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 1月7日から3泊4日で那覇に行ってきますが、そのスケジュールが概ね固まりました。
 琉球弧への旅はこれが通算49回目。このところ1年に1回しか行けない状況が続いており、沖縄は2015年5月に伊平屋島などを巡って以来(2016年は奄美・加計呂麻に赴いた)と、少し間が開きました。したがって、変貌していく那覇の街を確かめることも、今回の楽しみのひとつです。

 宿泊は3泊とも那覇。中の2日はレンタカーで本島を巡ります。
 初日は、おもろまちとその周辺。
 2日目は、高速で許田まで進み、ヒヤミカチ節歌碑(今帰仁村謝名)、豊年口説歌碑(今帰仁村今泊)、具志堅小唄歌碑(本部町具志堅)、我部平松之址の碑(名護市我部)、奥間東鍛冶屋跡・国頭間切番所跡(国頭村奥間)、大兼久節歌碑(名護市大中)、赤犬子宮(読谷村楚辺)、道の駅喜名番所(読谷村喜名)、天川の池の碑・野國總管像・喜屋武朝徳(チャンミーグヮー)顕彰碑(嘉手納町嘉手納)、野國總管の像(米軍施設カデナマリーナ入口と道の駅嘉手納の2所)、インディアン・オーク号漂着記念モニュメント(ハンビー公園)を見て回る考え。
 3日目は、天皇皇后両陛下の歌碑(那覇市沖縄県護国神社)、瀬長島ウミカジテラス(豊見城市)、「サワフジの詩」歌碑(西原町与那城)、てぃんさぐぬ花歌碑(沖縄市比屋根)、山内盛彬生誕120年記念「ひやみかち節」歌碑(沖縄市胡屋)、銀天街と照屋黒人街(沖縄市コザ)、真栄原新町(宜野湾市)などをレンタカーで駆け抜け、夕方は那覇のおもろまち~安里~牧志~桜坂~壺屋~農連市場~開南本通り~浮島通りあたりを歩いてみようかと。
 4日目は、いにしえの那覇に思いを馳せながら「旧那覇散策」。それらは、那覇四町といわれたあたりの薩摩藩在番奉行所跡、親見世跡、天使館跡、伊波普猷生家跡、東恩納寛惇生家跡、那覇市跡、円山号跡、仲毛芝居跡、松田橋跡など。

 食事も楽しむぞ。昼食で狙っているのは、本部きしもと食堂の沖縄そば、豊見城市海洋食堂の豆腐ンブサー、首里あやぐ食堂のたくさんのメニューからのチョイス。
 夜の飲みも、いくつかリストアップしていて、その日の気分によって決めようかと考えています。

 うーむ、日程はカンペキだ。
 心配なのは天気。寒波で飛行機が飛ばないなんてことはないよな。
 あとは仕事。旅に行けなくなるような突発事件や事故が起こらないことを祈るばかりです。

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(瀬長島ウミカジテラス)
 2017年1月7日から3泊4日で那覇に行ってきました。
 琉球弧への旅はこれが通算49回目。このところ1年に1回しか行けない状況が続いていて、沖縄は2015年5月に伊平屋島などを巡って以来(2016年は奄美大島・加計呂麻島に赴いた)と、少し間が空きました。したがって、変貌していく那覇の街を確かめることも、今回の楽しみのひとつとなりました。

 事前日程としては、宿泊は3泊とも那覇。中の2日はレンタカーで本島を巡り、主として碑や像を見て回ります。
 初日は、夕方は那覇のおもろまち~安里~牧志~桜坂~壺屋~農連市場~開南本通り~浮島通りあたりを歩いてみようかと。

 2日目は、高速で許田まで進み、ヒヤミカチ節歌碑(今帰仁村謝名)、豊年口説歌碑(今帰仁村今泊)、具志堅小唄歌碑(本部町具志堅)、我部平松之址の碑(名護市我部)、奥間東鍛冶屋跡・国頭間切番所跡(国頭村奥間)、大兼久節歌碑(名護市大中)、赤犬子宮(読谷村楚辺)、道の駅喜名番所(読谷村喜名)、天川の池の碑・野國總管像・喜屋武朝徳(チャンミーグヮー)顕彰碑(嘉手納町嘉手納)、野國總管の像(米軍施設カデナマリーナ入口と道の駅嘉手納の2所)、インディアン・オーク号漂着記念モニュメント(ハンビー公園)を見て回り、夜は美栄橋あたりの居酒屋で南国の酒に浸る考えです。


(今帰仁村謝名)

 3日目は、天皇皇后両陛下の歌碑(那覇市沖縄県護国神社)、瀬長島ウミカジテラス(豊見城市)、「サワフジの詩」歌碑(西原町与那城)、てぃんさぐぬ花歌碑(沖縄市比屋根)、山内盛彬生誕120年記念「ひやみかち節」歌碑(沖縄市胡屋)、銀天街と照屋黒人街(沖縄市コザ)、真栄原新町(宜野湾市)などをレンタカーで駆け抜け、体力が続けば夜は再び沖縄のうまいもので酒を。

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(沖縄市照屋)

 4日目は、いにしえの那覇に思いを馳せながら「旧那覇散策」をしてみようか。それらは、那覇四町といわれたあたりの薩摩藩在番奉行所跡、親見世跡、天使館跡、伊波普猷生家跡、東恩納寛惇生家跡、那覇市跡、円山号跡、仲毛芝居跡、松田橋跡など。
 最後に、久々に波ノ上宮に詣でて、その後ろの公園にある各種の石碑をまとめ見するのもいいかもしれない。

 食事も楽しむぞ。昼食で狙っているのは、本部きしもと食堂の沖縄そば、豊見城市海洋食堂の豆腐ンブサー、首里あやぐ食堂のたくさんのメニューからのチョイス。
 夜の飲みも、いくつかリストアップしていて、その日の気分によって決めようかと考えています。

