2022年 05月 15日
王素説批判 |
1節を設けて王素氏の所説を批判しようと考えていたが,今更感があり,削除することに.私が432~442年頃とした龍興を,闞爽が高昌王を自称していた438~440年に定めた元号と考えたのは王素氏だが(その前後の時代は縁禾),440・441年に龍興でも縁禾でもなく,建平が使われていたのが,香港のオークションに出品された契約文書から明らかになった.それを紹介したのは私自身で,これにより王素説は成立の根拠を失ったわけだが,では龍興とはいかなる元号なのか,振り出しに戻ってしまった.北涼滅亡前後のトゥルファンが闞爽の自立など政治的に北涼中央との間に距離が生じたことは確かで,それは河西で縁禾から太縁への改元が行なわれたにもかかわらず,トゥルファンでは一貫して縁禾が用いられていたことからも明らかである.北涼滅亡後,沮渠無諱・安周兄弟がトゥルファンをうかがうようになると,自立していた闞爽はすぐ日和ってしまったようにも見える.となれば,彼の自立の基盤は案外脆いもので,盤石な支配とは程遠かったのではないか.あるいはトゥルファン内部にも小さな抵抗勢力があって,それが龍興を称したということもありえよう.
by s_sekio
| 2022-05-15 19:52
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