いま大切なのはこういうことばさ

 朝からTwitterを眺めるなんてどうかしてるかもしれないがこれがわたしの日課だ。

この日もいつものようにわたしのタイムラインを眺めているとこんなツイートが現れた。

  iPhoneに向かって思わず、「バカじゃねぇの?」とつぶやいた。教科書に載っているひとたちの名前を見ればわかるおのと思っていたが、まさかここまでだったとは・・・・・。しかし、ここで「バカじゃねぇの??」とつぶやいても彼女と同じ土俵に立つ気がするので、ちょっと茶化す気持ちツイートした。

 そして、このあと、滅茶苦茶、リツイートされた。

 RT(リツイート)やFav(お気に入り)の通知が止まらず、スマホがずっと揺れっぱなしで煩くてたまらない。

 そんな通知ばかりが来ると、いったい、いくつRTやFAVされたのか気になってしまう。数字を確認しようと思ったとき、去年の年末のことを思い出していた。

 以前、私はブログの更新を週1回書き、SNSで拡散していた。

 しかし、だんだんと書くことを止めるようになってきた。書くスタイルや生活の変化もあったが、以前のような「面白さ」ではなくて「なにかに追われている」感覚になったのが辛くてたまらなかった。その反面、新しいものを書かなくては書けなくなるのではないかという焦りもあり、なかなか書けないもどかしさをFacebookに短く書いたこともあった。
そんなときに私の友人からある誘いがあった。

 去年の年末、2日間にわたって、歌舞伎町で「PURX(ピュア)」というイベントがあった。ここのファシリテーターだった友人はイベントの催し物として一緒にトークをしないかと誘ってくれた。FtMの彼とはおたがいの切実な部分を語りあいながら大事なことを教えてくれる大切な「親友」で、そんな彼と一緒に何かができることが嬉しくて、彼の誘いを快諾した。

 「PUREにXをつける」と題された私と彼のトークは1日目の昼にあった。いろいろなところでトークをするようになって緊張することが多かったのだが、このときは安心できるひとと一緒だったので、とても楽しい気持ちでトークができた。
2日目は観客として参加した。清水晶子さんと鈴木みのりさんのトークやALMAさんたちの音楽ライブなど、魅力的なイベントばかりで、お客さんもたくさん入っていた。

 その盛り上がりを見て、友人にふと「たくさんのひとたちが来て、すごいイベントだよね。クオリティが高いからかな。」と言った。

すると彼は少し声を荒げていった。

 「そうじゃないよ!詩恩くん!詩恩くんとわたしが昨日やったトークも、詩恩くんが帰ったあとここに夜遅くまで残ったひとたちでマイクを持って一言ずつ言ったのも、清水さんと鈴木さんもトークも、ALMAのライブもみんな、同じなんだよ。ただ、自分の思っていることを自由に表現しているだけ。クオリティなんか関係ないんだよ。

 詩恩くんはなにか悩んでいたようだけれども、好きなものを自由に書けばいいじゃん!」
 そのことばにハッとさせられた。書くことが楽しかったときは周りの反応なんてどうでもよかった。でも、書いていけばいくほどSNSでの反応や閲覧数が気になってくる。そうしたなかでわたしはいつのまにか書くことの楽しさを忘れてしまっていた。
 彼はネット越しにわたしを見守ってくれていたのだ。

 終電の時間が近づき、家路につこうとすると、彼は途中まで見送ってくれた。帰り際、「書くことを止めないでね。」と彼が言った。

 「うん。これからも書きつづけていくよ。」

わたしはそう答えた。

 夜遅くの満員電車に乗り込み、彼のことばを頭のなかで何度もくりかえす。そうしていくうちに「書きたい」という気持ちがまた芽生えてきた。

「ありがとう。」

電車の窓に映る年末の東京の夜景を見ながらそうつぶやいた。

 そんな去年の年末を思い出し、RTとFavの確認をするのを止めた。茶化してやろうと思っただけだから数なんてどうでもいい。

 最近、ネットには閲覧数や反応を気にするがあまり、過激なことばで語ったり、だれかを攻撃したりすることばが増えたと思う。温かい水温と小さな声の波紋でできていたインターネットということばの海は冷たい水温の大波が吹き荒れるものになってしまった。

 そして、その冷たい波は生活の空間にも入り込んできている。

「反日」ということばが見出しに踊る新聞や雑誌が本屋やKIOSKに置かれている。こんなものを書いている名前も出さないひとたちは売り上げという「数」がほしいのだろう。

 欲望のために起こした冷たいことばの大波がやっていたときどうなってしまうのか・・・・・。あの波はどんなひとでも飲み込んでしまい、気づいたときには自分の愛するひとたちがその波に飲み込まれいなくなってしまう。

 冷たいことばの大波が吹き荒れるなかで、いま、必要なのはわたしの親友が言ってくれたようなひとの温度のする誠実さであると思う。あの温かさは上から与えられるものではなくて、同じ高さから向き合ってもらったものだ。