下側の絵は上の一部を私が拡大したもので、塩田から塩水(かん水)のようなものを甕に入れて運び手前の窯のようなものに入れている。その下には火を起こしているような人の姿も描かれている。
沖縄の塩、といえば今では「島マース」として人気があるが、その塩の歴史を見るとそれほど古いものではない。
17世紀頃、薩摩藩から製塩の方法が導入された。それまでは海水から塩を作る技術がなく、海水を直接 調理に利用したり、薩摩藩や薩摩商人から高い塩を買わねばならなかった。海水を煮詰めるには大量の薪が必要となり、山が少ない琉球の島々では薪も自由ではなかった。
泉崎の宮城芝香は薩摩の弓削次郎右衛門から入浜式の塩づくりの方法を習得し、1694年(元禄7年)に泊に塩田を作った。この入浜式は琉球諸島にも広がって行くが、米軍の統治下まで続いていたという。
入浜式とは、簡単に言えば、それまでの手で海水を砂にまいて塩分濃度を高めるやり方ではなく、潮の干満を利用してかん水(塩分濃度の高い水)を作る方法。それを炊いて塩を作る。
さてもう一つの絵は「琉球貿易港図屏風」だ。薩摩藩への土産として琉球の絵師達が描いた物だとみられている。そこに泊潟原での塩田が描かれている。
「琉球貿易港図屏風」(浦添市美術館蔵)全体図
部分図。地名を書き込んである。
Google mapからの写真だが、塩田があった潟原は現在は前島という地名だ。那覇市前島1丁目3の公園に「泊塩田之跡碑」がある。
三番【辻・仲島・渡地】について
この三つの遊郭が「仲島節」でも取り上げた「沖縄志」(伊地知 貞馨著)に描かれている。沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫にある。
伊地知(1826-1887)は薩摩藩出身の明治時代の官僚だ。この伊地知が1877(明治10)年に書いたこの本の第1巻に「那覇港圖」がある。
現代の地図、google mapに地名を重ねてみた。
「じゅり」と呼ばれる琉球王朝時代の女郎については、これまでも「さらうてぃ口説」や「仲島節」などでも取り上げてきた。遊郭が制度として薩摩藩からの要請で整備されたということは「じゅり」という言葉が九州方言の「じゅーり」(料理)からきていると言われていることにも表れている。
「さらうてぃ口説」で書いたが、遊郭が長年にわたる女性蔑視、人身売買の根源であることは歴史的に間違いない。しかし、そこで生み出された芸能、文化はきわめて琉球文化を理解する上で重要であるということは私などが言うまでもないことであろう。
例えば、吉屋チルーという琉球時代の女流詩人は読谷に生まれ8歳のとき那覇仲島へ遊女として身売りされた。このように大半が地方の貧困層、つまり士族以外の平民の娘が身売りさせられた。女郎は琉球では「ジュリ」と呼ばれた。遊郭は自治制度があり女性だけで管理され、ジュリアンマー(女郎の抱え親)と呼ばれる人々が母子関係を結び、歌や三線、舞踊などの芸事を教えていった。
遊郭は各地にあったが、尚真王の時代、羽地朝秀(1617ー1675年)が1672年、辻、仲島に遊郭を公設した。背景には薩摩藩からの指示があったと推測されるが、遊郭の管理を王府として行う事で風紀の乱れを防止しようとした。そして琉球王朝が廃藩置県で沖縄県となり、太平洋戦争で米軍によって空襲を受けるまで辻、仲島の遊郭は存在し続けたのである。
沖縄語辞典(国立国語研究所編)には「辻」の項でこうある。
「[辻]那覇にあった遊郭の名。本土人・中国人・首里・那覇の上流人を相手とした高級な遊郭であった。那覇にはciizi,nakasima[中島],wataNzi[渡地]の三つの遊郭があり、ciiziが高級で、nakasimaは首里・中島相手、wataNziはいなか相手と、それぞれ、客の層が違っていた」
本土人とは主に薩摩藩の役人で、中国人とは冊封使のことである。それ以外、商人なども含まれる。遊郭で展開された琉球芸能は表に出ることがほとんどなく記録も非常に少ない。
それでも琉球古典音楽や舞踊、さらには地方の祭祀や芸能も含め、琉球芸能の重要な部分を構成していたと言われている。琉球王朝の文化である古典音楽も含め遊郭の中で展開された芸能との関わりは無視できない。
この三番の歌詞が省略されて歌われることも多い。
四番 【潮平・兼城・糸満】について
糸満は昔から沖縄を代表する漁師町であり、戦前までは大型追い込み漁が続けられていた。
漁をするのは男性で、それを買い、さらに町で高く売る役目は多くは女性だった。
したがって、この四番の歌詞の主人公は女性となっている。
三村の位置を確認しよう。
五番 【赤田・鳥小堀・崎山】について
「首里古地図の全体図」【沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫】より「赤田、鳥小堀、崎山」の地名を書き入れた。
「首里三箇(しゅりさんか)」と呼ばれ、この三つのむらでは琉球王朝により酒(泡盛)の醸造が許可された。
当時の醸造所で、現在ものこっているのは瑞穂酒造、咲元酒造、瑞泉酒造、石川酒造場、崎山酒造廠、比嘉酒造、識名酒造。
ほとんど移転してしまい、現在あるのは咲元酒造(鳥堀)、瑞泉酒造(崎山)、識名酒造(赤田)の三醸造所になっている。
琉歌との関係
ところで「琉歌大成」にはこの唄の元になると思われる琉歌は一首だけある。
小禄豊見城垣花三村あんに誰が捨てて布織りばなし
うるく とぅみぐしく かちぬはな みむら あんにたがしてぃてぃ ぬぬういばなし
しかし、この本では珍しく、大意は「不勘」(不詳の意味)と書かれている。「あんに」の意味が不明なのだと思われる。
この記事へのコメント
私は結婚して本土に住むウチナーチュです。ブログみました!すごく懐かしくなりました。沖縄独特の言葉、音楽すごく好きです!