 どうです、かなりマニアックでしょ。これだけ何度も行っていると、巨視的だった観光目線がだんだんと地を這う蟻の日常目線に変わってくるものなのですよ。
 さて、日程はカンペキだ。

 1月7日(土)、冬の天気と、突発的な仕事が心配だったけど、それぞれ問題はなく、庄内から仙台空港まで2時間半のロングドライブをし、予定どおり那覇行きの直行便に乗り込んだのでした。
 それでは、旅の顛末についてドキュメントしていきます。
 那覇の1泊目はおもろまち。いつも利用する美栄橋駅至近のホテルが取れなかったための次善策です。
 那覇空港駅では沖縄県初の交通系ICカードとして登場した「OKICA(オキカ)」を3千円で手に入れて、ゆいレールでおもろまちへと直行し、ホテルにチェックイン。そしてただちに外出です。
 16時を過ぎているけど、さすが沖縄、真冬のこの時間でもまだまだ陽の光りは残っています。そして暖かい。もちろん外套はホテルに置いてきたけど、着ていたトレーナーは即脱ぎ。そして長袖シャツは肘上までまくりますが、それでも暑いぐらいです。那覇空港の気温は24度だと機内放送していたから、東北地方とは20度ほどの温度差があるわけです。

 まずは歩いて、那覇を体感しようという考え。
 おもろまち駅の東側に渡って、かつて「ハーフムーン」と呼ばれた戦略上の高地があったところを歩きます。丘はすっかり削られて、立派な車道ができています。那覇中環状線というらしい。その北側にはかつてハーフムーンがあったことを証する切通しがあり、その切通しに付けられた階段を上っていくと古くからの住宅地がありました。つまりは、階段の長さの分だけ掘り下げて、平らな道路を造成したことがわかります。
 ずいぶんと掘ったものだよな。でも、那覇ってこういうところがいっぱい。沖映通りの南面にあるナイクブ古墓群(というらしい)だって、いずれ削られてしまいそうな勢いだものな。


(沖縄ホテルの入口の門)

 その後は、松川の田崎病院前を通り、守礼の門のような門がある「沖縄ホテル」、坂下琉生病院、メディカルプラザ大道中央(旧大道中央病院)を過ぎて、沖縄そばの「真昼御麺」が健在であることを確認し、まだ夕方なのに飲んでいる人が大勢いる栄町市場内をうろついて、ゆいレール安里駅前からダイワロイネットホテルのある安里川親水庭園へ。
 そこから国際通りをドンキホーテ国際通り店前まで歩き、その裏に広がるスージグヮーへと迷い込みます。このあたりは初めて来たところ。「にぎわい広場」と名のつくちょっとした遊び場様のところがあったりして、そこからは「浮島通り」に出ました。

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(安里川親水公園。大開発済みの場所です。)


 那覇の通りの多くは“縦走”しているのだけど、なぜか浮島通りはまだだったので、ちんたら歩いてみることにしました。一方通行の道を車の流れとは逆方向に進みます。
 「浮島通り」は、戦後すぐから営んできた古い商店に加えて、流行に敏感な新しいショップが仲間入りして、新旧入り交じったチャンプルーな通りになっていました。
 かつての浮島通りは、ここに来ればどんな用事も済ませられるような地元民の生活を支える通りだったといいます。また、刃物店、塗料店、金物店などもあって、大工御用達の道具がそろう通りとしても有名だったのだそう。
 以前あった「浮島ホテル」が通りの名称の由来。平成になり「平成通り」に名称変更しようという機運もありましたが、馴染んだ通り名は変えられることはなかったそうです。それはよかったよねえ。

 ところで、浮島通りにはインプレッシヴな建物がいっぱい。そのうちの2つの写真を載せておきましょう。



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 その後は壺屋やちむん通りを流し、開南の旧仏壇通りが区画整理でほぼ絶滅したのを見届け、人気のなくなった農連市場をうろつき、市場本通りを通って牧志公設市場前を経由して、国際通りへ。
 あとは牧志からゆいレールに乗っておもろまちへと帰着しました。

 このぐらい歩けば、旅の初日としてはまあまあでしょう。結局のところこのまちまーいで歩いたことが靴擦れとなって後に禍根を残すことになるのだけれど。


 適度に暗くなってきて、そろそろ飲み方を開始したい。でもその前に、少し腹も減っている。飲む前に沖縄らしいものをちょっぴり食べておきたい。では、あれだね。
 ということで、タコスを食べに行こう。

 少し距離があるけれども、おもろまち駅の北方面、興南高校があるほうへと進んで、「Tacos-ya新都心店」へ。
 はじめにまっすぐ奥のカウンターへと進んで注文を入れ、支払いを済ませる仕組み。空いている席で待っていると、ほどなくして品々が運ばれてきます。

 ここはタコスを1個売りしてくれるのがいい。
 タコス2個とオリオンビール、180×2+400=760円。
 タコスは、上の1個は口が開いちゃっているけど、中身はこういうつくりになっていますということがわかる点では都合がいいです。キャベツの下にはたっぷりの肉が入っていますねぇ。
 チューブに入った卓上のチリソースをこれにぶちゅっとかけて食べれば至福。トルティーヤと具のバランスも適度で、手で持って食べても中から具が溢れてくることはありませんでした。

 オリオンビールは334ml入りの小瓶。このサイズって、初めてだな。
 ああ、おいしかった。まずはこの程度でちょうどいい。旅の立ち上がりに食べるものとしては上々ではないかな。

 そして、今夜の飲み処として考えていたのが、「吉崎食堂おもろまち店」。居酒屋なのに「食堂」を名乗るコンセプトがマイハートにぴぴっと来たところ。
 それなりに沖縄らしいものをつまみながら、多少の喧噪のなかに身を置いて、一人でゆっくりと飲みたい。そんな願望を叶えてくれそうです。

