ぢっとお札を見る

 埼玉にはだれもが知っているような「偉人」がいないせいか、名の知られている偉人がちょっとでも関係あれば「埼玉とゆかりのある偉人」として無理矢理紹介する。

 先日、埼玉の観光サイトを読んでいると太宰治が「埼玉とゆかりのある偉人」であることを知った。理由は『人間失格』を大宮で書いたかららしい。
 埼玉県民のわたしは思わず、こうつぶやいた。
 

 「知らねぇよ。」


どこで書きはじめたかなんてどうでもいいし、仮にそうだとしても「ゆかりがある」なんて実感が湧かない。
 こうしなければいけないぐらいメジャーな偉人がいないのだ。
もちろん、それは埼玉に「偉人」がいないというわけではない。とりあえず、思い浮かぶひとは3人いる。

 1人は江戸時代中期から後期に活躍した塙保己一だ。幼少のころ、病で失明したが、江戸に出て学者になり、日本の国文学や国史をまとめた大著『群書類従』を編纂した。編纂の際に版木を「20字×20行」の400字詰めに統一させた。それがのちに原稿用紙の基本様式となる。
 原稿用紙を使う私にとって、塙保己一は偉大な人物である。
 もう1人は、『群書類従』に収録された「令義解」から女性医師の規定を見つけ出し、「日本には古来から女性医師がいた」と主張して、はじめての公認女性医師となった荻野吟子である。
 「男しか教師になれない」と親に言われたある少女は荻野吟子の伝記を読み、親を説得して、教師になった。そのひとがのちに私の小学生時代の担任になる。
 わたしの担任の先生に影響を与えた荻野吟子は偉大な人物である。
 そして、最後に「埼玉の偉人」と言えば、彼を忘れてはいけない。
『時事新報』や『東京パック』で風刺漫画を描いた「日本近代漫画の祖」と呼ばれる北沢楽天である。戦前に出版した『楽天全集』は「漫画の神様」と呼ばれる手塚治虫に影響を与えた。
 さきほど書いた荻野吟子のおかげで教師になったわたしの担任は漫画嫌いだったものの、手塚治虫だけは好きで教室に『鉄腕アトム』や『火の鳥』が置かれていた。小学校のころ、それらを読みわたしは手塚治虫のファンになった。
 わたしが好きな手塚治虫に間接的な影響を与えた北沢楽天は偉大な人物である。


 (えっ?「自分のエピソードと無理矢理、結びつけて変な感じがする。」って?埼玉県だって関係のないひとを無理矢理、結びつけてるんだからしょうがないね!)

 「埼玉の偉人」と言われて思い浮かぶひとを書いてみたが、多分、私大の入試でギリギリ出るレベルの知名度だと思う。
 そんなマイナーな偉人ばかりの埼玉にとって、有名人を出す一発逆転のチャンスといえば、お札のひととしてだれかが採用されることだろうか。
 お札のひとになればどこへ行っても有名になれる。現にわたしはなにも見なくても彼らの名前はすぐに書ける。
 財布によく入っている1000円札は野口英世で、たまに入っている5000円札は樋口一葉、そして、これが入っていたらビル・ゲイツみたいな気分になる1万円札は福沢諭吉だ。

それぞれなにをしたかもすぐに書ける。

野口英世は大正期に黄熱病の研究をした医者。

樋口一葉は明治期に『たけくらべ』や『にごりえ』を書いた作家。

福沢諭吉は『文明論之概略』や『学問ノススメ』を書いた。それだけではなくて、『脱亜論』を書き、日本による朝鮮の近代化「指導」を主張した啓蒙思想家・・・・・。

 あれっ?1万円札のひとだけ経歴がなんか変だぞ?
まぁ、細かいことは気にしなくていいか。お札がなければ美味しいご飯も食べられないし、新しい服も買えないし、税金だって払えないから。
 いままで慣れ親しんだお札のひとが2024年度に、1000円札は大正期の医者である北里柴三郎に、5000円札は女性教育者の津田梅子に、1万円札は明治から昭和に活躍した実業家であり、埼玉県深谷出身の渋沢栄一といった具合に一新されるそうだ。

