2021年 02月 18日
ねじれ |
門楼に画像塼を配した河西初の下河清一号墓は,逆三角形に斗拱塼を嵌め込んでもいるが,門闕の造型はない.新城一号墓では,「武威雷台漢墓」や蔵家庄一号墓のような門闕が下段に復活するが,門楼全体が高大化し,その分斗拱塼が増えたが,本来の斗拱の構図(逆三角形で,上から小斗・肘木・大斗というような三点の組み合わせ)から逸脱してしまった.しかし門楼の画像塼は珍しくなくなっていく.その反面,門闕の構造がしだいに簡素化され,闕頂,さらには闕柱が失われていき,本来の門楼らしからぬ様相を呈していく.しかし「楊震家族墓地」六号墓に見えるような大型斗拱の造型は酒泉・嘉峪関一帯ではついに最後まで出現しなかった.小さな斗拱塼の数でこれを補ったのだろうか.
しかし敦煌では,画像塼を欠いた高大な門楼が早くに出現し,門闕も大型斗拱もほぼ「楊震家族墓地」六号墓のそれを忠実に継承している.ただ素面塼を沢山用いて,高大化が計られたのである.大型斗拱はほとんどの門楼で確認される.また大型斗拱の少し上には,小斗を三つ並べたような斗拱塼があったようだ.そしてこのような継承に加えて,やがて神格・神獣・神仙が充満していくのである.
このような展開をどう整理すればよいのだろう.
by s_sekio
| 2021-02-18 20:23
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