川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

星冴ゆる 652 中浦ジュリアン

朝、善福寺川沿いを走ってきました。寝ている時から頭が寒く、走りながらの口笛はほとんど鳴りませんでした。嫁さんは今日のパソコンの試験を終えればゆっくりできそうです。

「日本史1200人」652 中浦ジュリアン(1569〜1633)

天正遣欧少年使節の副使、イエズス会士・司祭・福者、肥前国中浦の城主・小佐々純吉の一人息子、中浦は地名。4人の使節は3年もの長旅を終えてローマ教皇・グレゴリウス13世と謁見した。ジュリアンはローマ到着直前にマラリアにかかり高熱のため宿舎で病臥していたが、皆の静養の勧めを押し切って謁見に臨んだ。これに対し教皇は公式謁見前にジュリアン一人だけのための特別謁見を行い、彼を抱擁して祝福した。教皇は謁見から1週間ほどで病気になり、半月後に帰天したが、臨終に際してジュリアンの体調を気遣う言葉を残した。ジュリアンは復路でも再発し十分な訪問活動ができなかったが、その都度多くの人々の厚意に助けられた。このことが、ローマ教皇やキリスト教に対して深い崇敬の念を抱くことになり、後の殉教に至ったとされている。

「思い出は教皇の愛星冴ゆる 中浦ジュリアン に 端遊」

星冴ゆるが12月の季語です。冬の夜の星は光が一段と鋭くなります・・・約20年間にわたりキリシタン禁教下で潜伏して布教活動をしていた中浦神父は、1632年ついに捕縛され長崎へ送られ拷問されましたが棄教を拒絶しました。そして翌年、穴吊るしの刑により4日後に死亡しました。最期の言葉は「この大きな苦しみは神の愛のため」だったといいます。穴吊るしの刑は全身の血が頭にたまり、こめかみから数滴ずつ垂れていくため、すぐに死ねずにもがき苦しむという惨刑でした。

習字は、「思い出は」は弱く、「教皇の愛」は大胆に激しく、「星冴ゆる」はスッキリ、というつもりで書きました。


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年を越す 651 千々石ミゲル

朝、善福寺川沿いを走ってきました。嫁さんは4時近くまでパソコンの勉強をしていたようです。

「日本史1200人」651 千々石ミゲル(1570〜?)

天正遣欧少年使節の正使、肥前有馬氏当主・有馬晴純の三男・武士・キリシタン。1580年に洗礼を受け、有馬のセミナリヨ教育を受け始める。1582年に巡察師として日本を訪れたヴァリニャーノは、キリシタン大名の有馬氏および大村氏に接近し、邦人司祭育成のため遣欧少年使節の企画を発案し、ミゲルを含む4人の少年たちに白羽の矢が当てられた。1590年に日本に戻ってきたミゲルらは翌年に聚楽第で豊臣秀吉と謁見し、仕官を勧められたが、それを断り勉強を続け、1593年には他の3人とともにイエズス会に入会した。だが次第に神学への熱意を失い、1601年にキリスト教の棄教を宣言した。欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、キリスト教への疑問を感じていた様子も見られている。藩士としても大村領内での布教を求めたドミニコ会の提案を却下し、さらに領民に伝道を信じないように諭したという。

「神を捨て青春を捨て年を越す 千々石ミゲル に 端遊」

年を越すが12月の季語です。31歳で棄教していますから、まさに青春も捨てています・・・晩年については現在も謎に包まれていますが、2003年に自らの領地であった伊木力で、子息の千々石玄蕃による墓所と思われる石碑が発見されています。

習字は、「神を捨て」は寂しく、「青春を捨て」は悲しく、「年を越す」は静かに、というつもりで書きました。


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冬の夜 650 原マルチノ

朝、善福寺川沿いを走ってきました。手袋をしないで走っている人がいて、寒さの感じ方の違いに驚きました。嫁さんはパソコンの勉強に四苦八苦です。

「日本史1200人」650 原マルチノ(1568〜1629)

