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○鳩間可奈子

 ステージの模様替えの間に玉城が「八重山のみなさ~ん!」というアレと、指笛の練習を観客に促う時間があって、次に登場したのは、水色のラメと紅型模様をあしらったステージ衣裳(!)を着た鳩間可奈子です。いままで彼女がこんなに着飾ったのを見たことがありません。(笑)

 のっけから持ち味のハイトーンボイスで「つぃんだら節」を正調でうたいます。その声たるや、高音のうえに声量があり、マイクを遠慮なく使うので(笑)、なにかこう、脳髄のあたりを刺激されると言うか、聴いている側が尋常ならざる精神状態に陥ってしまうような感じです。別の表現をすると、このうたの持つしみじみ感がうまく表現されていないと言うか・・・。
 ですがまぁ、一人で唄三線をしている姿は、大人の女になったからなのか、いつの間にか堂々としたものになっていますね。

 うたはそのまま「九場山越路節」へと進みます。「つぃんだら節」が睦まじい2人の仲を島別れで裂かれたという悲恋話を物語調にうたったものなら、こちらのほうは、山行きも磯降りもいつも2人だったのに・・・というように、「つぃんだら節」と同じ話を男のほうからの呼びかけにしたもの。



 3曲目に「与那国の猫小」をうたって、「鳩間可奈子です~! 24歳に見えますか~!!」と不思議なあいさつを。「イメチェンしてカッコよくなったでしょ」とも。ネーネーズにメークを施してもらったらしいです。

 そして、「一緒にうたってみたい人がいる」と言ってやなわらばーの2人を呼び寄せ、八重山高校の先輩のうたを、ということで、3人で「イラヨイ月夜浜」をうたいました。これ、可奈子もよかったけど、やなわらばーのハモリは最高! しっとりとしていて、なかなか聴かせました。やなわらばー、主役を喰っちゃったかな?


 2000年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○加治工勇

 お次は、鳩間島つながりで加治工勇の登場です。
 年配ですが、芸歴は比較的短く、本格的に音楽活動を始めたのは1997年で、ラジオ沖縄の「新唄大賞」で作曲賞を受賞したこともあるのだそうです。
 鳩間島在住で、かつて「まるだい」と言っていた民宿を今は「いだふに」という名称に変えて経営中。2002年、2004年にオリジナルCDを発表し、毎年開催される鳩間島音楽祭などでも活躍中です。



 さて、初出場の加治工おじさんは、ピンクのかりゆしウエアに黒のスラックスという、沖縄を歩いていてよく見かけるおじさんタイプの服装。バックに従えた3人がギター、三線、笛、ドラムなどを奏でます。この方も、私は初めて聴きます。

 1曲目は、鳩間可奈子が寄り添って、代表作の「イダ舟」を。舟が南風の中、島を渡っていくさまを悠然とうたいます。
 笛の音が入ると八重山らしくていいなあ、鳩間の海が目に浮かぶなあ、などと思いながら緩やかな曲調に浸っていると、いつしかそれはだんだんと早くなり、観客たちの踊りが再燃! なかなか盛り上げ方がうまいオジサンなのですね。

 「イダ舟」が終わると、ステージにはおそろいのTシャツを着たスタッフ風の人たちが手に手にティサージを持ち、踊りながら登場しました。
 その中で始まったのは、鳩間島名物のおなじみ「鳩間の港」です。
 彼ら、彼女らは総勢50人ほど! 一列にずらりと並び、ティサージを振り振り見ていてわかりやすい踊りを踊ります。これは壮観!
 ♪ さよならさよなら 手を振れば 舟は行く行く 鳩間の港 ・・・
 これには会場内大盛り上がりで、とうとう総立ちに。ああ、お祭りって感じだなあ。
 一昨年の琉フェスでは鳩間ファミリーがこれをやって盛り上がりましたが、今回はそれを軽々と凌駕していたでしょうか。

 終わって、司会の玉城は「この鳩間島ダンスを日本中に流行らせようではありませんか!」と発言し、会場またまた大喜びでした。


 2002年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○かりゆし会

 踊ったためか少し一服感があって、次はかりゆし会のエイサー演舞です。今年は個別のエイサー団体に単独で演舞させる趣向なのですね。

 白基調の上下に水色の法被姿は園田青年会風。
男女各1人ずつの地謡の演奏で、安波節~瀧落とし~仲順流り~クーダーカー~トゥータンカーニー~スーリー東~繁盛節~固み節~いちゅび小~安里屋ユンタ~豊年音頭を踊りました。

 しかし、演舞のほうは、足の上がり方が後半には乱れ気味で、太鼓の叩き方も曲に遅れないようとにかく叩いているだけのような感じがして、正直言ってまだまだという印象。
がんばれ、大東市かりゆし会。





 2003年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○宮里政則

 さて、次からは沖縄民謡の師範たちによる民謡タイムです。
 まずは宮里政則。玉城の「宮里政則とかりゆしバンド!」の紹介で登場です。
 全部で5人。宮里サンはもちろん三線。もう一人の男性はギター、女性の3人は三線、三板、太鼓です。

