イスラエル:暗黒の源流 ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム 6b
[ヒトラーが「育てた」シオニズム]
(内容)
(1)パレスチナへのユダヤ人移民に対するナチの全面協力
(2)経済と産業に対するナチの全面協力
(3)ナチとシオニストの人間的関係
(4)ニュルンベルク法に対するシオニストの反応
(5)シオニストによるナチスとの軍事同盟提案
先ほどのモーゼス・ヘス[Moses Hess]は「選ばれた種族」とそのための国家という概念を強く押し出し「ユダヤ種族の純粋性」を擁護した。その60年後、ヒトラーがそっくりそのままをマイン・カンプの中で主張することとなる。ただしユダヤ種族とゲルマン種族を取り替えてではあるが。
イスラエルの高名な詩人であるハイム・ナフマン・ビアリク(Chaim Nachman Bialik, 1873-1934)は1934年に次のように書いた。『ヒトラーと同様にだが、私は血の思想の力を信じている』。もちろんゲルマンとユダヤでは血が異なるため味方同士とはなりえないにせよ、両者の『純血性』にこだわる発想は雌型と雄型のように同一のものであろう。先ほど述べたイスラエルの状態は単なる差別政策と言うよりも、ナチ同様に民族浄化、つまり「国家の純血化」に違いあるまい。
シオニストとナチスとの間にあった相互の親近感と信頼関係については驚くほど多くの資料が残されている。ただそれを知らせる努力が為されていないだけだ。
(1)パレスチナへのユダヤ人移民に対するナチの全面協力
1930年代を通してシオニスト団体はドイツ国内に40ものユダヤ人開拓者訓練キャンプのネットワークを作りパレスチナへの移住に備えさせたのだが、これはドイツ当局の全面協力を仰いだものだった。これが後のキブツの原形となったのだが、それらのキャンプには白地にブルーの六芒星の旗がひらめいていた。
ヒトラー政権が誕生したのは1933年1月30日だったが、すぐさま世界ユダヤ人経済会議は「ドイツ商品ボイコット」という宣戦布告を行った。しかしその直後に世界シオニスト機構(WZO)はヒトラーへの反対運動を240対43の圧倒的大差で否決したのだ。 ヒトラー政権は同年8月にシオニストとハアヴァラ(Ha'avara)と呼ばれる移送協定を結んでユダヤ人のパレスチナ移住に対する全面協力を開始した。これによってシオニストはドイツ在住の「ユダヤ人の祖国」建設の意欲に溢れそのための訓練を受けたユダヤ人たちを大量にパレスチナに移住させることに成功した。
ここでパレスチナのユダヤ人人口の変遷を見てみよう。第1次大戦後の1922年では、委任統治を開始した英国の調査によると、パレスチナ人67万人、ベドウィン7万人に対してユダヤ人は6万人であった。そしてヒトラー政権の誕生以降に移民のラッシュが始まる。1933年に3万人、34年に4万2千人、35年には6万1千人の入植者が新たにやって来たのである。そして第2次世界大戦が開始する1939年にはパレスチナのユダヤ人人口は44万5千に膨らんだ。イスラエル建国の1948年のユダヤ人人口がほぼ65万人であるので、この時期の移民がいかに重要なものだったのか容易に察しがつく。
次のような話がある。1935年の初期に一隻の客船がドイツの港からハイファに向けて出航した。その船尾にはヘブライ語で「テルアビブ」と書かれマストに鍵十字の旗がひらめいていた。船はシオニストの所有になるものだったが船長はナチス党員であった。これはその当時のナチスとシオニストの関係を象徴的に示すエピソードだろう。
1930年代のパレスチナへのユダヤ移民を「ヒトラーによる弾圧を恐れたため」であるとする大嘘が世界中でいまだにまかり通っているのだが、実際にはヒトラーの全面協力の下で起こった人口増加なのだ。
ドイツからパレスチナへの大規模な移住は1939年9月の第2次世界大戦勃発によって終わったが、ドイツ当局は1940~41年の間、間接的な形でユダヤ人の移住を促進し続けた。1942年の3月になってすらパレスチナ移住のためのユダヤ人訓練キャンプがドイツの中に存在していたのである。
(2)経済と産業に対するナチの全面協力
移送協定の実行と共に、1933年8月から1939年末までにドイツからパレスチナに移送された資金は合計で1億4千万マルク(当時:4千万ドル超に相当)にのぼる。その中にはこの協定発効に伴ってドイツ帝国銀行から提供された3千4百万マルク(およそ1千4百万ドル)が含まれる。パレスチナにはユダヤ人のための主要産業を支える数多くの企業がドイツからの資本で作られインフラが整備されていった。これが後のイスラエル国家創設にとって必要不可欠な要素になったことは言うまでも無い。1930年代でヒトラーのドイツほどユダヤ人国家建設に貢献した国は存在しない。
もっともドイツはドイツでシオニストを十分に利用したともいえるだろう。ユダヤ人に支援金として与えた金で農機具や建設機械、武器などの多くの工業製品を買わせ、行き詰った経済の建て直しの重要な契機としたのである。いずれにしてもヒトラー政権の間にパレスチナはドイツ製品で溢れることになる。しかしそのような活動のための資金をナチス・ドイツに与えたのは誰だろうか? これについては稿を改めたい。
このヒトラーの政策に反対したドイツ人もいる。エルサレムのドイツ総領事だったハンス・デーレ(Hans Döhle)は、ドイツ製品がユダヤ機関の手によって独占的に取り扱われることがドイツのアラブ市場を失わせドイツの中東政策にとって大きな損失になることを懸念したのである。しかしヒトラーはハーヴァラ協定に固執し続けた。
(3)ナチとシオニストの人間的関係
またヒトラー政権誕生の6ヵ月後、つまりハーヴァラ協定が取り決められる直前に、ドイツ・シオニスト同盟はある長文のメモをヒトラー政権に渡した。そこには次のように書かれてある。
