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『教育という病』感想―教育リスクは科学の言葉で語られるべき

教育社会学者の内田良さんは、柔道事故や部活動顧問の過重労働問題など、日本の学校に潜む「リスク」について長年研究されている。その内田氏の著書『教育という病』(光文社新書)が発売されたので、早速読んでみた。そしてこの本は、教育関係者なら是非知っていてもらいたい重要な指摘が数多く書かれた名著だと思った。インターネット上で彼の活動をチェックしている人からすれば、今さら確認しなくてもいいような内容なのかもしれないが、やはり学校に関連する「リスク」について要点を整理して理解するために是非読むことをお勧めしたい。

著者は、教育という名のもとで学校空間での様々な「リスク」が放置されたままになっている現状に警鐘を鳴らし、そのようなリスクを「教育リスク」と呼んで本書で具体例を挙げつつ議論している。著者によると、教育リスクには次のような特徴があるという。

  1. リスクが直視されない
  2. リスクを乗り越えることが美談化される
  3. 事故の発生が正当化される
  4. 子どもだけでなく教員もリスクにさらされる
  5. 学校だけでなく市民もまたリスクを軽視している

(238~239頁)

まず第一に、そもそもリスクの存在が知られていない、知られていたとしても「〇〇に事故はつきもの」などと言われて軽視されてしまうフェーズがある(特徴1)。これは自戒も込めて書くが、私も本書を読むまで、運動会等で行われる人間ピラミッドの危険性について十分に理解していなかった。私が小中学生だった頃にやったピラミッドと言えば、せいぜい3段か4段の単純なものだった。しかし今日の小中学校では、地域にもよるが、組み方も非常に複雑な9段とか10段のピラミッドを作るところもあるという(54頁)。これは確かに危険だなあと思ったし、実際に毎年のように何件もの重大事故が発生し訴訟も起きているという。2分の1成人式や柔道事故などについても言えるが、まずはそのようなリスクがあるという事実を知ることが非常に大切なのだと実感させられる。

しかし、そうやってリスクが認知されても、「苦しい練習を乗り越えてこそ子どもは成長できる」みたいな言説によってリスクに立ち向かうことが美化され、そのリスクを取り除こうとすることが教育上良くないことであると非難されたりする(特徴2)。桜宮高校バスケ部の事件に代表される部活動におけるトラブルは、まさにそのようなリスクを乗り越えることが美談化される空気の中で、体罰やパワハラが正当化された結果生じたものだと言える。

しかも、そうやって重大な事件や事故が発生しても、「教育の一環として良かれと思って行われた体罰だった」などという理由で、加害者に逆に同情が集まったり、非常に軽い処分で済まされたりする(特徴3)。本書のタイトルにあるように、教育者が「子どものため」に行うことは全て「善いこと」であり、それによってリスクが生じたとしてもしょうがない、という「病」が蔓延しているのだ。

そして、これらのリスクによって被害を被るのは子どもだけでなく、教員も被害を被る可能性がある(特徴4)。リスクを放置して重大事故が発生すれば、当然、訴訟問題となる。また、学校や保護者が「子どものため」という言葉を振りかざして、膨大な負担を現場の教員に押し付けてきたりする。特に、部活動顧問の過重労働問題がクローズアップされるようになってきている。自分のよく知ってる競技ならまだ良いが、全然知らない競技の顧問をやらされ、休日返上で部活動の引率をしなければならない場合もある。しかも、何かあった場合の責任は全て顧問に背負わされる。このような教員の過重負担が生じているのは、先進国では日本だけである。

しかし、以上に挙げたような学校で子どもや教員が被るリスクについて、世間は驚くほどにその実態を知らないし、むしろ積極的にそのリスクの存在を支持したりしている(特徴5)。体罰を行う教師を「生徒想いの良い先生」だと持ち上げたり、教員が子どものために身を粉にして働くのは「当たり前だ」と思っている保護者が少なからずいる。著者のような人がリスクを無くすように声を上げても、モンスターペアレント的な言いがかりと同一視されて相手にもされない。

本書の中で一貫しているのは、学校空間で当たり前に正当化されているリスクに対して、きちんと科学的根拠(エビデンス)を提示してその問題点を指摘していこうとする姿勢だ。学校で起きた事故や当事者の声を集めて体系化し、何が問題なのか、どうすればリスクをなくせるのかを科学的に解明しようとしている。リスクを科学的に理解しようとする姿勢の大切さを改めて気付かされた。

例えば、部活動(特に運動部)の問題について考えてみよう。私ははっきり言って、今の学校単位で行われる部活動は廃止すべきだと思う。スポーツ指導の専門家ではない教員が本来必要ないはずの顧問の仕事まで引き受けている今の状況はおかしいと思うし、部を強くするために暴力すら正当化されるような風潮は部活動という枠組みがある限り無くならないと思う。スポーツは、それをやりたい人が自分のレベルに合わせたクラブを作って、やりたい人だけで楽しめばいいと思う。それを行き過ぎた極論という人もいるだろう。「学校単位の部活動でも安全なスポーツ活動ができる」と言う人もいるだろう(実際、本書でも指摘されている通り、柔道界が事故防止に努めるようになって以降、死亡事故の数が大幅に減少したという事例もある)。しかし、どのような主張をするにせよ、その背後には説得力のある科学的な根拠がなければならない。教育リスクの問題は、どのような場合であれ、科学の言葉によって議論されなければならない。だが、本書でも散々述べられているように、「教育の一環だから」「感動的だから」「子どものためだから」を言い訳にして人権侵害を放置している人達に科学の言葉は通じない。

そんな状況を打破していくためにも、まるで『教育という病』の宣伝みたいになってしまうが、この本はなるべく多くの人に読んでもらいたい。私も微力ではあるが、理不尽な教育リスクがなるなるまで、ずっとこの問題を指摘し続けようと思う。著者たちの運動が広がって、やがて国民を巻き込んだ大きな論争となっていってほしい。そしてその論争は、伝統や精神論や建前によってではなく、客観的な科学の言葉によって行われるものであってほしい。教育リスクに対してどのような政治的決断を下すにせよ、私たちはまず、その決断の根拠となる教育リスクの実態について科学的に理解する必要がある。