 埼玉新聞には「郷土の偉人」がお札になったと喜ぶ深谷のひとびとの声を紹介していたが、わたしは戸惑っていた。住んでいる地域が違うせいか、渋沢栄一が「郷土の偉人」と言われてもピンとこない。なので経歴を調べてみた。
 深谷で生まれた幕臣だった彼は明治維新後、大蔵省の役人になったが、すぐに辞め、実業家として500以上の会社の創設にかかわった。また、「道徳経済合一説」という理念を打ち出し、さまざまな社会貢献活動も行ったそうだ。

彼をひとびとは「日本資本主義の父」と呼んでいる。

 彼の作った会社の名前を調べて驚いた。いまでもある会社ばかりだからだ。
東京瓦斯
東洋海上火災保険
王子製紙
秩父セメント
帝国ホテル
京仁鉄道合資会社
 あれっ?「京仁鉄道合資会社」なんて聴いたことないぞ。どうやら朝鮮半島に日本のための鉄道を敷設する会社だったらしい。朝鮮半島に作った会社はこれだけではない。黄海道に農業拓殖会社を作り、その土地に住む小作人たちから過剰に小作料を搾取していたという。
 とんだ「道徳」の持ち主だ。
そんな「社会貢献」が認められたおかげか、大韓帝国が日本の保護国だったころ、韓国国内で流通していたお札には渋沢栄一の顔が描かれていたという。
 大変、「ご立派」な経歴を知ったわたしは「福沢諭吉と変わらない。」とつぶやいた。
 福沢も渋沢も「近代化」の立役者だが、間接的にも直接的にも植民地支配にかかわった。そうでもしなければ1万円札に描かれないという決まりでもあるのか。
 そんなことを言ったら、大方のひとはきっとこう言うだろう。

「もう決まったことだし、どうせそのときになったらお前も使うんだから気にするな。」


 たしかに生きていくためにお金を使う。しかし、お札に描かれたひとがなにをしたかという事実は残る。
 戦前から戦中にかけて植民地朝鮮から多くの労働者が埼玉にやってきた。軍需工場で「お国」のために働かされるためだ。
終戦後、無責任に放り出された労働者たちは生きていくために、よく食べていた豚のホルモンを串に刺して焼き、売り歩いた。
 これが埼玉名物「やきとん」のはじまりである。
 そんなことを食卓で父から教わったわたしは気にしないよう、記憶の扉に蓋をしても、気にしてしまう。だって、わたしもそんな労働者たちの「同胞」として生まれ、埼玉でやきとんを食べながら育ったんだから。
 それでもこの1万円札を使うために忘れなければいけないのか。
そう感じだとき、1万円札が「戦後日本の象徴」のように思えてきた。「植民地支配の責任」を問われれば「お金を払ったからいいじゃん。」と公言するひとたちがずっと支配してきた。彼らにとって、植民地は「忘れ去られた過去」なのかもしれないが、支配された側にとって、植民地だったがゆえの問題が無責任に放置され、声を出せばお札を手渡され、沈黙させられることがずっとつづいた。
 なにも解決しないまま、いまに至っているのだ。
 来月から「日本国民統合の象徴」が替わり、令和時代を迎えるが、新時代に作られる新しいお札を見るかぎり、都合の悪いことはお札でごまかす発想は変わらないようだ。
 渋沢栄一を「はじめてお札のひとになった埼玉の偉人」なんて胸を張るよりも、名の知られたひとを無理矢理「埼玉とゆかりのある偉人」と言ったほうがよっぽどいい。
 こんなことを言っても2024年度には、われらが「郷土の偉人」の描かれた新札をほしがっているだろう。お金がなくて、ぢっと手を見る生活はごめんだから。

 それでもわたしの記憶を黒々とお札でぬることはできないんだよ。