リクエストと言うか‥訳して欲しい曲があります?タイトルと歌手名が分からなくて‥父が元気な時によく歌ってたんです。
カナダサンドーヤー
カナサンドー
ワネウムトンドゥー‥まだ小さい頃に聞いただけなんで〜ヒントすくなすぎますかね?
リクエストと言うか‥訳して欲しい曲があります?タイトルと歌手名が分からなくて‥父が元気な時によく歌ってたんです。
カナダサンドーヤー
カナサンドー
ワネウムトンドゥー‥まだ小さい頃に聞いただけなんで〜ヒントすくなすぎますかね?
Posted by キリキ at 2006年04月10日 07:33
キリキさん
わかりますよ。
ゲンちゃんこと前川守賢さんの「かなさんどー」です。
うまちさびら~。
わかりますよ。
ゲンちゃんこと前川守賢さんの「かなさんどー」です。
うまちさびら~。
Posted by せきひろし(たるー) at 2006年04月10日 17:55
はじめまして たるーさん
三村おどり♪ を探したらこのブログにたどり着きました。
ローマ字でカナがついて素晴らしい ヽ(∂。∂)ノ♪
方言いまひとつ聴き取れず なんとなくで流して歌っていたもの
ひととづずつアルファベットをたどっていくととてもわかり易かったです。
発音は微妙で難しくても 言葉は辿れます。
解説まで 素晴らしい!!
研究を重ねた方だからなせる業ですね♪
(*∂-∂*)♪ああ~ こんな じいちゃん欲しい。。。。 おしえておしえて
昔話も教えてくれそう。
m(∂。∂;)・・・ 失礼しました。
(ayamamiguna)ここがよく言えず
アヤマミグナヨ ですね いままで適当でした。
解決!
たるーさん
★ありがとうございました。★
応援しています。 ☆彡
三村おどり♪ を探したらこのブログにたどり着きました。
ローマ字でカナがついて素晴らしい ヽ(∂。∂)ノ♪
方言いまひとつ聴き取れず なんとなくで流して歌っていたもの
ひととづずつアルファベットをたどっていくととてもわかり易かったです。
発音は微妙で難しくても 言葉は辿れます。
解説まで 素晴らしい!!
研究を重ねた方だからなせる業ですね♪
(*∂-∂*)♪ああ~ こんな じいちゃん欲しい。。。。 おしえておしえて
昔話も教えてくれそう。
m(∂。∂;)・・・ 失礼しました。
(ayamamiguna)ここがよく言えず
アヤマミグナヨ ですね いままで適当でした。
解決!
たるーさん
★ありがとうございました。★
応援しています。 ☆彡
Posted by (∂。∂)/ はじめまして たるーさま♪ at 2007年05月10日 17:13
名前 件名と まちがえました m(。・ε・。)m
また おじゃまします。
また おじゃまします。
Posted by (∂。∂)/ たまちゃん at 2007年05月10日 17:16
たまちゃんさん
研究の結果、確かに。
しかし、これらは、すべて胤森おじーから習った方法で
やっていることなのです。
ヤマトゥンチュの苦手な言葉、発音、いつもあいまいで歌っていましたが
こうして辞書で調べ、いろいろ紐解くと、だんだんクリアーに見えてきます。
(わからないことも多いですが)
もともとは同じ言葉だったもの。わたしたちも理解できないはずはありません。
研究の結果、確かに。
しかし、これらは、すべて胤森おじーから習った方法で
やっていることなのです。
ヤマトゥンチュの苦手な言葉、発音、いつもあいまいで歌っていましたが
こうして辞書で調べ、いろいろ紐解くと、だんだんクリアーに見えてきます。
(わからないことも多いですが)
もともとは同じ言葉だったもの。わたしたちも理解できないはずはありません。
Posted by せきひろし(たるー) at 2007年05月10日 23:50
すこし加筆、修正しました。
元の琉歌がわかりました。
元の琉歌がわかりました。
Posted by たる一 at 2010年10月09日 08:43
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。