 おもろまちのメインストリートと言っていい、真ん中に散策スペースを持ち幅100mはありそうな都会の盛り場風。沖縄にもこういうところがあるのだなあ。
 その道沿いにある店を容易に発見し、ただちにトツゲキです。

 紳士淑女が集っているいい雰囲気の店。カウンター席に通されて、店のおにーさんと注文品を相談します。ハーフにもできますというので、島豆腐の厚揚げとラフテーをそれぞれハーブでお願いし、これに泡盛残波の1合を合わせてみたところ。



 揚げ物は基本時間がかかるものなので、はじめにサーヴされたのはラフテー。白髪ネギと辛子が添えられ盛り付けがおいしそう。ラフテーのつゆでつくった煮卵もこってりした味がついていて、とろりとしておいしい。カラカラには菊の露と書いてあるけど中身は残波ですとおにーさん。

 少し遅れて登場した厚揚げはご覧のとおり。薬味が豆腐の間にねじ込まれているあたりがユニーク。添えられた茶色の丸いものがおろし大根と醤油。たっぷりなのがウレシイ。
 生絞り法でつくられたと思われる、沖縄らしいしっかりした豆腐でした。
 なお、左上の小鉢は、カウンターで料理をつくっていたおにーさんがつっと出してくれたサービスの紅白タコなます。爽やかな酸味が箸休めに絶妙でした。

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 ああ満足。このぐらいで止めておくと後々楽になるだろうて。
 満足度からして会計は2,500円ぐらいかなと思ったけど、1,820円で済んでしまう。こりゃ、安いよな。

 さて、旅の第1日目はこの程度にとどめることにしようか。
 それにしても沖縄は暖かくてシアワセだ。そして、歩いている人たちは本土の地方都市よりもかなり若い。平均年齢にすれば20歳ぐらいは差があるのではないか。そうなのだ、ここは沖縄なのだよなあ。沖縄、サイコーだ。
 1月8日。今日も天気が暖かい。ホテルのサービス朝食ではコーヒーを飲むにとどめて、レンタカーカウンターの開店時間である9時前には、Tギャラリアへと歩いて向かいます。
 ここではもう10回ぐらいは借りているので誰よりも手際よくレンタカーをゲット。500円のガソリンクーポン付き、2日間で5,500円ならまあまあでしょ。
 ナビに「今帰仁村謝名」と行き先を入力して出発。西原から高速を使って軽快に進みました。

 今帰仁村謝名の「ヒヤミカチ節歌碑」が最初の目的地。
 概ね1時間半後には目的地周辺に着き、謝名売店のところから国道505号線を北側に曲がって農道を300mほど進むと、右側に発見! あたり一面畑や荒れ地となっているところにゲートボールができる程度の広い砂地の空き地があり、そこに歌碑と銅像があります。なぜこんなところに?
 農道沿いには「平良新助翁生誕地」の看板が出ていたので、ここがズバリ、生誕地なのではないかな。



 下調べによれば、歌碑と銅像は平成27年11月建立。
 「ヒヤミカチ節」は1953年、今帰仁村出身の平良新助がロスアンゼルスから帰郷した際、故里沖縄の惨状を目の当たりにし、人々に希望と誇りを取り戻そうと歌詞を書き、その志に共鳴した山内盛彬が作曲したものなのだそう。
 その平良新助なる人物は、1876~1970年。初期移民の実践者で今帰仁村謝名生まれ。一時、当山久三らと自由民権運動に参画するが挫折。1901年ハワイへ渡航。カリフォルニアで農業やホテル経営で成功したという人物です。

 平良新助にまつわるエピソードとして2つ。
 金武町では、大正13年に沖縄初の鉄筋コンクリート造の学校、金武小学校が完成した。この総工費の20%は海外同胞の基金によるものであり、平良新助が中心となって集めたものだった。
 昭和6年、当山久三銅像建立と、その裏手に立つ記念会館建設の費用となる北米からの寄付金集めに尽力したのも新助だったという。

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 まずは「ヒヤミカチ節」の碑。

 ひやみかち節
 七転びくるで ひやみかち起きて わしたこの沖縄 世界に知らさ
 作詞 平良新助
 作曲 山内盛彬

 次に、「平良新助翁之像」。小柄で愛嬌のある体つきをしています。それに丸眼鏡ですから、シルクハットをかぶって気取ってみたところでそのかわいらしさは消えません。
 台座の左側面には、琉球新報社の賞状。
「賞状 平良新助殿
 あなたははやくより沖縄の社会経済の状態から海外移民の必要性を説き、率先ハワイに移民され、先駆者として辛苦によくたえて沖縄海外移民の基盤をきづき、移民県としての郷土沖縄の名声を高められました。その功績は大なるものがあります。
 茲に文化の日にあたり琉球新報社賞を贈りその功を賞します。
 1965年11月3日 琉球新報社」
 また、左側には、叙勲状。
「日本国天皇は、平良新助を君六等に叙し、瑞宝章を授与する。
 昭和45年4月29日、皇居に置いて璽をおさせる
 (大日本国璽の印)
 昭和45年4月29日 内閣総理大臣 佐藤榮作
            総理府賞勲局長 宮﨑清文
 第1845592号」

 ヒヤミカチ節は今や沖縄を代表する民謡のひとつになりました。登川誠仁がうたうヒヤミカチ節なんかは、渋かったよなあ。
 ♪ 我んや虎でむぬ 羽根付きてぃたぼれ 波路パシヒック 渡てぃなびら
 だものなあ。
 このうたのサビのところを「ヒヤー、ヒヤー・・・」としまりなく歌ってはいけないと語っていたのは照屋林助。「ヒヤッ!ヒヤッ!」とうたうのが正しいのだそうです。
 「ひやみかす」というウチナーグチで思い出すのは、沖縄闘牛の勢子が牛にかける「ディーヒャー!!」という煽り声。あれは闘牛をがんがんヒヤみかしているのだろうな。点けていたカーラジオでは勢子の誰々さんの掛け声のモノマネというのをやっていて、これが沖縄らしくてすんごく面白かったぞ。
 ヒヤミカチ節については後にもうひとつ、沖縄市にある「ひやみかち節」歌碑を見に行くことにしていますので、乞うご期待。


