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 2016年5月のゴールデンウィークを利用して、奄美、加計呂麻、喜界島を巡る旅を計画しました。
 奄美・加計呂麻への旅は2001年11月以来15年ぶりのこと。今回は、碑めぐり的な要素に加えて、それらの島がどう変わったのかを確認することも重要なポイントとなります。
 また、喜界島にも初めて渡りたい。島に1泊して、湾、中里、荒木、手久津久、花良治、阿伝、嘉鈍、塩道、志戸桶、小野津などの集落のたたずまいを垣間見てきたい。

 当初の旅程は概ね次のとおり。

 5月3日 早朝に庄内を発ち、飛行機を乗り継いで午後には喜界島へと向かい、レンタバイクで翌日の昼頃まで島内めぐり
 5月4日 午後のフライトで奄美大島へと飛び、空港からはレンタカーで島の北部を巡って、名瀬泊まり
 5月5日 大島の南部をゆっくりと周遊し、瀬戸内町のターミナルとなっている古仁屋に泊まり
 5月6日 朝早く加計呂麻島に渡り、各集落のたたずまいをたっぷりと味わって、夜までには名瀬へと戻って、最後となるヤンゴ(屋仁川)の夜を堪能する
 5月7日 午後まで名瀬市内や大島内の見落としどころを拾い、午後便で鹿児島を経由して羽田発の最終便で戻る

 というわけで、3日の朝は早起きしてまずは予定どおり庄内空港発7時10分のANA394便で羽田へ。そこから鹿児島行きANA621便に乗り換え。しかし九州方面が荒天とのことでダイヤが乱れており、11時25分着の予定が12時15分に。これって、喜界島行き12時30分の便に間に合わないじゃん。

 鹿児島空港からは日本航空系になるので、大慌てでJALの出発ロビーに走り、搭乗手続きを。
 なんとか間に合ったのはいいのだが、喜界島に降りられないかもしれませんとのこと。ああもう。なんでこの辺りだけ土砂降りなんだ?!

 喜界島行きJAC392便のプロペラ機は、喜界島上空まで行って着陸アプローチをしたものの降りられず、鹿児島空港へ引き返し、結局欠航に。あの雨ではむべなるかな、か。
 鹿児島空港に戻って14時半過ぎ。フライト変更の手続きをすることになったが、今日の喜界島便は満席でキャンセル待ちとのこと。うーむ。夕方の奄美行きのフライトなら取れるというので、賭けはせずに喜界島は諦めて、それに切り替えることにした。

 喜界島は今回の旅の目玉だったのになあ。
 喜界島へのアプローチは今回でたしか3度目。前2回は、船、飛行機での上陸を想定しましたがいずれも日程的に厳しく断念していただけに、ここまで来て目的を絶たれるのは極めて残念だ。
 IWGP王者の棚橋弘至はリング上で、挑戦する若いオカダ・カズチカに「オカダ。IWGPは、遠いぞ」と発言したが、自分にとっては「喜界島は、遠いぞ」なのでアッタ。

(画像は、2001年11月当時の諸鈍湾)


 もう16時。確保した鹿児島発奄美大島行きのフライトチケットは17時30分発。
 やれやれ、昼メシを食べる時間もなくここまでやってきたけど、遅い昼食を鹿児島空港内で食べようか。

 鹿児島に来たならこれでしょとチョイスしたのは、とんこつラーメン900円。
 高いよ、空港内レストラン。

 とんこつ臭さはかなり抑えめでソフィスティケイトされているなと感じるものの、とんこつらしき風情が漂っています。
 沖縄でいう軟骨ソーキが3個。甘辛い味付けでとても美味。
 細いモヤシが南日本に来たことを実感させます。トッピングはほかにワカメ、ネギ、焦がしネギ。
 麺はストレートながら細くはないもの。鹿児島のとんこつラーメンの麺って、博多あたりとは違ってこういうのがスタンダードなの? 製麺所製っぽいけど、山形の酒井製麺所の麺のつくりに似ていて好感。

 空港内レストランのラーメンとアナドッテいましたが、なかなかに美味。680円ぐらいなら許せるのだけどなあ。
 空腹だったこともあり、おいしくいただきました。

 山形屋(やまかたや)というからには、鹿児島市に本拠を置く老舗百貨店の系列店なのでしょう。
 ちなみに山形屋の創業者は、近江商人の血を受け継ぐ現在の山形県庄内地方の北前船商人で、薩摩藩主の許可を得て開業した鹿児島城下唯一の呉服商だったそうです。


 鹿児島では、喜界島の宿とレンタバイクをキャンセルして、今夜の名瀬の宿を確保。鹿児島を17時50分に発って、19時に奄美空港着。大雨はウソだったように上がり、異常な湿気が辺りを包んでいる、との第一印象。長袖ではシャツ1枚でも蒸し暑い。
 空港からは路線バスで45分ほどかけて名瀬へ。料金は1,100円。
 屋仁川通りにほど近い宿にたどり着いたのは20時過ぎ。さあ、ビーサンに履き替えて、さっそくヤンゴで飲むとしようか。
 あれぇ、ヤンゴってこんなに上品な通りだったかな。味のある民宿「たつや旅館」は健在だけど、若者たちの賑わいはどうなのだろうな。

