『響け!ユーフォニアム』5話の演出について

響け!ユーフォニアム』5話、本当に素晴らしかったです。中でもBパートから終盤までの流れが本当に最高で何回も観返してしまったのですが、観終えた後には必ずと言っていいほど深い溜息を突いてしまうくらい今回の話には良さを感じました。

まず、久美子の主人公らしい雰囲気がとても良いです。特に大きな目標があるわけでも壮大な夢を掲げているわけでもない彼女ですが、その足捌きが少しずつはやり、前へ前へと進んでいく様子は観ていて強く胸を打たれるものがあります。自らを振りだしに戻そうと思案していた1話とは逆に、一つの流れの中に身は置きつつもその舵だけは自らの手で動かそうとする能動的な所作。それこそ部活を放棄していた先輩とは違い、自らの意思で吹奏楽と向き合い続けてきたのは彼女自身です。


「なんとしても吹奏楽部としてやり直したいわけではなかった」あの日の心情が、なんとなく、曖昧ながらも進んでいけるのなら進んでみよう、踏み出したのなら前を見据え歩いて行こうと変貌を遂げていく姿は青春の代名詞そのものと呼んでも差し支えないように思えました。

まただからこそ、過去へと引き戻そうとする旧友に吊られることもなく、久美子は“この場所”に踏み留まることが出来たのでしょうし、この場所・この音から新たなスタートを切ることも出来たのでしょう。

それこそ、まだ明確な決意を胸に秘めることの出来ていない彼女ですが、「私が向かう場所が“そこでない”ことだけは知っている」 とばかりに旧友の横を通り過ぎ走り去る久美子の姿と、そんな上手から下手へと抜ける動線の“正しさ”はそれだけで彼女の軸の強さを証明していたと思います。そしてそれは「特に意味ないんだけどね、私が北宇治を選んだ理由」と前置きした上で語られたあの真っ直ぐな視線とも同義の“強さ”に他ならなかったのでしょう。姉がブラスバンドをやっていたからとか、友人に吹奏楽へ誘われたからとか。そうした理由を全部置き去りにした上で、改めて彼女が自分の意思で走り出すことの意味。


むしろそこにこそこの作品が描こうとしているものは凝縮されていたのでしょうし、作中において幾度となく使われた「新しく」「最初から」という台詞も、ようはそんな彼女たちの意思にこそ掛けられた言葉であったのだと思います。誰かのためじゃないし、誰かの後を追うわけでもない。自分の足で進むということ、自らの瞳にこの世界を映すということ。ダメ金で十分だとどこか諦観していた自分を捨て、誰に動かされるわけでもない“私”という一つの輪郭を獲得するということ。むしろそうしたコンセプトはきっとこの作品が一番大切にしていたものであったはずです。

遠く彼女を捉えたカメラがこの世界の広さを映すように少しづつフレームをT.Bさせたのも、パレードを終えた瞬間に彼女が少しだけ成長を遂げたことの証左でしょう。鮮明に何かが見えたわけでもなく、何かが劇的に変化したわけではないけれど、それでも“何か”は掴めたような気がするし、少しだけ自分の中の価値観や世界観が広がったように感じられる。そんな久美子の心情を推し量るかのような演出。


それこそ「「やってもどうせ同じだ」から「頑張れば良くなる」に変化した」と彼女が語ってみせたように。この北宇治高校吹奏楽部にもやっと“予兆”や“予感”のような前向きな感情が漂い始め、さらには夢や希望といった大きな目標がようやくこの場所にも芽を咲かせ始めたのだと。これはそういったものを凝縮した一幕なのだと思います。

また、そうした“前向きな感情や予感の芽生え”は、これら終盤のシーンにおいても顕著に描かれていました。

久美子が友人の誘いを断るシークエンスにおいて、幾度となく彼女の表情を映したカットバック。少しずつ、けれど確実に彼女の心情を捉えるようその表情に寄せられていくフレーミングは、まさしく言葉では多くを語らない黄前久美子という一人の少女の心を雄弁に語り掛けていたようにも感じられました。また合間に差し込まれた幾つかのアップショット(ユーフォニアムや足元などのカット)は彼女の背中を押す絵として強烈な存在感を示していたように思いますし、そういった意味でこの5話というなかば折り返しに近い挿話は、非常に明確な本作の主題を示してくれていたように思います。


音を揃え響き渡るマーチの有無を云わせぬ説得力もまた、本作のタイトルに偽りのない心意気をしっかりと表現してくれていました。大切なことは言葉より、繊細な映像と力強い音楽で伝えるのが本作のスタンス。挿話全体の総括をするならばまさしくそう言い切りたくなるフィルムだったように感じます。絵コンテ・演出は三好一郎さん。噛み締めたくなる程の余韻が本当に素晴らしかったです。