 「具志堅小唄歌碑」が具志堅区事務所前にあるというので、行ってみたところ。
 具志堅は、国道505号を今帰仁村側から進んで本部町に入った最初の集落。具志堅区事務所は建物入口に「具志堅地区公民館」と記されています。
 歌碑はその前庭に、誰かの亀甲墓ででもあるかのように基礎をコンクリートで固められて鎮座していました。

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 「具志堅小唄」ってどんな唄なのか詳しく知らないのだけど、この地、具志堅を誉める唄には違いないでしょう。
 碑に刻まれた琉歌は、次のとおり。

 志堅く 具えたる村名 昔名ぬ朽たん 一致すらな

 仲里甚次郎の詠によるもので、「具志堅」を織り込んだ名歌になっています。仲里甚次郎サンの詳細は不明。
 下部の副碑文は、具志堅小唄の歌詞が刻まれていました。作詞・上間清英、作曲・亀谷朝仁とあります。

 幾世重ねてん 具志堅ぬ村やヨ 変ることねさみ 人ぬ情
  (囃子)サー村ぬ情き 思い深さヨ
 村ぬ氏神や 御城に崇みヨ 御万人の栄い 祈る嬉りさ
 肝持ちぬゆたさ 乙女色清らさヨ 水ぬ花咲ちゅる 大川でむぬ
 だんじゅ豊まりる 具志堅ぬ田圃ヨ 黄金色稲や 畔(あぶし)枕
 しんぶとに登て 我した島見りばヨ 昔偲ばすさ 住賀までん
 大島新島と 佐賀屋三部落ヨ 互に手ゆ取やい 栄て行かな

 美しい詩ですね。こんなところがあるのならば住んでみたい、と思う。
 今帰仁、本部は本当に歴史のあるところで、古くから有能な人材を輩出してきた土地柄。このあたりを掘り下げれば興味深いことがたくさん出てきそうな気がします。

 2000年5月に、具志堅之碑建設委員会によって建立されたもののようです。
 次は「豊年口説」の歌碑。
 今帰仁村今泊の今泊公民館前にあるようで、これは遭遇するのにそう難易度は高くないのではないか。
 行ってみると、今泊集落はメインストリートの国道505号に面していず、そこよりも1本北にある集落内道路が中心のようでした。
 その道、一目見てわかったけど、これはかつてマーウイ(馬追い)と呼ばれた馬場跡に違いありません。200mほどが直線になっていてそこだけ道幅がだだっぴろいのです。そしてその中ほどに、神アシャギと立派なコバテイシの木を備えた公民館が。絵に描いたような集落の中心地です。

 でもって、たまたま公民館前の広場でやっていたのが「第11回 山いもスーブ」。つまりは山芋栽培者たちがつくった大きな山芋を持ち寄って、誰のつくったものがいちばん立派かを「勝負」する大会だったようです。作業服を着た大勢の関係者で賑わっていました。



 でかい公民館だし、正面の木もでかい。その木の下に、豊年口説の歌碑がありました。

豊年口説抜粋
 今帰仁城に 上て見ちゃりば 誠昔ぬ 御ひざ元さみ
 松の枝々 栄え茂りて 何時んときわぬ 緑さしすい
 流す小枝に 鷺と烏ぬ 巣ゆ替え
 小枝を枕に 月ゆ眺むる 四方の原々 作い数々
 村んうぬじと 栄え繁昌 富貴長命 あぬ家んくぬ家ん
 乗馬立てとて 遊びかじぐと 馬場乗い立て 遊び楽しむ
 誠昔ぬ 盛なる御世の 巡り逢うたさ 芽出たや芽出たや

 これの意味はというと、大意、北山城(今帰仁城)の御ひざ元のめでたい所、そこは常盤なる松の木が緑を湛え、鷺と烏が巣を作っている。そして四方の畑には一杯作物が実っている。人も鳥も大らかに暮らしている――といったところ。
 口説なので七五調。なので、ヤマトめいたキレとリズムがあります。

 この碑、昭和48年8月18日の竣工で、少々古くなっています。

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 今泊(地元ではエードメーと言うらしい)公民館周辺の状況をもう少し。
 公民館前には案内板があって、「今泊集落の概要」が記されていましたので、以下に移記しておきます。

 今帰仁と親泊が合併し今泊となる。そのため二つの神ハサギが統合されることなくある。今帰仁グスク(国指定)を抱えた字である。親泊は立派な港に由来する名称であろう。
 今帰仁グスクは世界遺産に登録され、沖縄の歴史の北山・中山・南山が鼎立した時代の北山王の居城である。麓の今泊の集落は福木に囲まれ、落ち着きを見せている。集落のほぼ中央部を東西に走るぷみちー(大道)は馬場跡である。その中央部にコバテイシ(県指定)の大木があり、付近は豊年祭の会場となる。
 麓に今帰仁ノロ殿内があり、かつては今帰仁村・志慶間村の祭祀を掌っていた。

 コバテイシの大木は、写真のとおり。
 「天然記念物 今泊のコバテイシ 昭和31年10月19日県指定」の石製説明板があり、次のとおり記されていました。

 コバテイシは、シクンシ科に属する熱帯性の高木で、葉は半落葉性で、小枝の先につき、20~30cmで大きい。果実は3~6cmで、緑色または赤味を帯び海水に浮かんで漂流します。
 今泊のコバテイシは、樹高約18m、胸高周囲4.5mで推定樹齢は300~400年で、地元では「フパルシ」と称えています。
 本種は、幹が大きく成長し輪生している枝は水平に拡がり、樹形が美しく部落の集合場や墓地などに植えられています。特にこの地のものは、古来名木として
  親泊のくふぁでさや 枝持ちの美らしさや わやくみの妻の 身持ち美らしさや
と歌われ、以前はこの樹の下で豊年踊りや競馬が行われ、また、区民の集合の場になっていました。