 チョイスしたのは、ヤンゴの繁華街のほぼ中心にある「居酒屋脇田丸」。
 たまたま空いていたと思われるカウンター席の一番手前に案内されるが、繁盛しているとみえてなかなか注文を取りに来ない。店員を呼び止めると、ちょっと待っててねと。
 さらにしばらく待って注文を取りに来たのは東南アジアからやってきた風のネーサンで、日本語の要領を得ないヒト。うーむ・・・。

 生ビールとメインの赤ウルメの唐揚げ、それに唐揚げがつくられるまでのつまみにたこわさを注文。
 お通しの小魚の南蛮漬けとたこわさで生ビールをぐびぐび。あー、うめえ。
 BGMは中野律紀がデビューした頃のシマウタ。いいじゃないか、シマウタ。このCD、持っているんだよなあ。

 赤ウルメがなかなか来ないので店員に尋ねると、今日はないとのこと。おいおい、そうなら早く言ってよ、こちらもペースというものがあるのだからさ。やはりあのアジア人はテキトーだった。ま、おじさんはこんなことでは驚かないけどね。旅する間に太田和彦の著した上質な酒場についての本を読んだりしていただけに、やや落胆。

 しかしこの店、オペレーションがよくないな。ホール担当のどの店員も表情が硬く、必要以上に忙しさを装っているという印象だ。名瀬にはあと2泊するけど、まぁ、明日以降の再訪はなくなったな。

 黒糖焼酎「里の曙」を追加し、赤ウルメに代えて注文した刺身盛り合わせをつまめばなかなかにグー。ネタはソデイカ、シマダコ、シビ(マグロ)などの4点。ソデイカのねっとり感、シマダコのキュキュッとした歯応えがステキだった。

 勘定は締めて2,430円。
 今日は朝から、庄内~羽田~鹿児島~喜界島上空~鹿児島~奄美とひたすら飛行機に乗って、機内と空港待合室で過ごした1日だったな。

 まだ余裕あり。ヤンゴ周辺をパトロールして、どこかで缶チューハイでも調達してホテルに戻ろうか。
 パトロールしながら、うろ覚えなのだが15年前に入った居酒屋周辺と思しきところにも行ってみたけど、それらしき店はもうなかった。それにしても15年前に感じた雑然としたこの港町の活気のようなものはすっかり影を潜めてしまったようだ。


 一夜明けて5月4日。
 7時半に起きれば、名瀬は快晴。おーし、こうでなくっちゃ。
 というわけで、8時半から1時間ほど名瀬の中心街を散策してみる。
 今夜も同じホテルに宿を取ってあるので荷物は少なく軽装だ。

 名瀬入舟町の交差点から本町通りを郵便局前の変形交差点まで進み、そこから支庁通りを山手のほうに南下します。
 15年前にも見て覚えている教会の庭を見ると、そこには何かの像が。

 この教会、「カトリック名瀬聖心教会」というのだそうで、像はベルナルド・フェリエ神父という人物のもので、礎石に刻まれていた文章によれば、「初代奄美の使徒 1891年(明治24年)から16年間にわたり大島にて宣教され、また名瀬をはじめ4ケ所に教会堂を建立された」人、とのこと。

 昇曙夢の著した「大奄美史」にも、フェリエ神父について次のような記載があるのだそうです。

 「大島におけるカトリック教の弘布は、明治14年(1881)フランスの外国布教団から長崎に派遣された宣教師フェリエ師が、同24年(1891)の末、大島伝道の目的を以て名瀬に渡来した時に始まる。
 爾来師は、名瀬を根拠として、三方、龍郷、笠利等、主として大島の北部地方に伝道網を敷いて、熱心に布教した。」

 教会のある交差点の北西角には「ふれ愛パーク」と名付けられたポケットパーク様のところがあり、この交差点は先に通った名瀬郵便局前とともに印象に残る場所でした。


 支庁通りを南下していくと、通りの右側にあるかなり年季の入った建物に「日本復帰のうた」が掲げられていました。

日本復帰のうた
  作詞 久野藤盛   作曲 静 忠義
 一 太平洋の潮音は わが同胞の血の叫び
   平和と自由をしたひつつ 起てる民族20万
   烈々祈る大悲願
 二 われらは日本民族の 誇りと歴史を高く持し
   信託統治反対の 大スローガンの旗の下
   断乎と示す鉄の意志
 三 目ざす世界の大理想 民族自決独立の
   われらが使命つらぬきて 奄美の幸と繁栄を
   断乎まもらん民の手に
 四 20余万の一念は 諸島くまなく火ともえて
   日本復帰貫徹の のろしとなりて天をやく
   いざや団結死斗せん 民族危機の秋ぞ今

 うーん、スゴイ。いつの時代のものだ。
 強烈なアピールだったのでしょうが、奄美大島が本土に復帰したのは1953年12月だから、かれこれ60年以上も前のものが今もこうして掲げられていることにいささか古色さというか、過去の栄光を感じ取とらざるを得ません。