 1曲目は、通好みのする「やっちゃー小」。この曲独特のウタムチで始まりました。古くからの民謡は、やっぱりいいなあ。
 男性は辛子色の和服に足袋、女性陣はそれよりやや蜜柑色に近い絣模様の着物。頭髪は琉球カラジを結っています。

 2曲目は「国頭(くんじゃん)ジントヨー」。70年代の民謡CDで、竹中労がまわりの唄者に促されてこの唄をうたったのを聴いたことがありましたが、その当時の唄会の雰囲気が今、このドームに甦る!という印象。
 ♪ 如何な山原ぬ 枯木島やてんヨー いもりいもり里前 ジントヨー 花ん咲ちゅさ ・・・
 さすが登川流、唄三線の特徴や歌詞は誠グヮーのそれと同じです。



 宮里サン、現在は大正駅近くで「かりゆし」という沖縄料理店を開いており、また、民謡研究所も持っているそう。で、実は、初代ネーネーズの宮里奈美子の一番上のお兄さんなのです。2人のお父さんは宮里政昌といい(故人)、嘉手納の屋良の一地区でエイサーの地謡をしていたといいます。前々から民謡一家だったのですね。

 3曲目は「孝行口説」。皆様、親孝行をよろしくお願いします――という意味の長い口説囃子が入ります。この唄もまた誠グヮーの十八番です。

 唄三線は渋系で、実にステディ。面白みこそ少ないですが、えもいわれぬ深みが漂ってきたステージでした。


 2004年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○伊礼哲&サンクルバーナー



 続いて、これまた登川流師範の伊礼哲と、サンクルバーナー。
 伊礼サンは、伊是名島生まれで、尼崎で三線店と民謡研究所を経営し、この5月には梅田に民謡酒場「琉球」をオープンして毎夜ステージに立っているのだそう。
 ひゃあ、真っ赤な和服を着て登場しました。
 伊是名島方言で“山つつじ”を意味するサンクルバーナーは、女性3人組。琉球カラジで、水色に紅型模様の入った着物姿はとてもあでやか。
 このうち2人は伊礼サンの実の娘だそうで、たいへんにチュラカーギー。お初にお目にかかる私は、オペラグラスでじっくりとお顔を拝見させていただきました。

 また本日は、孫まで登場。なにやら亀田興毅のリングコスチュームのようなド派手な衣裳を着て、一丁前に三線を弾いています。
 男の子のように見えますが、ジュリちゃんという女の子のようです。
 1曲目(曲名不明)が終わって2曲目は、ジュリちゃんお得意の――ということで「ヒヤミカチ節」を。

 そしてここからは大人の出番。
 伊礼サンが三線を弾いて「美童花染小」をサンクルバーナーが主になってうたいます。少女の恋へのあこがれを数え歌でうたう、知名定男の作曲によるもので、玉城一美が自分のCDでこの曲をうたうのを聴いたことがあります。

 で、フィニッシュは、伊礼サンが実力を遺憾なく発揮して、「アッチャメー小」の早弾きを披露。ごつい顔や体つきにふさわしくない優しげな声はちょっと意外。
 ♪ サァ~~~~! と盛り上がってきたところで、「終わりぃ!」といきなりうたを終了。
 このようなうたい終わり方は嘉手苅のおとうもよくやったもの。きっと、おとうを意識していたのかもしれません。


 2005年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○かりゆし58



 本格民謡の次は、これまた初出場、かりゆし58が登場です。
 民謡と若手ロック系バンドというミスマッチをものともしないこのようなステージ構成も、琉フェスのひとつの特徴か!?(笑)

 1曲目は、「安里屋ユンタ」をロック調にアレンジしたもの。
 ギターとドラム、それにボーカルがベースを担当する3人組。
 彼らのことを知らずにいて今回初めてそのうたを聴くおじさんは、正直言ってどうせラップ系か何かのにぎやかなだけの若者たちなのだろうと考えていました。しかし、それだけでない何かを持っていることはすぐにわかりました。それは、うたい終わってのあいさつ。

 沖縄のいいところは、青い海や青い空ばかりでなく、沖縄の人々が戦争などであんなにつらい思いをしたのに、誰にでもやさしくすることができるところである――と、ボーカルの前川真悟クンは発言。

 なるほど、そのとおり。そして、その心根のやさしさがあるからこそ、沖縄にはすばらしいうたや芸能が息づくのでしょう。
 彼らもまた、そういうことをよく知っているから、いい歌詞やいい曲を生み出すことができるのではないか。
 食わず嫌いをしていた私が悪うございました。

 2曲目は、「ウージの唄」。
 ♪ 南の海の小さな島 こんなにも美しいのは
     命の喜びを唄う あなたがいるから ・・・
 前川クンの次のMCは、「平和が大切と言うとよくわからないけど、日曜日にこうして集まって、みんなで沖縄のうたを歌えることが、平和と言うことなんじゃないか」と。それを聞き、私は心の中で「いぇい! オマエ、よくわかってるじゃないか!」と彼に呼びかけます。

 で、3曲目は、「この世に生を与えてくれた、オレとみんなの母ちゃんに捧げます!」と宣して、代表曲の「アンマー」をうたってくれました。
 ♪ アンマーよ~! と叫ぶサビの部分は、うたごころを爽やかに、そして熱く表現できていて、感動! いいユニットにめぐり会えたシアワセを感じましたよ。


