新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

『ただ、それだけでよかったんです』に書かれていること

「人間力」を測る「仕組み」が潜在的に抱えている問題点

私は最初、この作品は、「人間力」という曖昧で恣意的な評価軸によって人生が左右されてしまうという理不尽さを描いたディストピア小説なのだと思った。人間の能力を正しく測定することは非常に難しいし、そもそも、恣意性を廃して客観的に人を評価することは原理的に不可能だ。私が『超電磁砲』に関する記事*1で指摘していたように、不当な評価システムが生み出す差別や不公平感というものは現実世界にも確実に存在している。

近年の大学入試では特にこういう傾向が顕著になっているように感じるが、学力テストでは測ることのできない「人間力」というものを重視すると言えば、確かに聞こえは良いかもしれない。しかしそこには、「こういう人間が良い人間なのだ」という偏見に満ちた決め付けが存在していないだろうか。元気で明るい、コミュニケーション能力がある、誰とでも仲良く話せる、そういった特徴を無意識のうちに「良い」ものとして、それに該当しない者を劣った人間だと見なしてしまうような、何かとんでもない事が起こっているような気がするのだ。そのような現実世界との関連性も踏まえた上で、本作は、学校や社会から「劣った人間」だと烙印を押された菅原拓という人間が、そのような評価を下したシステムそのものに反旗を翻す「革命」の物語なのだ、という見方もできる。

だが、物語を読み進めるにつれて、そのような見方は間違っているんじゃないかと思うようになった。既に他のブログ*2で指摘されているように、作中の人間力テストというものは「わかりやすく数値化」しただけに過ぎない。人間力テストというものがなくても、我々は常に「人間力」を測り、測られ続けているのだ。

それは、教室で囁かれる噂話、インターネット、スマホ、LINE、などなど、ツールは時代や場所によって異なるが、それらは全て人間力を測るための都合の良い「仕組み」(machinery)だ。では、常に人間力を計測される社会の中で「生きづらい」「息苦しい」と思った時、どうすればその苦しみから逃れられるのか。そのような苦しみから子どもたちを解放するために大人は何をすべきなのか。人間力テストを廃止する? インターネットの使用を制限する? LINEを規制する? 結局、そんなことしても、また新しい「仕組み」が生まれるだけじゃないだろうか。

子どもが「空気」の支配に抗うということ

システムが問題の本質じゃないとするなら、本作は一体何を言おうとしていたのだろう。菅原拓は一体何と戦っていたのだろう。既に他のブログ*3でも指摘されていることだが、物語が終わりに近づくにつれて、本作の重要なキーワードとして「空気」というものが浮かび上がってきたように思う。一人でいるより友達と一緒にいることのほうが楽しいよね、友達は少ないより多いほうが絶対良いよね、という空気。そして、そのような「楽しさ」「良さ」を共有できない異質な者に「KY」というレッテルを貼り排除しようとする空気。菅原拓は、学校という社会の中に蔓延るそのような「空気」と戦っていたのではないだろうか。

そういう視点で見れば、彼は徹底的に「KY」を演じ切っていたと言えるだろう。そうすることによって、学校を支配する空気を可視化しようとした。時にはその空気を逆手にとって、彼をいじめていた者への復讐を果たした。クラスにいる誰もが空気によって傷付けられボロボロになった後、彼らはきっと空気に流されることの無意味さ、愚かさに気付くだろう、という風に考えた。

これはまさに、赤木智弘氏が以前記事の中で述べていたのと同じようなことを実行したのだと思う。彼は記事の中で、非正規労働者の待遇がいつまで経っても良くならないのは、彼らが企業や社会に「迷惑をかけない存在」だからだと述べている。なので、ストライキなどの強硬手段によって経営者や国に直接ダメージを与え続けることで、彼らに非正規労働者の待遇を改善しようと思わせることが重要なのだと説く。

貧しい人たちがしなければならない「まっとうな努力」とは、仕事のスキルを磨いたり、貧困の現状を訴えることではなく、積極的に企業の経済活動の邪魔をすることなのかもしれない。
結局のところ、金を持った人間が、自らの道徳観の発露として他人を救うことはないのだろう。彼らが他人を救うとすれば、それにより経済活動がやりやすくなると、金持ち側が考えた場合のみである。
ならば、それを逆手にとって、ソマリアの海賊のように犯罪に手を染めるなり、他人の経済活動に対する邪魔者になることで、貧困をなくしていくしかないのかもしれない。*4