 でもまあこれも、かつて奄美においてこういう熱い時代があったことを思い出させてくれる、一種のモニュメントと言えるかもしれません。
 鹿児島県教職員組合奄美地区支部の事務所が入っている建物のようでした。


 名瀬小学校とNTTのある交差点を右に折れると、薄桃色をした奄美市役所の庁舎がデデンと建っていました。なので、一応写真を撮っておこうか。
 「奄美市」というよりは、ここならやはり「名瀬市」のイメージが強いよなあ。

 正面入り口階段の右側には、奄美ロータリークラブが2010年に創立50周年を記念して寄贈した「奄美市民憲章」の石碑がありました。

奄美市民憲章    平成19年3月20日制定
 誇りある奄美市民の幸福と前進のために
 一 わたしたち奄美市民は きまりを守り住みよいまちをつくります
 二 わたしたち奄美市民は 助け合いぬくもりのあるまちをつくります
 三 わたしたち奄美市民は 健康で明るいまちをつくります
 四 わたしたち奄美市民は 教養を高め伸びゆくまちをつくります
 五 わたしたち奄美市民は よく働き豊かなまちをつくります

 これといった特徴のある市民憲章にはなっていないように思います。

 奄美市は、2006年3月20日、名瀬市、大島郡笠利町、同住用村が合併して発足。
 ウィキペディアではその同日に奄美市民憲章を制定したとありますが、石碑には上述のとおり平成19年(2007年)と刻印されています。石碑のほうが誤りか?
 小さいことにはこだわらない南国人特有のおおらかさが窺えます。(笑)


 名瀬小学校の交差点をさらに南下すると、永田川という川に「島庁橋」という小さな橋が架けられていて、その先のどんづまりに大島支庁舎が建っていたので、こちらもパチリ。
 GW中とあって公務はお休み。門扉が固く閉ざされていたのでその先には入れませんでした。

 鹿児島県教育庁大島教育事務所もこの建物にある様子。
 「人と自然が共生する癒しの島づくり 奄美群島市町村長会 奄美群島市町村議会議長会 奄美群島広域事務組合」、「奄美群島を世界自然遺産へ 人と自然が共生する地域づくり」などの横断幕も掲げられていました。
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 この3~4月に手に入れた本は、購入順に次の12冊です。

1 沖縄コンフィデンシャル交錯捜査  高嶋哲夫 集英社文庫 2016.3 734
2 新聞投稿に見る百年前の沖縄  上里隆史 原書房 2016.3 2160
3 歩いて楽しむ 信州 善光寺 松本  ジェイティビィパブリッシング 2013.7 古457
4 沖縄の怖い話(3)カニハンダーの末路  小原猛 TOブックス 2016.2 1296
5 沖縄 オトナの社会見学 R18  仲村清司、藤井誠二 亜紀書房 2016.4 1728
6 沖縄戦二十四歳の大隊長 陸軍大尉伊東孝一の戦い  笹幸恵 学研パブリッシング 2015.4 1944
7 オキナワ論 在沖縄海兵隊元幹部の告白  ロバート・D・エルドリッジ 新潮新書 2016.1 756
8 だれが沖縄を殺すのか 県民こそが“かわいそう”な奇妙な構造  ロバート・D・エルドリッヂ PHP新書 2016.4 864
9 羽田美智子が見つけた 沖縄 すてき、ひとめぐり。  羽田美智子 光文社 2016.4 1296
10 君よ観るや南の島―沖縄映画論  川村湊 春秋社 2016.4 2484
11 流木焚火の黄金時間 ナマコのからえばり  椎名誠 集英社文庫 2016.5 561
12 殺したい蕎麦屋  椎名誠 新潮文庫 2016.5 561

 1、2、4~10は沖縄関係の新刊。
 3は、3月後半に信州方面を旅した際の参考文献として買ったもので、今回はこれだけがAmazonの古書購入で、その他はすべて楽天ブックスから新刊書として買ったものとなります。
 11、12はシーナの文庫本。これら2冊は予約しているもので、5月14日現在ではまだ届いていません。
 特に楽しみにしているのは、5、6、10あたりでしょうか。6については、1年ほど前の発刊時にどうして買わなかったのか不思議です。
 7と8は、「ジ」と「ヂ」の違いこそあれ、著者が同一人物。どちらかを読んで、よければ他のもう1冊をという買い方が正しいのかもしれません。

 いずれにしても、これ以前に買った未読本がたくさんあるので、ほどよく順番を守りつつ、興味深いものはある程度前倒しして読んで行こうと思っています。
 名瀬小学校の交差点に戻り、そこから西に伸びる通称「永田橋通り」をてくてくと永田橋交差点へ。
 お、左手に入ったところにシマウタの名店「かずみ」が見えるではないか。唄者・西和美が女将の店で、かなりディープらしい。15年前同様、店をチェックするにとどめる。

 眼前に新しくできた「和光トンネル」が見える大きな交差点で左、つまりは北側に折れて、通称「古見本通り」を北進。今度は右手に入ったところに鳥料理の店「鳥しん」が見える。しもた屋風だった建物は改築して新しくなっている。15年前にはここで鶏飯を食べたのだったな。