『我々は、ユダヤ人問題の処理に関する大胆な解決方法を通して、大部分の欧州の人々が実際に関わらなければならないだろう困難の克服に向けての決定的な一歩を踏むことができるのは、まさに新生ドイツであると確信いたしております。』 『多くの方法でドイツに対して現在行われておりますようなボイコットのプロパガンダは、基本的に非シオニストのものであります。なぜならシオニズムはボイコットを望んでおらず・・・』
実はナチス党員の重要なポジションに複数のユダヤ人がいたのである。その最も有名な者はレオポルド・フォン・ミルデンシュタイン(Leopold von Mildenstein, 1902-68)男爵で、SSのユダヤ人局の長官を勤めていた。配下のユダヤ人のラインハート・ハイドリッヒ(Reinhardt Heydrich, 1904-42)はヒトラーに可愛がられた。ハイドリッヒはユダヤ人をシオニストと非シオニストに分類し前者をパレスチナに行く権利を持つ者だと主張したのである。なお、ミルデンシュタインの後任としてユダヤ人局の長官になったのがアドルフ・アイヒマンである。
ミルデンシュタインは1933年のヒトラー政権誕生と同時に、ドイツ・シオニスト連盟の幹部クルト・トゥッヒュラー(Kurt Tuchler, 1894-1978)と共にパレスチナに招待されそこで6ヶ月を過ごした。パレスチナに招待されたSS幹部は彼ばかりではない。1937年にハガナーは彼の後任のアイヒマンをパレスチナにゲストとして招待した。ニュルンベルグ法が制定されて2年後のことである。
SSだけではなく、シオニスト組織はゲシュタポとも良好な関係を保った。ドイツ・シオニスト連盟の責任者だったハンス・フリーデントハル(Hans Friedenthal)は第2次大戦後に次のように語った。
『当時ゲシュタポは特にパレスチナへの移民を推進するためにあらゆることをやってくれました。我々が移民の準備に関して他の当局者からいろいろ言われたときによく彼らの助けを借りたものでした。』
(4)ニュルンベルク法に対するシオニストの反応
1935年9月にニュルンベルク法が制定された数日後、シオニストのジューディッシェ・ルンドショー(Jüdische Rundschau)は次のように書いた。
『ユダヤ人たちが少数派民族の刻印を押されたからには、ドイツ国家とユダヤ人との間の正常な関係を打ち立てることが再び可能となる。この新しい法律はドイツでの少数派であるユダヤ人に自身の文化的な生活、それ自身の民族としての生活を与えるものである。将来においてユダヤ人自身の学校、劇場、そしてスポーツ組織を作ることが可能となるだろう。つまり、それは我々自身の未来を、民族的な生活のあらゆる見地から、形作ることを可能にするものである。』
またジャボチンスキー系列組織の指導者であったゲオルグ・カレスキ(Georg Kareski, 1878-1947)は1935年の暮にこう述べた。
『長年の間、私は、紛争無しに我々が共存する前提として、文化的な事柄について両民族の完全な分離を唱えてきた。・・・。このニュルンベルク法は・・・相互の尊敬に基づく分離した生活への熱望を完全に満たすものである。・・・したがって、ユダヤ人の見地から言って全面的に望ましいものなのだ。』
そしてドイツの内務省ユダヤ問題専門家のバーンハルト・レーセナー(Bernhard Lösener, 1890-1952)は語る。
『シオニストはニュルンベルク法で強調される精神に対する反対をほとんど示さなかった。なぜなら彼らは、この法がユダヤ人にとっても同様に唯一の正しい解決方法であることをすぐに気付くからである。』
ニュルンベルク法ではユダヤ人がドイツの国旗を飾ることが禁止された。そしてその代わりに白地にブルーの線とダビデの星をあしらった旗を飾る権利を保証された。それがドイツ国内にあるシオニストの訓練キャンプと施設にひらめいていたのである。
(5)シオニストによるナチスとの軍事同盟提案
1941年1月、英国をユダヤ人国家建設の最大の障害物と見なすテロ集団レヒの代表者であったアヴラハム・スターン(Avraham Stern, 1907-42)は、その配下で後にイスラエル首相となるイツァーク・シャミールがリーダーを務める民族軍事機構(National Military Organization=NMO)とナチ第3帝国との間の公式な軍事協定締結を提唱したのだった。この提唱は戦後になってトルコのドイツ大使館でファイルの中から発見されアンカラ文書として知られるようになった。
この軍事同盟は結局実現しなかったが、シャミールの集団によるイスラエル創設に障害となる勢力への攻撃はとどまらなかった。
彼は2度英国に逮捕されたがすぐに脱獄し、大戦後に英国モイン卿やスウェーデンのベルナドッテ伯の殺害、デイル・ヤシン虐殺などを主導した。シャミールはメナヘム・ベギンやダグラス・ファイスの父親ダルック・ファイスと共に、ジャボチンスキー系列であるポーランド・ベタールに所属していたのだ。
【以上、参照資料】
http://www.jewsagainstzionism.com/antisemitism/nazisupport.cfm#_ftn3
http://www.marxists.de/middleast/schoenman/ch06.htm
http://www.rense.com/general34/ZAND.HTM
http://www.mail-archive.com/[email protected]/msg00545.html
http://groups.google.gp/group/aus.culture.true-blue/browse_thread/thread/a45f263a7b8e2401/29d4365f12991698?lnk=raot
by oninomae | 2014-03-09 20:25 | 魔術=詐欺とイルミナティ