 エードメーの古き良き時代が偲ばれますね。「フパルシ」とは、クワディーサ(コバテイシ(古葉手樹))の今帰仁言葉だそうで、クワディーサは人の泣き声を聞いて成長するともいわれているとのことです。

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 ちなみに、神アシャギはこんな感じ。前にある石が、「今泊集落の概要」を記した案内板です。
 しかし、神アシャギを駐輪場代わりにする不届きなヤツがいるのだな。
 山芋スーブに来ていたオジサンから声をかけられ、ひとしきり話しました。普段は今帰仁グスクでボランティアガイドをしているとのことでした。


 時間は11時20分。おっと、そろそろ昼メシだ。今日は朝メシを食べていないからな。
 朝を抜いて食べようとしたのは、「きしもと食堂」の沖縄そば! この地に来たならわざわざ遠回りしたって寄りたい店なんだもんね。

 きしもと食堂はもともと本部町の町内にあり、そこが有名でしたが、町からはなれた伊野波地区に新店をオープンさせ、こちらのほうが広いし無休なので、観光客の皆さんなどにとってはこちらがメインになっている模様です。
 町内の店で沖縄そばを食べたことがありますが、それはまさにホンモノ。そのときは、つゆを一口飲んで、相席になった見ず知らずのカップルに向かって思わず微笑んでしまったことがあります。微笑まれたほうはさぞ気持ち悪かったことでしょうが、ホントは「んまぁ~い!!」と言ってしまいそうなのを必死に堪えていたわけです。

 で、こちらの伊野波の店は今回初訪問となります。
 岸本そば小、500円。
 ダシから漂ってくるかつお風味がたまりません。小さい器ですが、量はわりとある感じ。
 このすばらしいダシにコーレーグースを入れてしまうのはいかにも惜しいので、それは使わないことにしました。
 やんばる地方のものらしい太い麺。ホンモノの沖縄そばは噛んで食べるものだとの思いを強くします。首里そばなんか、よく噛まなきゃ飲みこめないぐらいだものね。
 トッピングの沖縄かまぼこと三枚肉は、本部町内のきしもと食堂と同じもの使っていると思われ、いずれも懐かしウマイ。
 醤油味が微妙に強いかなと感じましたが、こちらの支店でも伝統の美味さは健在で、大満足でした。

 あ、じゅーしー(250円)も頼めばよかったかなー。それだってゼッタイうまいはず。
 でも、ここでたくさん食べてしまうと後が続かなくなるので、まあよしとしましょう。

 沖縄・那覇の花街で生まれたとされる名歌「西武門節(にしんじょうぶし)」。その元歌だったのが羽地内海に端を発した「ヨーテー節」であることを明らかにしたのが、しまうた研究者の仲宗根幸市でした。この歌、沖縄には珍しい三拍子なんだよねえ。

 そんなことを思い出しながら次に訪れたのが、名護市我部にある「我部平松之址の碑」でした。
 今帰仁からワルミ大橋を渡って屋我地島の我部へ。その集落にある我部公民館前の道路を挟んで北側、やや東手前にその碑はあるらしい。これはちょっと難易度が高いかな。
 その場所って、「平松広場」? そこには野外ステージもあるらしい。

 我部公民館の背後地にクルマを停めさせてもらい、県道110号を北側に渡って、斜め右へと続く細い道を躊躇しながら進んでいくと、民家の庭のようなところに出てしまいました。これは私道なのかもなあと思いながらさらに進むと、お、目の前にはだだっ広い広場と碑が!
 たしかに野外ステージもあったりしますが、なんだかすっかり放置されている感じです。
 でもいいんだ、碑を見なきゃ。



 かつてここには「蔡温松」と呼ばれた大きな松の名木があり、「ヨーテー節」の一節に「朝凪と夕凪 屋我地漕じ渡て 我部の平松に 思い残ち」と歌われた松だったのだそうです。
 歌意を自己流に解釈すれば、朝早くでも夕遅くでも、羽地内海の対岸から船で屋我地島に漕ぎ渡って、我部の平松の前でかわいいあの娘たちとモーアシビがしたい・・・といったところでしょうか。

 広場の南側、一段高くなったところに建っている碑には「平松之址」と大きく刻字されており、よく見るとその下に小さな文字で「朝凪と夕どり やがじ漕じ渡て 我部の平松に 想い残ち」とありました。そうそう、この歌です。
 碑のうしろ側には「昭和58年8月建立」と。

 今となってはかつての美観は失われてしまいました。これも、人々の生活スタイルが変化し、集落から人口が減ったがためのことなのでしょうが、過去を想像するよすがとして、かろうじてこの碑があると理解しましょう。
 この地の松の下に佇んで、若いエネルギーが歌垣となって燃え上がった時代があったということに、静かに想いを馳せてみたところです。

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 屋我地島から名護市真喜屋へと進む道すがら、左側に誰かの像と碑を発見。ノーチェックだったけどこれは何?と、近くの横道にクルマを停めて見に行ってみました。ここは屋我地島の屋我というところなのかな。
 それは、「山里將晃教授之像」。琉球大学名誉教授・名桜大学名誉教授(経済政策)という方です。

 礎石の上に教授が立っており、その左手には「思いやり」と書かれた副碑、正四位勲三等に叙する旨を示す碑、「夫子の道は忠恕のみ」と記された弟子一同からの碑。
 その真後ろには質素な琉球家屋が建っていますが、この像の人物と何らかの関係があるのでしょうか。