 古見本通りをずいーっと最後まで進んで、奄美新聞社のビル前を左(西)に折れ、名瀬港町の細い路地をくねくねと歩き、こんどは東西を走る「奄美本通り」を西へ。
 おお、セントラル楽器のビルを発見。奄美のシマウタをずっと支え続けてきた“ふっちゅねせ(大人青年)”指宿社長とその息子の本拠地はココだったのか。9時半だけど、もう店は開いているんだね。「奄美島唄学校」なんていう掲示も出ているぞ。

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 そのあと歩いた末広本通り、銀座通り界隈は都市再開発中のようで空地が多く、古い面影はどんどんなくなっている様子。
 アーケードのあるティダモールは、再開発が終わったように見えるものの店舗に活気がなく、人影もまばら。以前はもっと人通りがあったように記憶しているのだけどな。
 時間帯が朝だから、なのだといいのだが・・・。

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(画像は朝のセントラル楽器のビル、末広本通り名店街、ティダモール)


 本来ならば、喜界島から今日の午後に奄美大島入りして、空港前からレンタカーを借りることにしていました。
 なので、そのレンタカーを借りるべく、ホテルウェストコースト奄美前を9時40分に発つ特急バスに乗って、いったん奄美空港へ向かいます。

 バスは意味もなく名瀬市内を一周して一度出発地点に戻り、10時頃になってようやく市外へと出ていきます。この間の20分は市内遊覧ができたのでヨカッタだろということなのかな?

 でまあ、11時過ぎに奄美空港着。
 少しの間空港内をうろついたけどこれといったものはなく、せっかくなので、天気のいい時の奄美空港の写真も取っておこうと前庭に出て建物の遠景をパチリ。

 このあと、その前庭の目と鼻の先にあった「タイムズカーレンタル」まで歩いていきました。
 会社の人は「喜界島はどうでしたか?」と尋ねてきますが、実は昨日の荒天で渡れず、昨日のうちに大島入りしたのだと話すと、昼頃からの数時間は激しい雨が降ったのですよと気の毒そうに労ってくれました。
 言葉のアクセントが耳に新しい。たとえば「ありがとうございます」と言うときならば、最後の「ます」が徐々に上がっていくようなしゃべり方。これはこのあたりの言葉づかいなのだろうな。その後、ホテルの女性なども同じような話し方をしていました。

 約束時間よりも2時間ほど早く赴いたのだけど、何も言わずに車を貸してくれたのはエライ!


 15年前にもここには来たと思うのだけど、あれは土盛海岸だったのだろうか。あやまる岬の先端がこんなふうになっていたことについての記憶があまりありません。
 かつてテレビで、にしきのあきらだったかがここを訪れて、「あやまる(謝る)岬」で来し方を謝罪する――といった番組を見た記憶ならありまずが、これは関係ないか。

 「あやまる岬観光公園」の駐車場から少し登っていくと「永野芳辰先生壽像」というのがなぜここにといった風情で建てられており、その先に進むと画像のような絶景ポイントが待ち構えているのでした。

 礎石には「あやまるの名の由来」が次のように刻まれていました。

 奄美の乙女達は、正月になると赤・青・黄の色とりどりの糸で刺繍したきれいな手鞠で手鞠歌を唄いながら鞠つきをします。
 この岬一帯のなだらかな地形が「アヤに織られた手鞠」によく似ているところから、いつの頃からか「アヤマル」と呼ばれるようになり、地名になったんだろうと伝えられています。
  鹿児島県奄美市

 この日のような絶好の天気の日に来ることができてよかった。

 ところで、永野芳辰とは、1898年生まれの内務官僚で実業家。高知県知事。1953年の奄美群島本土復帰の立役者の一人。
 大島郡笠利村佐仁の出身で、京都帝大法学部政治学科卒。終戦後の米軍との処理問題では目ざましい働きをし、これらの功績により1970年に正五位勲二等瑞宝章を授章。
 奄美大島あやまる岬にある胸像は、1976年、全国笠利町出身者によって寄贈されたものなのだそうです。


 さてここからは、今回の目的のひとつでもある島内の碑めぐりが始まります。まずは「浦島太郎のモニュメント」。
 あやまる岬からさらに県道を北上し、用の集落から山中に入っていく県道を離れてさらに直進北上。笠利崎灯台の数百メートル手前に「浦島太郎のモニュメント」がありました。

 カメのほうの台座にいろいろと刻まれています。
 前面には「夢をかなえるカメさん」。

 カメの左手には「龍宮伝説由来について」が次のとおり。
 「奄美、笠利町では古来より海の彼方には恵みをもたらす神の国(龍宮)があり、そこから人々に幸福がもたらされると信じてきました。
 これがニライカナイ伝説です。この伝説が大和の国に伝わり、浦島伝説として日本中に知れ渡ったと言われています。
 奄美大島北端のこの地には亀にまつわる伝説も残っています。そのことから神の国(龍宮)の使者であると信じられています。
 ここにそのモニュメントを設置し、訪れた方々に幸せがもたらされることを願いこの伝説を永く後世に伝えるものです。」

