2021年 12月 01日
「北伐」 |
柴田聡子・野中敬両氏のなかでも,野中氏は249年に姜維が西平に侵寇したことに注目している.この西平を含む湟水流域が,維が「羽翼」と恃んだ羌・胡の居住域であるとともに,祁連山を越えて河西四郡に至る最短ルート上に位置しているからではないか.漢魏交替期に西平の在地勢力が張掖や酒泉の在地勢力と緊密に連絡を取り合って叛旗を翻したのも,祁連越えのこの最短ルートがあったからこそであろう.西方系の人びとが後漢時代に成都とその近郊にあったことは中江塔梁子崖墓の壁画から疑いなく,だからこそ「涼州諸国王」が諸葛亮の「北伐」への協力を申し出たのだろうが,姜維の西平侵寇はそれへの蜀漢側の意思表示という意味があったのではないか.あるいは連繋の可能性の模索でもあったのだろうか.禁欲的な柴田論文はもとより,野中論文もそこまで突っ込んだ見解はないが,推測を逞しくした結果はそんなところである.
ただそうなると,これを「北伐」というカテゴリーで処理してよいものかどうか,あらためて考えさせられる.柴田氏によれば,姜維の第二次「北伐」の一環となるのだが.
by s_sekio
| 2021-12-01 20:22
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