独学のススメ(1)
電子ブックが普及し始めているようである。電車の中でもこの電子ブックで何ごとかを熱心に読んでいる若者の姿をちらほら見かけるようになった。私は若い頃ジャーナリストを志したことがあるぐらいだから、性格の一部に野次馬またはミーハーなところがある。そのため、何を読んでいるのだろうと、横目を使えばのぞける場合には観察をしてきた。なんと驚いたことに、3回に2回は、電子ブックで漫画を読んでいた。最新のハイテク技術を集めた電子ブックと漫画という取り合わせは珍妙である。
この日本列島に生きる人々の言語能力のお粗末さについては、この村塾の場で何度も懸念、あるいは怒り狂って罵倒してきたから繰り返したくないが、いい大人ががきじゃあるまいし人前で漫画に読みふけるという姿は見るたびに心が暗くなる。
低レベルの言語能力は三つの原因で生まれている。もっとも、その三つの要因は絡み合っている。一つは、小学校から大学まで、日本語で明確・簡明に何ごとかを表現する訓練を受けていないことにある。日本語という教科がそもそも存在しないのだから訓練もへちまもない。
もう一つは、このところ連続して考えてきている「社会的生物体」においては、明確に言う(もちろん書くを含む)ことはその組織から外におっぽり出される危険を伴うという環境にある。その雰囲気は、子供であっても学校生活の中で薄々気がつくほどに、この列島の社会の常態になっている。明確に言えという訓練を受けていないどころか、言うと命が危ないと感じていれば、とてもじゃないが明確に言うなんて能力が身につくわけが無い。
さらには、まともな本を読む機会と能力が著しく減っている。文字だけの本を読めなくなっている。読まない、読めないから自分の文章力が鍛えられることもない。環境においても、テレビでの映像をはじめ画像と図形が情報の中心となっているから、ますますテキスト(文章)に触れる機会が減る。
そのような状況の下で、大学入試センターの国語の試験を受けると、先日もこの場で書いたように、難解でもって尊しとするが如き小林秀雄先生の文章に目を回すことになる。あんな文章が試験に出てきたら、そりゃ本を読む気力は失せるわな。(余談だが、このような出題をすることは一種のイジメであると私は思う。”どうだ高校生諸君、この難しい文章がわかるかね”とニタニタ笑っている「国語」の先生の顔が見えるようである。)
人間が猿と異なる点は、温泉を楽しめるかどうかにあるのではない。この頃は猿でも温泉に浸かって”ああいい湯じゃ”とばかりに楽しんでいる写真があるぐらいだから、ここには区分を設けられない。以前、この場で、歴史を知っているかどうかが違いの見分け方だと書いた覚えがあるが、どうもそれだけではなさそうである。事実を(できるだけ)正確に伝え、自分の考えをはっきり言う言語能力を持っているかどうかが猿との分かれ目である。
もっとも、猿といえども情報(事実と考えで成り立つ)を伝達する能力は持っているから、分岐点はその能力を「高度に持っているかどうかに置かねばならないともいえる。電子ブックの画面に映し出された漫画を猿にみせれば、きゃっきゃと喜ぶのではないかとも想像できる。
もともこのあたりの話になると私もあいまいであるから、やはり京都大学の文化人類学研究所に出張ってもらうしかない。もっとも、頼まなくとも、先生方はすでに、ボルネオのジャングルでのオランウータン観察やコンゴの密林でのゴリラ観察から、観察の対象をこの列島の人間に移しているかもしれない。
(13.02.09.篠原泰正)