 カメの右側には、「夢見る「カメ」さんのおくりもの」として、次のとおり。
 「頭に触れると知恵が授かる      前右足にふれると男性の願がかなう
  前左足にふれると女性の願がかなう  後右足にふれるとお金がたまる
  後左足にふれると長生きできる    カメに子供を乗せると元気に育つ
  おなかにふれると子供がさずかる」
 ということで、カメのあちこちが太陽の光を浴びてテカテカと輝いています。

 2002年に笠利町商工会が建立したもののよう。周囲には休憩所やトイレがあり、この日も子連れのファミリーがこのカメにとりついていて、なかなかシャッターを押すタイミングが得られませんでした。
 15年前(2001年)に訪れたときは当然ながらこのモニュメントはなく、ちょうどこの辺りから先が土砂崩れのため通行止めになっていたのでした。


 浦島太郎のモニュメント付近に車を停めて、笠利崎灯台の下まで道路を歩いて行ってみました。灯台へと続く階段は、きつそうなので登らず。
 道路沿いにあった案内板には次のように書かれていました。

笠利崎灯台
 この灯台は奄美群島最北端に位置し、奄美大島北部沖合及び喜界島間の海峡を航行する貨物船や定期フェリー、小型漁船などの船舶が、灯台の明りを見ることによって自分の船がどの付近を航行しているか位置を確認するための指標となっている重要な航路標識です。
 地元では「用岬の灯台」と呼ばれ親しまれています。

 主な要目は次のとおりです。
 1 航路標識名   笠利崎灯台
 2 設置場所    奄美市笠利町用 北緯28度31分46秒
                   東経129度41分22秒
 3 設置点灯日   昭和37年3月31日
 4 光り方     単閃発光 毎15秒に閃光
 5 光の強さ    18万カンデラ
 6 光の届く距離  210.5海里(約38キロメートル)
 7 灯台の高さ   地上から灯台の頂部まで 13メートル  海面から灯台の中心まで 60メートル
 8 監視方法    無線装置により奄美海上保安部にて灯火の異常など監視
 9 管理者     奄美海上保安部


 用から笠利の集落に戻り、笠利集落手前の丘の上にある「大笠利教会」に寄りました。
 入り口には「大笠利聖ミカエルカトリック教会」とあり、左横に十字架の形をした塔があり鐘が下がっているのが見えます。これが「アンゼラスの鐘」。

 鐘の手前に碑があったので、少し長くなるけど以下に引用。

大笠利の「アンゼラスの鐘」 ―半世紀ぶり里帰りした「鐘」の略歴―
・おいたち
 ピオゲネット神父様(1924~1932年大笠利教会主任司祭)が、大笠利教会創立25周年銀祝記念の為、カナダの御両親や諸外の信者の寄付によりフランスから取り寄せた由緒ある鐘。
・鐘の出生地
 フランスのサボア地方の首都アヌシー市にある伝統的鐘つくりで有名なパッカー社により1926年作製。パリのモンマルトルの世界最大の鐘とは兄弟分。
・鐘の銘
 鐘のまわりには聖母マリアのイコンと教皇ピオ11世下の肖像及び「王たるキリストに捧ぐ+全世界の教会に王たるキリストの祝日を制定し公布した教皇に捧ぐ+1926年+キリストは勝利をおさめ+キリストは王たりキリストは統べ給う」の言葉が刻まれている。
・鐘の洗礼
 1927年10月30日、鐘は王たるキリストの御名において教皇使節マリオ・ジャルデーニ大司教によって、武文快氏を代父、永田アイチョ女史を代母にたてて洗礼を受ける。鐘の場合の献堂式にあたる祝別することを「鐘の洗礼」と呼ぶ。
・受難(昭和の迫害)
 1930年頃から迫害の兆しが起こり、1934年には宣教師全員が島外へ追放され、大笠利教会は1937年に放火され全焼する。この頃教会の鐘も姿を消す。
・鐘、競売に付さる
 1934年、名瀬で教会の鐘が方々より集められて競売に付される。この時、名瀬の信者青江清道氏と都成幸一郎氏が集まってきた町の地金屋にまじって鐘を買い取ろうとしたが、「信者には売らん」と断られ、二人は名瀬の有力者重信加吉氏に相談し、重信の名義で鐘を全部買い取り、その代金は宮崎に居た都成仲二氏が支払う。
・鐘は宮崎へ疎開
 鐘は宮崎へ無事送られ、戦時中の供出も逃れ、都成氏宅で終戦を迎えることになる。
・浦和へ
 1952年、マキシモ神父は埼玉県浦和に聖堂を建設、鐘を取り寄せる。鐘の銘から之が大笠利の鐘であることが判明したが、当時奄美は米国の信託統治下にあり、大笠利に送り返すことも出来ないので、浦和教会のアンゼラスの鐘として復活する。
・嘆願書
 本田仁義氏が1984年春、帰郷された折りに浦和の鐘の遍歴を詳細に大笠利の教会に報告する。本田氏は浦和教会で30年間この鐘をつき、ピオ神父やマキシモ神父から之が大笠利の鐘であることを聞かされる。
 鐘の里帰りを求める嘆願書を、1984年4月29日付けで大笠利教会役員連名で浦和教会へ送付する。之に対して浦和教会より同年7月15日付けで快諾の旨懇切丁寧な返書が届く。
・里帰り
 1984年12月2日、浦和教会は、島本司教、ローランド神父、山内神父、押川神父による共同ミサで、近隣の奄美出身者を招いて盛大な「鐘の里帰り送別セレモニー」を行い、信者全員によって鐘を奄美に送り出す。

