わたしの子ども

これまで生まれてくるかもしれなくて、これから生まれる可能性のあるかもしれないわたしの子どもについて考える時がある。わたしがそう言うと、恋人はこの言葉に対してどう返していいのかわからないまま、何か言うのをためらっているような表情を浮かべた。

三十歳ごろから卵子の数が少なくなって、どんどん妊娠しにくくなることを最近知った。それ以来、自分の身体に「あなたは子どもを生むんですか、生まないんですか」と常に問われているような気がする。自分にとって妊娠とか出産などのトピックは、銀河や深海といったような、はるか遠く、スケールの大きなものと同じようなカテゴリーに分類されていた。わたしはわたしだけの人生をやるのにいつも精一杯だったから子どもを持つことなんて考えたこともなかったし、何より自分自身が幼少期より「生まれてきてよかった」と思うことより「生まれなければよかった」と感じることのほうが圧倒的に多かったので、誰かに同じような思いをさせないこと、つまりは誰も生まないことが自分がこの人生でできる最良の選択だと思っている。だから自分の心境に大きな変化がない限り、わたしの子どもと会うことはないだろう。わたしはそのことが自分にとってよろこばしいことなのか、悲しいことなのか、よくわからない。時おりからっぽのお腹を撫でる。これまで生まれてくるかもしれなかったわたしの子ども。これから生まれてくるかもしれないわたしの子ども。あるいは死ぬまで会うことのかなわないわたしの子ども。わたしはたまに呼びかける。あなたはどこにいて、何をしているの。

今月も生理が来る。毎月毎月飽きもせず、決まったようにやってくる。先月もあなたは妊娠しませんでした。では今月は?そう身体から言われている感じがする。子宮を押さえつけるようなこの鈍痛は子どもを生まない罰なのだろうか。ベッドでうずくまりながら、わたしの子どものことを考える。わたしはあなたを生まないからこんな罰ゲームを受けてる。わたしはあなたに会いたいのか会いたくないのか、よくわからない。あなたもたぶんそうだよね。生まれたいかどうかなんて、わかんないよね。生まれるって、あなたの意思と関係なく勝手に行われてしまうことだもんね。闇夜の奥に小さく金星が見える。ぎらぎらと光っている。どこかにいるわたしの子どもにも見えるだろうか。あの輝きは見てほしいかも。でもあなたを生むことを選択する勇気は今のわたしにはない。わたしはからっぽの子宮を撫でながら、なめらかな惰眠のなかへと落ちて落ちて落ちていく。