独学のススメ(11)
(私よりも)若い世代、50歳から小学生まで、を取り巻いている環境はすさまじいものがある。頭と心への絶え間ない攻撃に晒されている。
頭と心への四方八方からの攻撃を、分野に分けてランダムに眺めると次のようになる:
①政府とアカデミー(いわゆる学者を指す)と大手マスメディアが三位一体となってのプロパガンダ(簡単に言えば洗脳)、
②小学校から大学までの暗記教育システム、
③高度に発達したIT(Information Technologies)システムとコンテンツによるバーチャル世界、
④コンクリートで固められた(人工)環境-人間以外の自然の生命体に触れる機会が激減している、
⑤コミュニティの喪失-特にコミュニティベースの遊びの消失。
朝目が覚めてから寝るまで、ひどい環境の中であちらこちらから頭も心も攻められれば、そりゃ変な人間も増えるわけだ。あるいはまともに見えてもどこかおかしい存在が増えていく。
このような環境と状況の中で、自分をまともな人間に仕立てていくには、自分で自分を鍛えていくしかない。援軍は極めて少ないと覚悟しておかねばならない。と、全体を眺めて、本日の話題である。
前にも書いたかも知れないが、親の金でスペインに遊学したとき、最も感激した三つの単語がある:
originalidad, (originality) オリヒナリダ(ッド)
personalidad (personality) ペルソナリダ(ッド)
individualidad (individulity) インディビデュアリダ(ッド)
の3語である。
単語の意味は当然出かける前から知っていたが、感激したのは、この三つの言葉に込められた大きな価値観にある。一人一人の人間にとってこれが最も大事な土台であるとする価値観にあった。人は「個性的」であらねばならぬ、「独創的」であらねばならぬ、「独立的」であらねばならぬとする。
さらに、「unico」という言葉に与えられている重要度にも感激した。unico(ウニコ)はuno(ひとつ)から出ており、英語で言えばユニークであり、世界で唯一つの存在、世界の人口数多しといえども俺様は誰にも似ていない唯一無二の存在であるという誇りが込められている。
小さい時から人(他人)と同じことをしたくない、あれやこれや指導を受けるのは好まない、型どおりにやるのは嫌いという性格を持ってきた私にとって、百万の味方を彼の地で見出したわけだから、そりゃ感激するわけだ。
一方、この日本列島の社会では、ユニークという形容詞にはしばしば「変な奴」という意味で使われることからもわかるように、個性は尊重されない。”欧米人に比べて日本人は独創性に欠ける、なんとかすべきだ”なんて大きな声で言う人ほど、実は社会(会社とか学校)の中で独創的・個性的人間を叩き潰している存在だから手のつけようがない。
この列島の住人は、他者(野に生きるすべての生命を含む)と共に生きる、共生という素晴しい観念(あるいは精神)を文化として共有している。この共生の精神こそ、これからの地球で最も大事にすべき、あるいは有効な心の在り方であるが、これがマイナス方向に振れると没個性に向かう。自分をあからさまに表に出さない、あるいは出す人を叩き潰す色合いが強くなる。さらにマイナスの方向に進むと、自分の判断を持たずに、指導者(指揮官)の命令のままに右へ左へと動くだけの羊の群れが出来上がる。
マスメディアでは、これからの日本というようなテーマで、しばしば「グローバル人間」でなければ、といった論調が目に付く。グローバルな人間、つまりグローバルな環境の中で生きられる存在であるためには、まず何よりも個性的でなければならない。忍者のように息を潜めてグローバルな環境の中に同化する存在ではない。
小学校1年生の時から一人一人の個性を伸ばす努力をせず、それどころか個性を叩き潰す教育しかして来ていないのに、何がグローバルだ。もちろん、グローバル化だなんだと大声で言っている人ほど、多分、個性を持たない金太郎飴の一粒であり、隣の人もグローバルだと言っているから自分も真似して唱えているだけに過ぎないのだろう。
共生とは自分を殺して他者と生きることではなく、個性と個性をぶつけながら、互いの個性を尊重しながら共に生きることを意味している。
(13.04.26.篠原泰正)