 鐘は大島運輸のご厚意により無償で東京名瀬間を海上輸送され、1984年12月10日、無事名瀬到着、その日のうちに信者有志により陸路大笠利まで搬送、半世紀ぶりに里帰りを果す。
 ここに里帰りしたアンゼラスの鐘が再び祈りと平和を告げるその音を鳴り響かせるよう、大笠利の信徒は「言い尽くせない賜物の故に神に感謝を捧げ」、あわせて浦和教区長島本司教様、ローランド神父様、信徒の皆様の御厚意に心からの敬意と感謝をこめて鐘楼を建立して久遠の記念とする。
  1986年9月7日建立
    押川寿夫神父 文   大石正己 書


 大島の教会の受難と復活の歴史を象徴するようないい話ではある。
 笠利小教区は、1904年に大笠利で300余名が洗礼を受けて以来、112年の歴史があるのだそう。九州のキリスト教の広がりは、東北地方のそれとはまったくスケールが違うのだな。


 次に訪れたのは、「かさんつるまつ顕彰碑」。
 大笠利教会のT字路を赤木名方面へと続く山手の道に入って行き、最初の交差点を右折したところに「詩人川上鶴松 かさんつるまつ顕彰碑」と刻まれた大きな碑が建っていました。
 敷地全体が整備され、礎石に三線が描かれた、まだ新しい立派な碑です。

 なぜ集落外れのここに?との疑問は、碑に刻まれた文字を読んで氷解します。

 祖先代々之此地に 詩人川上鶴松祖母の功績を称え 集落の繁栄と 無病息災を願い
 島唄が唄い継がれ 発展する事を祈願し 顕彰碑を建立す
  2007年1月6日
   玄孫 日高清二

 ここが先祖代々の地なのですね。建立してからまだ9年ちょっとか。

 碑の側面に刻まれる次の歌は、鶴松の代表的な琉歌。
  玉乳(たまぢ)握(か)ちみれば  染だるより勝り
     後ろ軽々と  いもれしょしら
  かさんはぎ島や  ギマ木ぶすみぶす
     つるまつぬこげや  ちぅぶすみぶす
  山ふどあてぃん  家倉ふかれゆみ
     かながなぐさに  ありばゆたさ

 第1首は、「玉の乳房に手を触れたからには関係したよりもまさる。それで満足して未練を残さずにさっさとお帰りなさい」の意。しょしらは男の敬称、かちみるは物を握ること。

 ちなみに第2首は、「笠利は山がなく、わずかにギマ木が生えているだけだ。鶴松の家だって2、3筋しかないじゃないか」と挑発する男の返し。
 そんな男の挑発に鶴松は第3首で、「たとえ山ほどそれがあっても、家倉が葺けるわけではない。自分の主人たるべき人が事欠かなければその程度でもいいではないか」と答えています。

 川上鶴松は、1791年大笠利生まれで1880年没。幼い頃から感受性が豊かで歌作りがうまく、人々から歌作りの天才と呼ばれていました。当時奄美で流行っていた「歌問答」という即興的な歌のやりとりを大笠利海岸などで行い、人気を集めていたといいます。
 薩藩時代のシマウタは暗くて辛くて・・・といったものが多いけど、鶴松の歌はおおらかで、官能的、自由奔放なものが多いとのこと。琉球王国時代でいえば恩納ナビーみたいな位置づけですかね。

 あとで行くけど、笠利鶴松の碑は赤木名にもあります。


 時間は12時半。そろそろメシだな。
 奄美で昼メシといったらこれしかないでしょう、「鶏飯」。今回は有名店で食べるんだもん♪
 ということで、赤木名のほうに山を下りてきて、外金久にある名店「みなとや」へ。

 店の入り口前にはでっかい地鶏のモニュメントがあり、「元祖鶏飯 みなとや」と大書されています。さぞかし儲かっているのだろうな。
 その礎石にはつぎのように書かれていました。

元祖鶏飯の由来
 鶏飯料理は、今から約400年前、奄美が薩摩藩の支配下のころ、ここ赤木名で役人をもてなすために考え出された超贅沢な料理でした。内容も鶏肉の炊き込みご飯で、庶民には口にすることもできない高級料理でした。
 昭和20年、当みなとや旅館開業にあたり、初代館主岩城キネがふるさと料理復活の研究の末、開発した料理の一品で、現代風にアレンジし「鶏飯」として呱々の声をあげ、今日に至っております。
 さらに、昭和43年4月、現在の天皇・皇后両陛下ご来島の折、奄美を代表するお食事として当館の鶏飯が推奨され、両陛下が「おいしい!もう一膳」と催促までなされ大好評をいただきました。これを機に、またたくまに全郡に広がり、鶏飯元祖として、面目躍如、その普及ぶりに驚いているところであります。
 どうぞ末永くごひいきのほど、よろしくお願いいたします。
 第二代館主敬白