 礎石に嵌め込まれた「山里將晃先生を慕う碑文」を以下に移記。

 先生は1950年琉球大学開学と同時に入学。在学中、留学試験に合格。米国ミシガン州立大学を卒業後、同大学大学院へ進学し修士号を授与された。
 帰沖後琉球大学に赴任し、直ちに沖縄経済の自立化の研究にとりかかった。
 沖縄経済の構造的特質を「ザル経済」としてとらえ、一貫してその理論的解明と政策的処方の究明に努める一方で、研究成果を政策立案の現場に反映させていった。沖縄の施政権返還の時期には、復帰対策県民会議の委員として経済学の立場から論陣を張った。復帰後においては、第1次から3次にわたる沖縄振興開発計画の策定・推進のための国の審議会委員や県の審議会委員・審議会会長の要職を歴任した。その透徹した理論に加えて、県内産業界に多くの知己を得た人ならではの実践的かつ感性豊かな政策提言を行うことによって、復帰前後の激動の時代の沖縄経済の発展方向を示し、その礎を築くのに尽力した。
 「地域づくりは人づくりから」の信念にもとづき、後輩の指導・育成に心血を注いだ。大学にあっては、山里研究室から、地域の経済問題を共に考える仲間となる研究者や地域経済を牽引する産業界のリーダーを数多く送り出している。
 学外にあっても、沖縄の将来の姿や産業発展、企業経営のあり方について、若い人たちと大いに語り合い、彼らのなかに明日の沖縄を担う志を見出すことを何よりの楽しみとしていた。つねに人を愛し、地域の明日を憂い、使命感に燃えて闘闘する人であった。
 私たちに道標を与えてくれた先生の生きざまに尊敬と感謝の念を捧げる。
  平成12年(2000年)11月14日
   山里將晃教授銅像建設期成会代表
    山里門中(敖氏)  山里將堅  山里將則

 2002年6月逝去。この文章を読む限り、資質、能力、性格いずれをとっても天下一品という感じの人ですね。いるんですよ、世の中にはこういう人が。でも、天邪鬼の自分はこういう人とはきっとうまくやってはいけないのだろうと思う。
 もう一言申し上げれば、沖縄経済の自立化は当時からほとんど進んではいないと思われるのだけど、それって成果主義の立場から言えばどうなのか。とまあこのように、デキスギ君に対してはつい反発してしまうんですよねぇ。(笑)
 次に向かったのは、国頭村奥間。奥間カンジャー(鍛冶屋)跡があり、そこに建つ「かぎやで風節」歌碑を見ようというわけです。
 下調べの段階ではその場所をピンポイント化することができず、現地に赴いてから探そうと臨んだもので、今回の碑めぐりの最難関になるのではないかと思っていた場所でした。

 R58から奥間の集落に入り、その中心地と思しき「奥間共同売店」へ。売店が閉まっていたのでその駐車場を拝借し、そこからあてずっぽうに東側の山手のほうに歩いてみました。鍛冶屋跡というのならば、集落のムトゥヤ、つまりは発祥の地である風水のいいところだろうから、背後には山があるのだろうと考えてのことです。



 戦時に使われたと思われる燃料タンク様のものをそのまま赤く塗って鐘にしましたといった感じの構造物が際立つ小さな公園を過ぎて直登気味に東進していくと、その左手、かつては宅地だったと思われる土地がすっかり畑と化したようなところにぽつんと碑が建っているのが見えました。
 これもノーマークだったけど、あれは何? 失礼ながら入っていきます。

 それは、「大田政作誕生の地」の碑。
 天然石に、「勅任官」「大田政作誕生の地」「元琉球政府行政主席」「勲二等瑞宝章」と書かれた4つのプレートが嵌め込まれているだけの、シンプルなものです。
 名前は聞いたことがありますが、その人となりなどについてはよく知らなかったので、帰ってから調べてみました。

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 ウィキペディアによれば、大田政作(おおたせいさく、1904~1999年)は、琉球政府の政治家。元琉球政府行政主席(1959年10月~1964年11月)。
 沖縄県国頭郡国頭村出身。つまりはこの奥間の出ということかな。
 早稲田大学法学部卒。大学在学中に高等文官試験に合格し、長崎地裁や那覇地裁の判事、台北地方法院検事局検事を歴任。澎湖庁の庁長で終戦を迎える。
 戦後は熊本で弁護士をしていたが、1957年に当間重剛主席に請われて沖縄に赴き、副主席に就任。59年に政府主席に就任すると同時に、保守勢力が結集して沖縄自由民主党が結成されると総裁に迎えられる。
 主席在任中は、実務者レベルによる日本政府との協力関係を築くことを模索し、日米琉懇話会の設置を提唱する。しかし米国民政府のキャラウェイ高等弁務官が沖縄政財界に対し積極的に介入し(キャラウェイ旋風)、沖縄自民党内の派閥抗争が激化。西銘順治ら反主流派が沖縄自民党を脱党するに至り、責任を取って辞職した。
 辞任後は東京で弁護士を開業し、65年の参院選に自由民主党公認で出馬、221,478票を得たが落選した(この参院選には安里積千代も無所属で出馬したが69,251票を得るに止まり落選している)。70年に自民党沖縄県支部連合会長に就任、復帰後の72年、最初の沖縄県知事選挙に立候補したが、現職の行政主席だった屋良朝苗候補に敗れた。

 99年に95歳で逝去しましたが、当時の沖縄県知事稲嶺恵一によれば氏は、分け隔てなく誰とでも話す人情味豊かな人柄で、常に青年のような情熱を持ち、多くの県民に慕われていたといいます。