 2006年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○よなは徹



 お次は、よなは徹。彼が琉フェスの流れをまた民謡に引き戻します。(笑)

 よなは自身が奏する笛の音がドーム内に鳴り響き、それにかぶさるように浜辺にたゆたう波の音がザザーッ・・・。
 そして暗い場内に“イョォーッ、イョォーッ、オーーーッ、イッヤーー!”という、おそらく組踊りで挿入されるのであろう掛け声が何回か響きわたって、その中で登場です。
 紺絣の着物姿なので、今回は本格民謡路線で臨むのだなということがわかります。

 太鼓伴奏者に一礼してからうたう1曲目は、「ナークニー」。おぉ、これは数日前に北谷のえぐち祭りで演っていたのと同じものではないか!
 ジャーガルビラ(謝苅坂)をへだてて山手と海手それぞれに住んでいる男女が互いに思いを馳せる物語が歌詞に織り込まれている「北谷ナークニー」といわれるもの。いいですねぇ。沖縄民謡を代表する名曲ですね。

 おや? 太鼓のリズムがずいぶん独特だなと思ったら、叩いているのはごとうゆうぞうではないか。よく見ると、琉球太鼓セットの前に立つ彼は、丸い腹の前にコンガまで下げています。何に使うのだろう?

 ちらしに「汀間当」を配してうたいあげましたが、とりわけよなはの三線の刻みは完璧! 見事と言うしかありません。かなり練習しているのでしょう。

 しかし、驚くのは早いのでした。次にうたった「北谷舞方」ではもっと速くて正確でした。
 ♪ 立ちみそり舞方ヨー 我んや唄さびらヨー ・・・
という、毛遊びが最高潮に達したときにうたわれた唄です。

 うたの後半になるにしたがってだんだんテンポが速くなっていきますが、唄三線はまったく乱れないのですね。スクリーンに大写しになった彼の右手の動きは、速いこと速いこと。
 小さい頃から三線を弾き始め、県立芸術大学でしっかりとした古典のベースを身につけ、太鼓、笛、三板などにも精通し、エイサーの地謡やミーウタまでこなすスーパースター。
 また、毎月1回は大阪で唄三線を指導しているそうです。彼がいるうちは沖縄民謡の行く末も、一定程度は安心というものです。
 あ、そうそう、ごとうサンはここでコンガも叩いていました。ナルホドね。

 しかし、彼のうたはこの2曲だけ。三線や太鼓で他の出演者をサポートしなければならず大変だからなのでしょうが、よなはのうたを聴きたい向きには圧倒的にボリューム不足です。えぐち祭りでは5~6曲は間違いなくうたっていましたからね。
 考えてみればえぐち祭りは、無料だったし、沖縄民謡ファンにとっては贅沢なお祭りだったのですね。


 1996年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○金城実、山里ゆき

 ここで、模様替えの間に知名定男が登場して、玉城満が知名に恒例のインタビューを。
 玉城は、琉フェスも毎年ちがった盛り上がりを見せるが、今年は沖縄音楽に精通した人が多いようで、指笛の数もずいぶん多くなってきたと発言。
 知名は、“振り返る”タイプの性格や考え方をここでも垣間見せ、かつて琉フェスのステージを彩った嘉手苅林昌、登川誠仁、津波恒徳、照屋林助らの名を挙げて回顧し、お祭りもいよいよピークなので、最後まで楽しんでいってくれとアピールしました。

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 で、次に登場したのは金城実と山里ゆき。なるほど、ピーク。今年度、最重鎮の出番です。ともに本部の出身。

 1曲目は、金城実の十八番の「南洋帰り」。
 きりりとした黒い着物がよく似合うンナルー(実)は、“キミとボクとは南洋帰りの義兄弟、ああ、また行きたいなあ、テニアン、サイパン、ロタ、パラオ・・・”という内容の、少々すっとぼけた感のあるうたを真顔でうたいます。
 それに合いの手を入れるのは、ベージュのウシンチー風の着物の山里。いや~、貫禄十分だなあ。
 これをよなはが太鼓でフォロー。ンナルーはよなはの師でもあるので。
 うん、これは、ビセカツ主宰のキャンパスレコードつながりのユニットでしょうかね。

 2曲目は、今度は山里が「無情の唄」を。
 “貴方は故郷に、私は海を隔ててままならない恋路。浮世は無情なものですね・・・”という、戦前、チコンキー(蓄音機)こと普久原朝喜が作詞・作曲した名曲です。
 山里は1937年生まれの御年70歳。芸歴を重ねて鍛え上げてきたやたらとハリのある声には、すっかりハマってしまいます。ちなみにンナルーは34年生まれだそう。2人とも若いですね。

 おわって、2人はチンダミ(調弦)を。お互いが上半身を寄せ合って聞き耳を立て、チントンテン・・・と、あっという間にあわせてしまうさまは、なかなかカッコイイ。

 3曲目は、山里の代表曲「遊び仲風」。
 仲風とは上句が七・五調、下句が八・六調の句形のことで、ヤマトと琉球風の中間的なもののこと。
 “互いに親しく馴染んだ玉のようなご縁は、忘れようとしても忘れられない・・・”という、情感たっぷりのうたです。