 世の中に似非元祖を名乗る店は多かれど、どうやらココは本当の様子ですね。
 入ってみると、想像どおり満員。しかしここまで来たなら諦めるわけにはいくまいて。7~8人が並んでいるけど、列につこう。

 しばらく並んでしばらく座って待って、約40分後にようやくありつけました、鶏飯1,000円。
 並んだ甲斐があってデラウマでした。
 御櫃からごはんを適量よそって、それに皿の具をこれまた適量載せ、鶏で取ったダシの効いた熱々のスープをたっぷりとかけていただくという珠玉のサラサラメシ。

 やや塩辛めの鶏スープは見た目透明感があってあっさり風だけど、実にコク深い味がして、これとご飯だけでもイケそうなもの。食べてみて、これより上質な鶏スープはそうそうないだろうと思う。
 皿に盛られた具は7種。細く裂いた鶏肉、錦糸卵、刻みネギ、味付け海苔の袋ごと半分に切ったもの、味付けシイタケ、柑橘類を乾燥させて粒状にしたもの、タクアンなのか漬物風を細かく刻んだもの。

 いやはや、美味。体重やこのあとに食べるものを気にしなければ、これは何杯だってイケるぞ。おれも天皇陛下のように「おいしい!もう一膳」と自分に催促だ。

 結局、軽くではあるにせよ大きめのご飯茶碗に4杯いただいて大満腹の大満足。これって我が地元で供してくれるところがあったなら頻繁に食べるのだけどな。
 あ、でも、この味を再現できるかどうかはビミョーなのだろうな。


 腹ごしらえを終えて、「みなとや」からほど近い「赤木名観音堂の碑」を見に行きます。
 場所は、赤木名中学校の裏に当たる高台。学校裏に秋葉神社の鳥居があり、そこを山手に向かって進んでいくと、「赤木名グスクの碑」と並んでその向かって右側に「赤木名観音堂の碑」が建っていました。

 まずは「赤木名グスクの碑」。
 立派な礎石。その左右に「赤木名城跡総合案内板」と「国史跡赤木名城跡」のはめ込み看板があったので、ここにそれを引用。

赤木名城跡総合案内板
 赤木名城は笠利湾を望む赤木名里集落背後の丘陵、標高約100mの通称「神山」に立地する。城跡は南北約300mに張り出す丘陵尾根上に立地し、奄美地域においては屈指の規模を持つ。また、城郭の縄張り、構造は九州地域の山城と類似する。
 城域は北側の標高100mの最高点を中心とし、郭、土塁、石積、堀切、縦掘などの遺構が見られる。南側には相対的に広い曲輪が展開し、その西斜面には8段に及ぶ帯曲輪が連続する。これらの曲輪や堅掘の配置から西側の笠利湾方面に対する防御を意識している。
 発掘調査では柱穴や土坑などの遺構と11世紀から18世紀にかけての陶磁器や土坑の中から洗い出された「米粒」が検出され、大島において11世紀ごろから農耕開始の可能性も高まっている。
 城跡が広大に拡張したのは、15世紀から17世紀と考えられる。中世並行期の奄美地域の歴史は必ずしも明らかではないが、15世紀には琉球と喜界島との抗争があり、15世紀末に日本勢力が大島への介入を続けており、大島は琉球・日本双方の勢力とそして(ママ)軍事上の要衝であったと考えられ、こうした状況の中で城郭が築かれたものと推定される。
 琉球では14世紀ころから石造りの独自の城郭が発展するが、大島ではその系統のものが見られず、赤木名城は日本からの影響が看取される。
 このように赤木名城跡はこの時期の琉球と日本・奄美との政治・軍事・経済的な関係を知るうえできわめて重要な遺跡とされている。

国史跡赤木名城跡
名 称   史跡 赤木名城跡
指定年月日 平成21年2月12日(文部科学省告示第6号)
所在地   奄美市笠利町里
指定の理由
基準  特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(昭和26年文化財保護委員会告示第2号)の史跡の部二による。
説明  琉球列島の奄美地域を代表する中世並行期の城郭。奄美大島の北部西岸にある笠利湾を望む丘陵上に立地した奄美地域屈指の規模をもつ。全体の構造からみて石垣が発達した琉球より日本の影響がみられることが注目される。この時期の琉球・日本・奄美との政治・軍事を考えるうえできわめて重要な遺跡。

 この城の主だった人物などはわかっていないのですかね。


 一方の「赤木名観音堂の碑」。
 赤木名観音堂については、マリカミズキ(吉原まりか&中村瑞希)が ♪赤木名観音堂~ とうたうのをオムニバスCDの「アマミシマウタ」(2002)で聴いて、どんなところなのだろうと興味がありました。きっと立派な観音堂があるのだろうなと。
 しかし、観音堂らしきものはないですね。