 「大田政作誕生の地」の碑からさらに東へ。道の左手には「金万川」と掘り込まれた古い石井戸のある芝生がうっすらと生えた空き地があり、そこからさて「かぎやで風節」の歌碑はどこだと目線を上げると、おおっ、数十メートル先に画像で見たのと同じ碑が見えるではないか。
 案ずるより生むが易し。カンタンに見つけてしまいましたよ。
 道を登りつめた正面に赤瓦の平屋が建っており、その前にどどんと碑が建つという珍しい眺め。しかも、その建物からは何人かの人たちの話し声が聞こえてきますから、まだ現役の屋敷のようです。

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 その「かぎやで風節」歌碑。
 2011年10月9日、沖縄の鍛冶屋の祖として知られる奥間鍛冶屋(オクマカンジャー)の子孫が詠んだとされる「かぎやで風節」の原歌を刻んだ歌碑の除幕式が行われました。
 碑の建立は、鍛冶屋の子孫である東嵩純さん(88)と親族の宮里繁さん(89)が、「先祖の功績を形として残したい」との思いで数年前から検討し、実現させたのだそうです。
 その碑には、次のように刻まれていました。

かぎやで風節
 あた果報のつきやす  夢やちやうも見だね
 かぎやで風のつくり  べたとつきやさ
  偲祖徳  嵩純書

 「大きな果報が得られようとは、夢にも見ないことであった。鍛冶屋でいろいろな物を作ってきたから、そのおかげで果報が身にぴったりとついた」――との歌意だというのですが、現在歌われている「かぎやで風」の歌詞とはまったく異なります。言うには、これが原歌だと。
 碑の礎石部分に説明板が埋め込まれていたので、以下に移記。

 第二尚氏の始祖尚円王・金丸は、不遇の若いときに奥間の裏山にあるインツキ屋取にかくまわれて世話になった奥間鍛冶屋の旧恩を忘れず、その後1470年に琉球王に就くと奥間鍛冶屋の次男正胤を国頭按司に取り立てた。
 その時、正胤が喜びのあまり即興で詠んだ「大きな果報が得られようとは夢にも見ない事であった。鍛冶屋でいろいろ物を作ってきたが、そのおかげで思いがけぬ果報が身にぴったりとついた(いいことをすると思いもよらぬ果報があるものだ)」という意味の歌が「かぎやで風節(鍛冶屋手風節)」の原歌といわれ、今日まで伝わっている。
 「かぎやで風節」は、国の繁栄、五穀豊穣、子孫繁栄、航海の安全、公事公務の遂行、慶事等祝意を表すときに歌われる事が多い。また国王の御前や高貴の座で恩納節など5節1組の初めに奏されることから「御前風」の異名もある。
 2011年8月吉日
 奥間鍛冶屋子孫:座安家(屋号 東り)
 建立奉加:宮里繁・東嵩純

 「かぎやで風節」は、沖縄ではお祝いの席で必ず演奏されるもの。祝いの場の種類によって、正月用、結婚式用、新築時用など様々な歌詞があるのだそうです。


 赤瓦の建物と「かぎやで風節」歌碑のあるところの左奥は広場になっていて、そこには「奥間鍛冶屋発祥の地」碑が建っていました。これも2011年の建立で、まだ新しいです。
 碑文は、次のとおり。

奥間鍛冶屋発祥の地
 奥間鍛冶屋は沖縄の鍛冶屋の祖として知られている。
 国頭・奥間の地で誕生した奥間大親は、後に浦添間切謝名村に居住し、長男察度(1321年~1395年 浦添按司・中山王)と次男泰期・金満按司ほかを生んだ。
 泰期・金満按司は、異母兄察度が1350年中山王に就くと、兄の使者として1372年~1382年の間5回、明に進貢に遣わされ、これが琉球と明との通交の始めとされている。明との交流はその後の琉球の政治・経済・文化の発展に多大な影響を与えている。
 泰期・金満按司は明から、当時貴重な品である陶器や鉄製品を持ち帰り、その製作・修理の知識、技術を身につけて、後に奥間に下って鍛冶屋を始めたとされている。
 奥間は山林が間近で、水、炭が豊富にあり、近くに鉄材料の仕入れや製品の積み出しに好条件な港があったこと、父奥間大親の出生地であることが、奥間の地を選んだ理由と思われる。
 泰期・金満按司が始めた鍛冶屋によって、琉球各地に鉄製の農具や生活用品が普及し、農耕、生活向上に大きな役割を果たしたと伝えられている。
 この泰期・金満按司が奥間鍛冶屋の始祖である。
  2011年8月吉日
  奥間鍛冶屋子孫 座安家(屋号 東り)

 わかりやすくていい文章です。
 なお、泰期については、読谷村では同村宇座の出身だとされていて、商売の神様のように扱われ、残波岬に銅像が建っているのだそうです。これもいずれ要チェックやな。

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 広場のさらに奥の山裾には何か祠のようなものがありました。その手前には小さな沢が形成されており、そこに架かる小橋を渡っていく道があります。
 もともとこの祠こそが始祖を祀っていたものなのでしょう。いわゆるカニマン御嶽というものか。そしてこの川が、金満(カニマン)川なのでしょうか。

 なかなか味のある佇まいをもった集落でした、奥間。旧米軍の保養地としてよく耳にする程度の地名でしたが、こういう歴史があるんだなあ。
 「奥間巡査」という池宮城積宝の小説があったよな。これは苗字。「青空文庫」で読んだっけな。


 続いては、名護の市内にとって返して、「大兼久節」の歌碑を見ます。奥間から名護までは45分ぐらいかかったかな。やんばるはけっこう遠いのだ。
 「大兼久節」の歌碑は、名護十字路から県道84号を西に200mほど進んだところにある沖縄銀行名護支店の脇に小さく鎮座しています。これまでも何度か目撃したことはあるのですが、しげしげと眺めたことはありませんでした。