 しかし、こういうしみじみ調でスローなうたは琉フェスにはふさわしくないらしく、会場のざわめきばかりが耳につきます。
 1998年、東京開催の琉フェスで、嘉手苅林昌が「下千鳥」をうたったときですらざわついたものなあ。

 1997年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○饒辺勝子、金城恵子

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 続いては、“女三人(イナグミッチャイ)花じゃかい”のうちの2人という紹介で、まず饒辺勝子が登場します。
 饒辺は、「防空壕で生まれた勝子です~! 女心は忘れられませ~ん!」とあいさつ。
 そうだった。饒辺勝子が初出場した2002年の琉フェスでは、司会のガレッジセールが彼女を「なんと、防空壕で生まれた・・・」と紹介したのでした。ということは、饒辺は1945年生まれとなり、62歳なのですね。

 饒辺は、あいさつの内容にふさわしい若づくりの橙色のウシンチー姿で、「想いションカネー」を。よなは徹が三線でしっかりサポート。
 この曲、彼女にお目にかかるたびに聴いています。振り返ってみると饒辺は02年の琉フェス時には未録音のミーウタですと説明し、その3年後、05年末の民謡紅白の録画時には06年春にはCD化されると言っていたのでした。・・・・。はて、実際のところどうなったのでしょうか。

 そして、「妹を紹介します」と金城恵子を招きいれ、金城が「想いお受けさびら」という曲をうたいます。こちらのウシンチーはピンク色。なんか、ネーネーズみたい。妹とは言え60前後だゾ。

 そののちは、この2人に山里が加わりイナグミッチャイが勢ぞろいして、「女三人花じゃかい」をうたいました。
 ♪ 我ったーミッチャイ イナグ花じゃかい~ ・・・
 んーー、どうでしょう?? イマイチでしたですかねー。(笑)


 1998年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○琉鼓会



 ここで再びエイサーの演舞です。尼崎市の琉鼓会がアリーナに展開。
 黒の法被に、太鼓は赤、締太鼓は紫のサージ。諸見里エイサーの流れを汲んでいるとのことで、チョンダラーも道化ぶりを発揮してなかなか本格的です。
 ステージ上には地謡が一人だけなので大丈夫かなと思っていたら、安定した三線とよく通る大きな歌声が。ほほー、これはよなは徹だったのですね。それなら安心。

 繁盛節~仲順流り~クーダーカー~トゥータンカーニー~安里屋ユンタ~テンヨー節~スーリー東~海ヤカラー~固み節~いちゅび小~唐船ドーイ。

 演舞には十分な練習を積んでいるようで、さきほどのかりゆし会よりも隊列の動きに統一感、持続感があり、好感がもてます。
 軽快な三線と相まって、アリーナはまたまた総立ち。人々のこねり手がひらひらと動くのがきらきらと光って見えます。


 2000年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○下地勇



 司会の谷口キヨコが登場し、「次は、宮古島から・・・」と話し出すと、会場の人々はすべてがわかってやんやの喝采、声援。そう、次は下地勇です。すごい人気ですね~♪
 オリジナル曲のほとんどを宮古島方言で、レゲエやブルース、ボサノバなどワールドワイドなジャンルの音楽にのせて歌う異色のアーチストです。

 白の開襟シャツの上に深緑色のジャケットを着た下地を、強烈な赤色のライトが照らし出します。バックは、いつものようにウッドベースのガチャピンと打楽器のノーリーの2人がサポート。

 1曲目は「黄金の言葉」でスタート。ラテン風のシリアスな感じの曲調。
 ♪ ザンザカザンザン、ッチャッチャ、ザンザカザンザン、ッチャッチャ、・・・
を繰り返すアコギのストロークプレイが特徴です。
 歌詞は、ミャークフツ(宮古口)だし、スピードは速いし、歌詞の内容は相変わらずよくわかりません。(苦笑)

 2曲目は、ティーチ、ターチ、ミーチ、ユーチという沖縄風の掛け声でスタートして「世持つ雨」を。
 ♪ ウリササ シッタイササ 雨、雨よ~! ・・・ と、みんなで大合唱。このノリのルーツは、宮古の伝統曲クイチャーと同じですね。
 これら2曲は5枚目のCD「ATARAKA」から。今年の夏、宮城県七ヶ浜のコンサートでもうたっていました。

 3曲目は「狭道小(イバンツガマ)からぴらす舟」。
 後半曲のスピードが上がり、その中でアコギを掻き鳴らす下地はなかなかの迫力。近くの席で見ていたオバサンもすごいすごいと大喜び。演奏が終わる頃には「男前やね~!」と。すぐさまファンになっていたようでした。

 歌詞がわからないのでうまく説明できないのですが、下地を聴いていていつも思うのは、心にズシンと訴えてくるような何かがあります。それは、特に女性にはごっつう響くようで。