空気に抗うということ、それはKYになりきって空気によって恩恵を受けている者を妨害すること、空気を利用して自分以外の者に危害を加え、空気に従うことのメリットよりもデメリットの方が大きいと皆に自覚させることだ。なるほど、それは、弱い立場に置かれた者が強者に刃向かうための有効な手段となるだろう。

けれども、学校という社会しか知らない子どもが、その学校に蔓延る空気に戦いを挑むということは、大人が想像する以上に難しい。大人は、他人の目を気にしすぎることのバカらしさも知っているし、空気と戦うための具体的な手段も知っている。そして何より、たとえ空気によって集団から弾き出されてしまっても、それで人生が終わってしまうようなことはないと知っている。学校と家だけが世界の全てである子どもは、そのいずれも知らない。菅原拓のように、全てを失う覚悟を持って空気と対決できる子どもは例外的な存在である。

愛されること、ただ、それだけでよかったんです

しかも、そうやって戦いを挑んだところで、状況が一向に改善しないという場合もあるのだ。実際、菅原拓の革命は失敗に終わった。昌也の死という、とてつもない代償も背負うことになった。結局、「人間力」が低いとレッテルを貼られた者、世間の「空気」から弾き出された者は救われないのだろうか。それでも本作は、最後の最後で救いを用意した。

最終的に菅原拓を救ったもの、それは「愛」だった。クラスでは孤立し、実の親からも虐待を受け、学校でも家でも居場所がなかった少年に必要だったのは、愛されること、本当にただそれだけで彼は救われたのだ。

そうか、そうだったんだ。誰からも愛されずにずっと孤独に生き続け、最後に自分を愛してくれる人とようやく巡り合えて救われた拓。クラスメイトや母親からの歪んだ愛に苦しめられ、命を絶つことでようやくそれらから解放された昌也。このあまりにも対極的な2人の人生が、一つの物語の中で描かれていたのだ。これは「システム」や「空気」に関する物語ではない。『ただ、それだけでよかったんです』とは、「愛」にまつわる物語だったのだ!

そう納得してしばらく経ってから、また私の中に疑問が湧いてきた。人は愛によって救われる(あるいは、愛によって傷付けられる)ということが書かれているんだという作品理解は、あまりにも短絡的ではないだろうか。このようなテーマを追求していくと、結局それは「生まれ育った家庭環境が大事」という話に集約されてしまうんじゃないだろうか。要するに、菅原拓という一個人の救済においては「愛」が重要な意味を持っていたというだけの話なのだ。昌也が「愛」によって苦しめられ殺されたことからも分かるように、「愛」は全ての人を幸せにする万能薬にはなり得ないのではないだろうか。

子どもの目に映る「地獄」

本作を通して作者が何を伝えたかったのか、本作のメインターゲットであろう青少年に向けたメッセージがあるとすればそれは一体何なのか、それらの謎は結局分からないままだ。でも、分からないままであるという事実こそが、この作品を電撃小説大賞にふさわしい傑作にしていると思う。

インターネットやLINEのような「仕組み」は使い方を間違えると怖ろしいことになるから気を付けよう。その場の「空気」に流されることなく自分を貫くことが大切です。最終的に人間を救うのは「愛」なのです。……これらの主張は、その全てが正しいのかもしれないし、全て間違っているのかもしれない。どうすれば子どもは救われるのか、人は幸せになれるのか。その疑問の本当の正解は、誰にも分からないし、万人に共通する完璧な答えなどそもそも存在しないのだ。

でも、作品を通じて、一つだけ明らかになったことがある。人間力を測られ続ける学校、空気に従って生きて行かなければならない学校、愛が欠乏した歪んだ家庭環境、子どもが生きているそのような空間は、まさに「地獄」そのものだという事実である。これは拓や昌也だけに当てはまることではなく、多くの子どもが今この瞬間も「地獄」の中で必死に生きているのだ。

私が『がっこうぐらし!』に関する記事*5の中で述べたように、子どもにとっては毎日が命がけのサバイバルなのだ。たとえ人間力テストが無くても、LINEが無くても、空気による支配が無くても、子どもはゾンビが渦巻く世界で生き続けている。子どもを傷付けるものがインターネットなのか、空気なのか、親や教師なのかという違いはあるものの、子どもは常に何かによって傷付けられたり、あるいは他の子どもを傷付けたりしながら、この地獄の中で生き続けている。このどうしようもない真実を、これでもかと読者に突きつけきたのが『ただ、それだけでよかったんです』という怪作なのだ。電撃小説大賞の受賞は当然だと思う。