 碑文自体は非常に古いために読み取れませんが、手前に石製の解説文があったのでそれを引用。

赤木名観音堂
 赤木名観音堂は延宝3年(1675年)に建立され、文政2年(1819年)伊津部に移転するまでおおよそ144年間、この地に士民教化の殿堂としてその偉容を誇っていた。
 この碑は観音堂開山時の住職の墓碑である。和尚は開山のとき来島その労にしたがい、元禄3年(1690年)まで15年間、そのすぐれた禅学の道で士民の教化にはげみ、この地で天寿を終えたのである。
 開山300年を記念し墓碑を再建、はるか南海の孤島の士民の信教に殉じた遺徳を顕彰する。
  昭和51年10月吉日  笠利町長 朝山玄蔵

 ふーん、この碑は観音堂の初代住職の墓なのですね。その名前は何ていうヒトなのだろうな。
 この碑文によれば、観音堂は今から200年ほど前に名瀬の伊津部に移転とされています。

 「大奄美史」によれば、大島では旧藩時代には笠利間切赤木名に補陀山観音寺があり、そのことは民謡「赤木名観音堂」で広く知られる。鹿児島県福昌寺の末寺で、開基年暦や開山僧の名は伝わっていない。はじめ名瀬間切大熊村にあったが、二度も火災に遭ったため、後に赤木名に移り、さらに文化の頃(1804~1818)に名瀬村伊津部に移ったと伝えられる。とのこと――。

 碑によれば、当時仏教は広く島民に普及していたわけではなく、「士民」の教化の殿堂だったのでしょう。
 では現在、観音堂は名瀬の伊津部にあるのではないかと調べてみましたが、薩摩藩における明治初期の廃仏稀釈は他藩より徹底して行われ、観音寺は破壊されたとのことです。
 つまりは、民謡「赤木名観音堂」だけが残ったという不思議。奄美のシマウタは奥が深いよなぁ。


 旧笠利町の大笠利地区で「かさんつるまつ顕彰碑」を見てきましたが、赤木名地区にも「笠利鶴松の碑」があるというのです。それをを見に、住居表示で言えば旧笠利町の里へ。
 碑に関する情報はウェブで、あまみ商工会館の建物の前の道路脇にあることをつきとめていたので、商工会館の住所をナビにインプットして向かいました。
 なお、あまみ商工会とは、旧笠利町商工会のことなので、その本拠がココということなのでしょう。

 これも容易に発見。商工会館はなかなか味のある建物です。
 向かって右側に、比較的新しい石碑が2つ建っています。右側の背の高いほうの碑は、「機織りの母笠利鶴松女史の碑」という表題がついて、
   玉乳(たまじ)握(か)ちみれば  染だるより勝り
   後ろ軽々と  いもれしょしら!!
と、「かさんつるまつ顕彰碑」にもあった琉歌の第1首に感嘆符を2つも付けて記載しているのが面白い。
 これとともに小さい字で次のようにも刻されていました。
 「この島唄は、薩摩藩による横暴極まる酷な砂糖法度の取り調べより美人「鶴松」が一首の唄で藩士を撃退し、島の人々を救った。奇知に富んだ「鶴松」の代表作である。」

 左側の小さいほうの碑には、次のように記されていました。

 「泥染め発祥の地」
 笠利町商工会館建設 壁画設置協賛事業
 富国製糖株式会社 取締役社長 有村治峯
 株式会社たかし 会長 高 義光
 笠利鶴松 曾孫代表 川上米隆
 長島商事株式会社 代表取締役 長島公佑
 まえだ絹織物 取締役社長 前田幸男
 笠利町大島紬協同組合
 原画製作者 久保剛先生

 ああそうか、この碑は建物に設えられた壁画をつくったときのスポンサーが記されていたのですね。
 これはいつつくったものなのだろうな。
 大笠利の碑のほうは2007年に川上鶴松の玄孫(孫の孫)がつくったもので、こちらは曾孫(孫の子)代表が名を連ねているので、およそ一代分古い、ということになるでしょうか。


 赤木名からR58を手花部(てけぶ)へと進み、手花部から南方山手の小道にそれ、平という集落を通って、太平洋側沿岸の節田(せった)集落方面へ。
 ねらいは、奄美開闢の神々が最初に降りた場所だと言われている「アマンデー」。だったのですが、ついに発見できず。
 節田の山手をクルマでうろうろ。その間、道路脇に見つけたのは「阿麻弥姑神社」でした。

 アイキャッチは階段と赤い鳥居。その脇に駐車してよくわからないままその鳥居をくぐると、その下に「奄美姑神社 神門奉寄進 昭和29年9月9日」と書かれた古い碑が。
 村議の泉武雄以下、この鳥居を寄進した者の名前が書かれています。

 さらに進んでいくと、視界が開けて画像のような白い鳥居が登場。その奥に見えるのが本殿のようでした。
 赤や黄色を使った派手めの本殿です。ふと脳裏をよぎったのは「その天女、柄マニアにつき」のメロディ。知ってます? 「みんなのうた」で一時期やっていたヤツで、あれはサイコーだったけどな。

 あとで調べてみるとここは、奄美開闢の祖の一人、女神のほうの「アマミコ」を祀った神社なのだそうです。
 アマンデーの本体は見つけられなかったけど、一矢は酬いたというところかな。