 2002年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○新良幸人 with サンデー



 クライマックスに向けて盛り上がってきたところで、次に登場するのは新良幸人 with サンデー。うん、なかなかいい演奏順ですね。

 新良の弾く三線音が闇に力強く響いて、1曲目は「月ぬマピローマ」。ゆったりとしたうたい出し。ポツポツと爪弾く三線と新良の声だけで十分に聴かせるものになっています。

 今回の新良のシャツは、珍しく赤ではなく紫色。サンデーはいつものとおりTシャツ姿で太鼓を前にあぐらをかいています。観客席にせり出すようにしてうたっている新良の前には、もう既に何十人かのかぶりつきの人垣ができています。

 うたい終えたところで新良は「うお~い!!」と大声を発します。素っ頓狂なこの声に、場内あちこちから笑い声、指笛、声援が湧き上がります。
 2曲目は、出身地である石垣島の白保に伝わる「白保節」を軽快な三線プレイとともに。

 その後、「乾杯してもいい?」と言いつつ、携えてきた泡盛の瓶を持ち上げ、グビグビグビッと。おいおい、そんなに飲んで大丈夫か? 喉仏が何回か上下していたゾ! 「白保節」の歌詞どおり、
 ♪ 泡盛ん 生(ま)らしょうり ウミシャグん 造りょうり ・・・
ということでしょうか。

 飲んでまた「ぅお~い!」と呼びかけ、「この夏、白保に帰ったときに海に行ってみたら、珊瑚が真っ白だった!」と叫びます。これにも会場はワイワイと。
 それに対して新良は、「ここで盛り上がるな、馬鹿!!」と一喝。また大笑いです。

 そこで、これからも魚がいっぱい獲れたらいいねと思いを込めて――ということで、
 ♪ 荒波超えて 新川ニセーターの鰹船 海の男の大漁節 ・・・
という「新川大漁節」を。
 さらに飲んだせいか、うたう本人が一番盛り上がってはしゃいでいる感じです。(笑)

 続いては、「ミャ~オ~~ン!」と叫んで、「与那国の猫小」をうたおうとしたようですが、「あ、これ、可奈子がうたったか!」と途中でやめ、「春になると、蝶々たちが、上になったり、下になったり、・・・いいなぁ!」といういつもの前置きをして「パピル節」をやってくれました。
 エイサーソング「スーリー東」の八重山バージョン。十八番の曲なので、いくら酔っていても三線の刻みは正確で力強いし、歌詞も間違わずにしっかりうたってくれました。

 「まだまだ続くよ! あとで飲もうね! バナナホールで待ってるからね!」と叫んでステージをあとに。盛り上げるのが上手。盛り上げるには、まずは自分が盛り上がらないと、ということなのでしょうね。


 2003年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○知名定男 1



 さあ、今年の琉フェスもいよいよ大トリ。2004年以降では大工哲弘、登川誠仁、津波恒徳が担ってきた大トリでしたが、今年はとうとうプロデューサーの知名定男自身が務めることになりました。

 ステージに設えられた一段高い台の上に和装で正座しての唄三線、1曲目は「屋嘉節」です。
 ♪ 懐かさやウチナー いくさ場になやい 世間御万人(しけんうまんちゅ)ぬ 流す涙 ・・・
 私のイメージにある知名と比べると、今回は音程がやや不安定気味。もしかしたら彼も緊張しているのでしょうか。

 大写しになった知名を見ると、髪も、髭も、ずいぶん白くなりました。そこに沖縄民謡の次世代への繋ぎ手として、また新しいウチナーポップの創造者として、ずっと歩み続けてきた時間の長さや歴史を感じてしまうのは私だけでしょうか。

 このうたにはずいぶん励まされました。今年1月、自宅が火災に遭い、焼け出されてのアパート生活。1年で最も寒いし積雪の多いこの時期、巡り来た不幸や震えながらの生活に打ちひしがれそうになったこともありましたが、この屋嘉節を思い出し、口ずさみ、虜囚となった沖縄県民が収容所内で明日への希望を持って笑顔で暮らしている姿を想い、“おれもこの程度でくじけてたまるか”と自分に言い聞かせたことがたびたびあったものでした。
 このうたや「南洋小唄」など、彼のうたうこの当時のうたは実に味があり、ますます心に響きます。

 うたい終えて知名は、「最後くらい盛り下がって終わるのもいいだろう」と自嘲気味に語ります。
 彼は、これまで長年琉フェスをプロデュースしてきて、本格的な民謡ではこれだけの数の観客のテンションを高めるのは難しいということをよく知っているのでしょう。また、多くの先輩方を立てなければならなかったのでしょう。だからこそ彼は、これまでトリを務めようとしなかったのではないでしょうか。
 しかし、彼が今回のメンバーを見渡したとき、自分がこれまで祭り上げてきた沖縄民謡の先輩たちがすっかりいなくなってしまったことに気づき、主催者からの促しもあって、とうとうトリを受けることを決意したのではないでしょうか。さて、本当のところはどうなのでしょう?

