たれぱんのびぼーろく

わたしの備忘録、生物学とプログラミングが多いかも

アニメの実務的本質 - 場に応じた線の省略と誇張

全ての創作は任意の省略と誇張ができる。しかし実務的にはその幅に限界がある。例えば実写映画のポスプロで全コマにわたり演者の表情をフォトショで誇張編集するのは現実的ではない。

ではアニメ(セルアニメ派生日本風アニメーション)の実務的本質はどこにあるか。
それは極端なまでの「場に応じた線の省略と誇張」にある。
前提として、アニメは画面を線と塗りにわけ、塗りを大幅に単純化をしている。単純化したがゆえの表現に昇華されてはいるが、塗り複雑化の方向での誇張は実務的にほぼできない(撮影くらい)。
それと引き換えに、アニメは線に無限の自由度を与えている。なぜなら全コマの線を人が都度手書きしているからである。これはよくよく考えると狂気としか言いようがない。
その特性によりその場(そのコマ)に応じて線を省略し誇張できる。これがアニメの本質。

3DCGアニメはこれが実務的に難しい。「ガールズバンドクライ」とその制作がその証拠。あの素晴らしい完成度の3Dアニメをつくるのに掛かったコストはそれこそ実務的に狂気的であり、そしてそれでもなお表現上の限界がある。
クレイアニメーションはその点でむしろアニメに近いところがあって、各コマで造形を整えるので任意の形を取れる。ただコストや粘土テクスチャ縛りが拡大を妨げたのだと私は思う。
なお、3DCGアニメは線の制御を犠牲に物体の制御で圧倒的な自由度を得ている。カメラをグルグル回し山のような数のモブが踊るシーンなんかは3DCGアニメ(と実写映像)の十八番。

この指摘が真だったとすると、自動中割の功罪が見えてくる。

動画マンが消滅して全自動中割になると、おそらく実務的にはアニメの良さが消える。
自動中割には実務的には限界がつきまとうため、全自動中割が前提になると「全自動中割できる原画」しか作監修正をパスできなくなる。これはつまり線の自由度を捨てることになる。それならセルシェーディングにこだわった3Dでいい。

一方で現状でも中割のある程度の割合は線割りで済む。これを自動化したとて自由度を捨てたことにならず、むしろ効率化で空いた時間で他の手間かかる作画が充実させられる。
肝なのは「なんでも書ける動画マンが必要に応じて自動中割を選ぶ」こと。つまりスーパーアニメーターをハイパーアニメーターへ押し上げるアシスタントとしてのAI中割である。
この形であれば自由度を担保したままより多くの作品を作れる。

これに基づいて将来予測をすると、動画マンは近いうちに「スーパー二原マン」で置き換えられる。
スーパー二原マン(S二原)は「LOラフ原を受取り動画を作る」役職である。クリンナップ+自動中割+手動中割 を一人でこなす。
抽象化すると「線の具象化のプロ」「アニメーションを線で表現するプロ」と言えそう。
一原は「演技設計のプロ」に近い立ち位置へより寄っていくと思われる。1カットでどんなふうに身体を動かすか設計するプロ。

これがきっちり回っていけば「一原による線化しないレベルでのLOラフ原→LOチェック→S二原による原画化兼クリンナップ→作監チェック→同一S二原による中割」ができる。
これは原初レイアウトシステムの発展型のようなものであり、ストレスをかなり減らせそう。

ありうる少し違う未来としては、2D/3D混在作画。
一原がラフ原の代わりに本番3Dキャラモデルで動きを付け、S二原が表現力不足の部分を作画する。
一原は作画アニメーターというより作劇アニメーターになる感じ。