天正遣欧少年使節の副使、イエズス会員・カトリック司祭。両親共にキリスト教徒であり、有馬のセミナリヨに入った。巡察師として日本を訪れたヴァリニャーノは、キリシタン大名・大村純忠と知り合い、邦人司祭育成のため遣欧少年使節の企画を発案し、マルチノを含む4人の少年たちに白羽の矢が当てられ、マルチノは副使となった。使節の少年4人の中では最年少であったが語学に長け、ローマからの帰途のゴアでラテン語の演説を行い有名になった。1590年に日本に戻ってきたマルチノらは翌年に聚楽第で豊臣秀吉と謁見し、仕官を勧められたが、それを断り勉強を続け、1608年に伊東マンショ・中浦ジュリアンと司祭に叙階された。マルチノは宣教活動のかたわら、洋書の翻訳と出版活動にも携わり、信心書『キリストにならう』の日本語訳「こんてんつすむんぢ(世を厭う)」などを出版した。

「冬の夜横書きの神縦書きに 原マルチノ に 端遊」

冬の夜が12月の季語です。しんとして静かな夜です。ペンの横書き文字を筆の縦書きにする時、何を感じたかな・・・1614年、幕府によるキリシタン追放令を受けてマカオに行き、マカオでも日本語書籍の印刷・出版を行い、マンショ小西やペトロ岐部らがローマを目指した際には援助しました。

習字は、「冬の夜」はゆったりと、「横書きの神」はそれなりに、「縦書きに」はスッキリと、というつもりで書きました。


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大晦日 649 伊東マンショ

朝、善福寺川沿いを走ってきました。今日はがん手術後のCT検査などの結果を聞きに病院に行ってきました。幸いに問題ないとのことでした。加えて2年を過ぎたので再発の可能性が少なくなったこと、酒も甘いものも気にせずに摂って大丈夫とのことで嬉しくなりました。

「日本史1200人」649 伊東マンショ(1569〜1612)

天正遣欧少年使節の主席正使、イエズス会員・司祭、本名は伊東 祐益(スケマス)。8歳でキリスト教と出会い、その縁で司祭を志して肥前国有馬庄のセミナリヨに入った。巡察師として日本を訪れたヴァリニャーノは、キリシタン大名・大村純忠と知り合い、邦人司祭育成のため遣欧少年使節の企画を発案し、マンショを含む4人の少年たちに白羽の矢が立てられた。遣欧使節の途中で立ち寄ったトスカーナ大公国で舞踏会に使節たちが招かれた時、マンショは公妃・ビアンカと踊ったという記録もある。1590年に日本に戻ってきた翌年に聚楽第で豊臣秀吉と謁見し、強く仕官を勧められたが、それを断り勉強を続け、1601年には神学の高等課程を学ぶためマカオのコレジオに移り、1608年に原マルティノ・中浦ジュリアンと司祭に叙階された。

「ビアンカも仕官も遠く大晦日 伊東マンショ に 端遊」

大晦日が12月の季語です。日本に戻ってから司祭になるまで18年間、長かったろうな・・・マンショは豊前小倉を拠点に活動していましたが、1611年に領主・細川忠興によって追放され、長崎へ移り教えていましたが病死しました。

習字は、「ビアンカも」は懐かしく、「仕官も遠く」はそれなりに、「大晦日」は静かに、というつもりで書きました。


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日記買う 648 バリニャーノ

朝、善福寺川沿いを走ってきました。手が悴んで鼻水が出て本格的な冬だな、と思いながら走りました。

「日本史1200人」648 バリニャーノ(1539〜1606)

