2021年 02月 26日
宿題・続 |
ひとまずは書き上げたので,昨日はのんびりと接続詞や副詞の漢字・仮名表記の統一を図る.心的余裕がようやく生まれたとでも言おうか.このブログも書いたのに,下書き保存を忘れてしまったのはその余裕というか気の緩み.
八卦営壁画墓,下河清門楼墓・塼画墓,蔵家庄門楼墓,まだ知られていないので言及されない乱墩子灘壁画墓,こういった墓は後漢墓か曹魏墓かで意見が分かれるところ.本書では対象とした(曹魏墓としたということ)が,後漢から曹魏初期ということだろう.この場合の曹魏初期というのは,227年頃までという意味である.この頃,すなわち諸葛亮の「北伐」開始と前後して徐邈が凉州刺史として赴任し,離任する240年まで10年以上にわたり凉州を統治した.彼が厚葬を禁止したことはその本伝にも出ている.この間,凉州で表立って高大な門楼や数々の塼画・壁画を擁する塼質墓を築造することは躊躇されたのではないか.門闕を伴う門楼を有した仏爺廟湾―新店台(新店台)Ⅰ区三〇号墓の築造は出土した鎮墓瓶の銘文から240年代半ばであることがわかる.徐邈の離任後である.そして塼画墓である新城一号墓はそれからさらに10年後のことである.
曹魏建国から徐邈赴任までは7年程度だが,その間の刺史は長くても3年ぐらいしかその任になく,加えて王朝交替期の混乱もあり,薄葬の徹底は進まなかったのではないか.それまで,すなわち徐邈の赴任までに後漢時代からの継続で築造された門楼墓・壁画墓があったはずで,それが,論者によっては後漢墓とする上の墓だったのではないか.とくに後漢末期の雷台一号墓とよく似た門楼を有する蔵家庄一号墓などはそんなふうに考えると納得がいく.つまり徐邈前と徐邈後で,河西の塼画墓・壁画墓,門楼墓は分断されたという考えである.まあ八卦営をはじめ,縁辺での事例が多いので,徐邈の目を盗んで,ということも充分にありうるのだが.
by s_sekio
| 2021-02-26 10:26
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