 2曲目は、「ヒンスー尾類小」。
 ♪ 北谷屋良村 りんどあさぎ りんどあさぎ ・・・
 味がありますねぇ・・・。嘉手苅林昌や古謝美佐子もうたってきたこのうたですが、こういううたをうたえる人はすっかりいなくなってしまったよう。


 2004年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○知名定男 2



 そして今度は、大阪の愛人を紹介する――ということで、大西ユカリを呼び入れます。
 この人のことはよく知らないのですが、1000円で買った公式プログラムによると、2000年に「大西ユカリと新世界」を結成、リズム歌謡、R&B、ソウル、ディスコなど雑多な音楽を昭和テイストでコーティングしたショー展開は毎回大盛況――という“大阪のゴッドねーちゃん”なのだそう。比較的大柄な体躯、白いスーツにアフロヘアーは、なかなか存在感があります。

 彼女は、沖縄のうたをうたいたいと言い、チナサダオバンドが入って「キジムナー・ブルース」をうたいます。
 これがなかなかソウルフルでグッド。しかし、知名が伴奏する三線の音は電子音にすっかりかき消されてしまったのは少々残念。何箇所か出だしを間違えたりしたところなどありましたが、ご愛嬌。
 その後いったん知名が下がり、その間彼女がもう1曲、「南部の女」というモータウン・ミュージック風のうたをうたってくれました。

 再び登場した知名は、今度はアロハシャツ姿。椅子に座って「私も負けじと・・・」と言いながら、「私のつくったうたで気に入っているものを2つ、聴いてほしい」と、うたい始めました。
 それは、まずは「ウムカジ(面影)」。
 ネーネーズがうたった名曲のひとつで、私も大好きな曲です。これを作詞・作曲した知名本人がうたうのを聴くのは、2004年11月、宜野湾のライブハウス島唄で現ネーネーズのCD「愁」の発売記念ライブをやったとき以来。
 色とりどりのウシンチーに着替えたネーネーズも登場してバックコーラスを受け持ちます。高音部分の発声が少々辛そうな知名センセイでしたが、なかなかのデキでした。

 his favorite の2曲目は、特に団塊の世代の人々に捧げたいと語って、今のネーネーズもよくうたっている「山河、今は遠く」を。スローテンポでしっかりと、表情から察するに万感の想いを込めてうたっているようです。
 岡本おさみの詞に知名が曲をつけたもの。

 ♪ 祭囃子が聞こえてくると 親父のことなど思い出す
     浴衣姿にねじり鉢巻で 幼い俺を肩に乗せ
   山なみの見える街 老いた母が一人で
     陽のあたる縁側で 眠りこけてはいないか ・・・

 人間ある程度齢を重ねてくると、小さい頃には何においても踏み台にしてきた父や母がいとおしく感じられてたまらなくなったりする――ということは、我が身にも覚えがないではない。

 ♪ 故郷が遠ざかる 想い出は近くなる
     口になど出さないが がんばれよ、がんばれよ ・・・

 「がんばれよ――」は、同世代へのエールなのか、それとも自分自身に言い聞かせるものか。
 このフレーズをうたいながら知名は、右手で握りこぶしをつくり、それを振り上げてみせました。内なる感動をこぶしで表現してみせた知名に、聴いているオジサンとしても静かに感動。

 そして思うのは、かつて嘉手苅林昌、照屋林助、登川誠仁といった戦後の沖縄民謡界を長く牽引してきた大物たちが担ってきた琉フェスにおける特別な立ち位置が、とうとう戦後世代の知名や大工哲弘へと回ってきたしまったという時間の流れ。
 1974年に産声を上げた琉フェスも、また沖縄音楽そのものも、遥か遠くへと来てしまった――ということなのでしょう。

(画像は知名定男と内田勘太郎です)

 2005年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○フィナーレ

 深く感傷に浸っているいとまなどなく琉フェスは続きます。
 ステージに全出演者が登場して、いよいよフィナーレのカチャーシー!
 まずはRIKKIが口火を切って「奄美六調」を。小さな体に大きな笑顔、両手を挙げてひらひら踊るRIKKIがいじらしくかわいい。

 奄美六調は、曲のテンポこそ速いけれど、爆発するような明るさ、パワーがイマイチ。そのせいか、次の「唐船ドーィ」ではぐっとテンションが上がります。
 金城実とよなは徹が中心になって唄三線を。よなはの声はハリがあって、扇情的ですらあります。伊礼哲はジュリちゃんを片手で担ぎ上げながらうれしそう。

 次は八重山組の「八重山六調」・・・のはずなのですが、今回はなし。どうやら新良は酔っ払ってしまった模様で、ステージにこそ出ているものの、みんなが「ホレ、次、オマエ」という顔で彼を見ますが、もうダメのよう。(笑)

 カチャーシーが終わり、最後は玉城の「一緒にうたいましょう!」の声で、「黄金の花」を大合唱です。
 ネーネーズが前面に出てリード。イナグミッチャイのみなさんも歌詞カードを見ながらうたいます。その後ろにいるやなわらばー、鳩間可奈子、いずみ&やよい、サンクルバーナーの面々は、両手を挙げてそれを右に左に動かして笑っています。それに合わせて加治工のおじさんも一緒に右に、左に・・・。金城実も片手をポケットにつっこんでカッコよくうたいます。