イエズス会の宣教師。日本に着いたのは1579年で、最初の滞在は1582年まで続いた。宣教方針として日本文化に自分たちを適応させるという方法をとり、ヨーロッパのやり方を押し通すフランシスコ会やドミニコ会と対立した。巡察師として日本各地を訪れ、大友宗麟・高山右近・織田信長らと謁見した。信長が黒人を見たいと所望したため連れて行った黒人奴隷を信長に献上した。弥助と名づけられて信長が死去するまでの15か月間ほど信長に仕えた。また日本人の資質を高く評価し、司祭育成のために教育機関を充実させ、天正遣欧少年使節の企画を発案した。1582年にインドのゴアまで付き添い、そこで分かれてゴアに残った。1590年の2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われ、1591年には聚楽第で豊臣秀吉に謁見した。

「遣欧の少年らにと日記買う バリニャーノ に 端遊」

日記買うが12月の季語です。年末に買うのが普通ですが、ここでは遣欧へのプレゼントということで・・・バリニャーノは日本で初めての活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる書物の印刷を行っています。1603年に最後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでその生涯を終えました。

習字は、「遣欧の」は大胆に、「少年らにと」は楽しく、「日記買う」は優しく、というつもりで書きました。


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除夜の鐘 647 フロイス

朝、善福寺川沿いを走ってきました。手の指がすごく冷たくて、これ以上寒いとどうなるのかな・・嫁さんは今日で試験が終わります。

「日本史1200人」647 フロイス(1532〜1597)

カトリック司祭・宣教師。リスボンに生まれ、9歳でポルトガルの宮廷に仕え、16歳でイエズス会に入会しゴアへ赴き養成を受けた。同地においてフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会い、その後の人生を運命付けることになった。31歳で長崎に上陸し大村純忠のもとで布教活動を開始した。1565年に京都に入り翌年から布教責任者となった。1569年に織田信長と初めて対面し、信頼を得て布教を許可され多くの信徒を得た。1583年、日本におけるイエズス会の活動記録を残すことに専念するよう命じられ、全国をめぐって見聞を広め『日本史』を記した。1587年に豊臣秀吉の伴天連追放令が出ると大村領長崎に退いた。 1597年に『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し没した。フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになった。

「悲喜劇のペンを走らせ除夜の鐘 フロイス に 端遊」

除夜の鐘が12月の季語です。大晦日の夜で、鐘は百八の煩悩を救います。フロイスは異国に居ることをしみじみ感じたかな。彼のペン字は本当に魅力的です・・・フロイスの記述した歴史上の事件の数々は、日本人とは異なった西洋キリスト教徒からの視点であり重要な研究史料となっています。

習字は、「悲喜劇の」はサラリと、「ペンを走らせ」は大胆に、「除夜の鐘」は明るく、というつもりで書きました。


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クリスマス 646 フランシスコ・ザビエル

朝、善福寺川沿いを走ってきました。今日は口笛を吹きながらも、息切れが少なく走れました。嫁さんは昨日の英語のテスト、バッチリだったようです。

「日本史1200人」646 フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)

スペイン生まれのカトリック司祭・宣教師・イエズス会創設メンバー・聖人。ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えた。インドなどでも宣教を行い聖パウロを超えるほどの人々を信仰に導いた。日本での布教は困難をきわめ、初期には通訳のヤジロウのキリスト教知識のなさから、神を「大日」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、僧侶に歓待されたこともあった。ザビエルは誤りに気づくと「デウス」というラテン語をそのまま用いるようになった。日本人について「日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」としている。1552年、ザビエルは中国を目指したが入境は思うようにいかず、病を発症してこの世を去った。

「デウスよりサンタ!Japanのクリスマス フランシスコ・ザビエル に 端遊」

クリスマスが12月の季語です。日本人には先ずサンタ!とザビエルは思ったかな・・・幕末に滞日したオランダ人医師ポンペはその著書の中で、「彼ら日本人は予の魂の歓びなり」と言ったザビエルの物語は広く西洋で知られており、これがアメリカ合衆国政府をしてペリー率いるアメリカ艦隊の日本遠征を決心させる原因となった、と述べています。

習字は、「デウスより」はスッキリと、「サンタ!Japanの」は大胆に、「クリスマス」は楽しく、というつもりで書きました。


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