 その「黄金の花」に乗せて、玉城が出場者一組一組を紹介していきます。これって、1999年のネーネーズの卒業コンサートのフィナーレとそっくりで、またまた密かに感動。

 大きな拍手がドーム全体を覆います。でも、琉フェスはまだ終わりではありません。
 玉城は「もちろん、これでは終われませんよね、さあ、はじけましょう!!」と叫び、オーラスは恒例の「豊年音頭」で大騒ぎです。
 アリーナ席はもう大バクハツ! アリーナ全体の人たちが揺れています。オリオンや泡盛を飲みながら観ていた人はもうこれでヘロヘロでしょう。(笑)

 音楽が速くなって、これまた恒例、ごとうゆうぞうが大きなドラを手にして中央に登場し、ガンガン鳴らして祭りを締めたのでした。
 時間は21時30分。6時間半に及ぶ一大イベントはこうして幕を閉じたのでした。





 2006年の琉球フェスティバルの模様はこちらをご覧ください。
○おわりに

 知名が語ったように、琉フェスはこれから5年、10年と続けていってほしいことは言うまでもありませんが、ひとつ心配なのは、今回知名がトリを務めたことで、70年代の頃からの琉フェスメンバーがほぼすべてメインを張り終えてしまったこと。
 ということは、来年以降は琉フェスの草創期を知るメインイベンターがもういないことになるわけで、これからは新たな形で琉フェスを組み立てていくことが求められるのではないかと思います。

 そのためには、琉フェスが中から変貌していかなければならないことになりますが、その際、民謡の担い手が少なくなってきていることにどう対処していくのか――ということが大きな課題となってくるのでしょう。

 また一方で、これは考えすぎなのかもしれませんが、知名がメインを務めたことで、琉フェスにおける自分の位置取りを見失い、琉フェスのプロデュースそのものを誰かに譲ってしまうようなことにならないか、多少不安になります。2000年頃に一度そういうことがあったものだから・・・。

 知名は、かつて多くのシージャ方(先輩たち)から教え込まれた沖縄民謡の真髄を次世代につなげていくという大切な役割を担っているキーマンなのですから、自身の立場や役割を改めてしっかりとかみ締めてもらい、大阪開催ならではの民謡主体の琉フェスのあり方を形づくっていってほしいと切に願うものです。

 いずれにしても、今年もまたすばらしい夢を見させてもらいました。
 唄者のみなさん、来年また、大阪でお会いしましょう。





 伊波普猷亡き後沖縄学の第一の継承者となり、また、「おもろさうし」や南島歌謡の第一人者である外間センセイですが、大正13年生まれというから当年とって83歳。もう大家中の大家となってしまったためか、このところセンセイの本が次々と出版されているようです。
 そういうことであれば、ワタクシも読まねばなりますまい。若干の嬉しい悲鳴をあげつつではありますが・・・。

 表題どおり、氏が沖縄をまるごと把握するためにたどった道のりを自ら熱く語る――というつくりのもの。
 「はじめに」では、沖縄研究の道へと進むきっかけとなったのが、国学院大学文学部で金田一京助から「琉球方言文法論」の研究で卒論を出すように指導されたことだったことを紹介し、100年にならんとする沖縄学の流れと意義を、戦前の研究者と戦後の研究者との中継ぎ世代に生きた自身の研究人生とともに記したい――と意思表示をします。

 1章の「おもろさうしへの道」は、自身の沖縄研究の軌跡をさまざまな逸話とともに語ったもの、
 2章の「沖縄研究の証言」は、沖縄研究を学問的レベルに高めた先覚たち11人を沖縄学の証言者に仕立てて記したもの、
 3章の「南島歌謡とおもろさうし」は、オモロが島々村々の神祭りに密着している呪言や神歌を源流にして生まれてきたものであることを実証的に証明した論文、
 4章の「沖縄研究フィールドノート」は、自身が沖縄の島々のほとんどを40年間かけて廻ったフィールドワークの覚え書きの中から特に印象に残ったもの8篇、
 最後の「むすびとして」は、沖縄学のあゆみを各章の記述を受けながらもう一度総括したもの   ――となっています。

 難しい学問を平易に、そして真摯に表現する氏の姿勢は、さすがに一流なのだなあと感心するばかり。
 このほかにも今回、氏の「回想80年―沖縄学への道―」、「私の沖縄戦記」という本も買ったので、楽しみながら読んでいこうと思っています。


 住みたいけど住めない。でも気がつけば飛行機に乗っている。島の風とウチナーンチュの笑顔に逢いたくて。――こういうのを「通い婚」と言うのだそうです。そうだとすれば、自分は間違いなく通い婚組でありましょう。(笑)

 沖縄訪問歴は数えて35回。何回行っても新鮮で、見る所がなくなるということがないこの島々は、自分にとっていまだに摩訶不思議な存在なのですね。
 で、この本を読んでみると、いやはや、ものすごい人たちがいるものですね。

 1年に9回も沖縄に通い、その都度毎日のように同じ居酒屋に通う男。
 1500キロ離れたところにダンボール一箱の沖縄食材を買うために頻繁に通っているカップル。
 埼玉から毎月1回、沖縄の三線教室に通っている女性。
 彼ら、彼女らの余暇時間やカネの使い道に対する考えというのは、いったいどうなっているのでしょうか。あ。あんまり人のことは言えないけど・・・。

 沖縄移住に関する本は最近特に多くなっていますが、おれとしては移住よりもこの“通い婚”というほうがなかなかしっくりきます。
 沖縄は好きだけど、なにもこれまでの自分の人生や生活を打ち消してまで新たな転地を求める必要は今のおれにはないし、背負っているものも多いけれどそれらはすべてが鬱陶しいわけでもない。時間とカネと健康があれば、通うことについても苦にならない。

 まあ、贅沢なことではあるけれど、地元と沖縄のいいトコ取りをしたい、どっちも失いたくない、ということなのでしょう。
 ゼロサム社会にあってともすればどっちつかずは悪いことのように捉えられがちですが、しかしいいトコ取りは悪いことではまったくなく、むしろこれこそ常識的な選択だとおれは思う。大人はきちっと現実と折り合いをつけるものなのダ、エヘン!

 下川裕治、仲村清司、はるやまひろぶみといった沖縄に関する著述をものする人間たちに加え、女優の水野美紀、漫画家のいしかわじゅん、元バレーボール選手の益子直美も「私たちも通ってます」とばかりに寄稿しています。

 ますます沖縄通いの深みにハマっていきそうな1冊。多くの人の“症例”に触れ、自分がなぜこんなにも沖縄に通うことになってしまったのか――ということについて、少しそのわけがわかったような気がしました。


 この12月、マイレージがたまったので沖縄に行きますが、ついに! 南大東島に足を踏み入れることになりそう。
 沖縄の島々を巡ってきたけれど、便の悪さや値段の高さなどから、大東諸島だけは一生行かないで終わるのかもしれないと予感していただけに、嬉しさもひとしお。船は週1便しかないし、飛行機だって片道2万円以上するので、なかなか踏ん切りがつかなかったのです。今回行けるのも、こっちから沖縄までの往復がタダだから。マイレージさまさまですな。

 で、その大東島について少し予備知識をと思い、積ん読から引っ張り出してきたのがこの本。北大東島に関する記述が中心なのがチト惜しいのですが、十分に参考になりました。

 「まえがき」の一部が概況をよく表しているので引用すると――
『 この島々には、開拓以来太平洋戦争終結まで、一企業が島民の人権をことごとく制約した悲しい歴史がある。島民はさか巻く潮流にほんろうされ、忍従と困苦に満ちた生活を強いられた。戦後になっても、13年間におよぶ「土地所有権」獲得のための辛酸の道のりを歩んだ。これら束縛の鎖を断ち切り、人としての自由を勝ち得たのは、今からおよそ40年前のことである。人々はともに手を取り合って人間が住むにふさわしい環境条件をひとつひとつ築きあげてきた。――』

 1900年以降の開拓者たちの上陸の状況から始まり、水問題の解決、定期船の就航、電気の点灯、飛行機の就航、テレビ放送の開始、大東島の医療の状況などを取り上げて、項目ごとに解説しています。
 また、著者は北大東島の中学校に赴任した経験を持つ沖縄県の教諭であることから、島の教育を切り開いた学校の歩みについても詳述しています。
 このほか、大東島特有の土地問題の解決の経緯や、北大東村民の意識調査の分析なども。

 私としては、本土から大きく遅れをとりながらも着実に社会基盤が整備されていった経緯について、とても感動して読ませていただきました。
 今回は南大東島だけの訪問になりますが、すっかり感化されてしまい、いつのまにか、きっと北大東にも行く日が来るのだろうな、なんて思ってしまっています。(笑)


 講談社の漫画雑誌「モーニング」に掲載された3編に書下ろし1編を加えたマンガ・コミックを買ってみました。
 「風葬」、「ジュリ馬」、「方言札」、「仁政叔父さん」。
 島の祭祀を取り仕切るノロの孫として生まれたカマルという女の子が主人公。
 出征兵士の遺骨が戻ってくるシーンや、辻遊郭でのジュリ馬が行われていた時代のことが描かれているので、まだ沖縄が鉄の暴風にさらされていない戦中の頃のことのよう。
 沖縄における洗骨の行事の際の様子、特高警察が目を光らせている島内の状況、南米へと船で移住する際のつらい別れの様子、そんな理不尽な世相の中で生きる純粋無垢な少女達の様子などが絵を通してしみじみと伝わってきます。
 筆者の描く海上の雲などは、時代が移ろってもまったく変わらない、まさに沖縄の雲。しかし当時、その下では人々がこんなふうにして生きていたのだということが、絵なのでよ~くわかります。
 それらはたとえば、当時の人々の服装であったり、辻遊郭の独特のしきたりであったり、子の行水を手伝う母の姿であったり、若い男女の出会い方であったり・・・。
 絵画自体は、特別にうまいとか精緻だとかいうものではないのですが、私の場合、読み進めていくうちに不思議な「美」の世界に引きずり込まれていくような印象を受けました。
 そう感じた不可解な理由を敢えて表現すれば、沖縄特有の神々に対する畏怖、尊厳ということになるでしょうか。
 ユタの血を引く純真なカマルの目が、とても深いのです。その瞳の奥に潜む神秘性のようなものを理解しようと、主人公の表情や仕草を小説を読むように注意深く観察しながら読ませてもらいました。
 噴き出しに書かれるウチナーグチも、たいへんに心地よいです。
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