 古典音楽「大兼久節」に謳われる歌詞は次のような内容で、それが碑に刻まれています。

 名護の大兼久
 馬走らちいしよしや
 舟はらちいしよしや
 わ浦泊
  大兼久馬場跡
   長さ120間 巾8間
  1963年10月建立  名護町

 「名護の大兼久は馬を走らせるのによいところだ。船を走らせて楽しいのは我らの浦泊だ」というのが歌詞の内容で、つまりはこの県道84号そのものが、大兼久の馬場だったところなのでしょう。
 先に見た今帰仁の今泊もそうでしたが、かつての沖縄の集落は馬場や神アシャギのあるところが中心になっていたので、ここも集落一の重要な場所だったのでしょう。
 幅8間と言えばだいたい15メートル。それが200メートル以上続いていたというのですから、当時としてはかなり広い場所だったはずです。
 この碑があるために、そういうことにも思いを馳せてこの場所に佇むことができるわけで、碑の効用というのかな、碑を建てる意味は深いわけなのです。



 さあ、そろそろ那覇方面へと戻ろうか。
 でもせっかく名護まで来たのだからと、変わりゆく名護十字路の様子や、こちらは変わることのない「ヒンプンガジュマル」を見ながら車を走らせました。
 東江の名護博物館まで来たところで、入口に鎮座する名護親方の像が目に留まりました。博物館の展示物については過去に2度ほど見ていますが、像まではつぶさに見ていなかったなと思い、クルマを下りて見てみたところです。
 「程順則聖人像によせて」と題する説明板から移記。

 名護親方程順則(1663年~1734年)は那覇久米村に生まれた。
 沖縄の名前では「寵文(ちょうぶん)」という。近世の沖縄を代表する政治家であり、その人格と素養によって人々から「名護聖人」と称され深く尊敬された。
 彼は、また文学者、教育者としても名高く、自らすぐれた漢詩文を作り、1718年には琉球初めての学校「明倫堂(めいりんどう)」を設立している。
 20代のころから中国に渡ること5回、中国から持ち帰った「六諭衍義(りくゆえんぎ)」には人が人として守らなければいけない六の教え(六諭)がわかりやすくまとめられている。この本は薩摩を経て八代将軍吉宗に献上後、和訳され江戸時代中期から明治初めまで庶民教育の教科書として全国に広く普及し用いられた。
 程順則は享保13年(1728年)66歳の晩年、名護間切の総地頭に任じられ名護親方(なぐうえかた)と呼ばれるようになった。
 彼が亡くなったあと、名護番所(今の役所)では、毎年旧暦の元旦に「御字拝み(みじうがん)」として、「六諭」の書を掲げ、その遺徳を偲んでいる。
 この儀式は現代にも引き継がれている。

 六諭 孝順父母 父母に孝順なれ   (父母に孝行しなさい)
    尊敬長上 長上を尊敬せよ   (目上の人を尊敬しなさい)
    和睦郷里 郷里は和睦せよ   (郷里にうちとけなさい)
    教訓子孫 子孫を教訓せよ   (子孫を教え導きなさい)
    各安生理 おのおの生理に安ぜよ(おのおの生業を安んじなさい)
    母作非為 非為をなすなかれ  (悪いことをしてはならない)
 2000年7月 名護市

 那覇久米村生まれの程順則が功なり名を遂げて、晩年には名護間切の総地頭に任じられ、名護親方となった――と。

 なお、那覇市久米1-6-14には「程順則生家跡」があるのだそう。(プレートのみ)
 また、那覇市波ノ上にある孔子廟内には「程順則名護親方寵文頌徳碑」建っているといいます。ここ、この後に行ったのだけれども、見逃しちゃったんだよなあ。これも改めて今後対応ということで。



 名護博物館のまわり、西側と南側には、立派なフクギの木が何本か立っています。ここはきっと由緒ある場所なのだろうということは、木々の立派さからある程度想像できます。
 そのフクギの木について、次のような説明板がありました。

沖縄県指定天然記念物 名護番所跡のフクギ群  昭和48年3月18日指定
 名護番所は王府時代から役所として利用されてきた所で、現在は名護博物館となっています。その敷地を囲むように生育するフクギ群は推定樹齢約300年、当時の地頭代屋部菊陰が植栽したといわれています。樹高は17~18m、胸高直径は最大で83cmが2株、以下76、67、54、42cmが各1株です。
 県内において、このように巨大なフクギ群は極めて稀なことから沖縄県指定天然記念物に指定されました。
 フクギはオトギリソウ科の常緑高木で、花は5~6月に咲き、果実は球形で8~9月に黄熟します。フィリピンと八重山群島に自生し、沖縄島では御嶽や屋敷などに植栽されています。木の成長は遅いが、防潮樹として優れており、暴風雨から家や集落を守ってきました。樹皮からは黄色の染料がとれ、染物に使われています。
 フクギの高く空を突くような樹冠と厚い光沢のある葉は、沖縄の伝統的な景観を特徴づけ、建物と集落をひきたたせています。
 市民ならびに県民の財産として大切に保護していきましょう。
  平成9年(1997)3月
  沖縄県教育委員会 名護市教育委員会

 ここはかつての番所の跡なのですね。またこの地は名護町の役場としても使われていたようで、説明板には大正9年建築で、昭和33年頃の役場の建物が写真入りで紹介されていました。その建物は赤瓦屋根の琉球民家風。西側に正面入口を持って建っていたようです。
 載せている写真でいうと、真ん中に写る木の奥、看板の立っているところあたりが旧役場の入口だったようです。

 フクギと言えば、備瀬のフクギ並木が有名です。それと比べるとこちらは本数こそ少ないですが、幹回りが太く、古くからあったことがうかがえます。
 フクギで自分にとって印象的なのは、やはり離島。1位は波照間島の集落だろうか。あと、伊是名島の伊是名集落や、渡名喜島なんかもよかったなぁ。


 国頭から那覇に戻る途中、高速を石川ICで下りて、中部地域のスポットをいくつか見て回ります。まずは読谷村喜納にある「道の駅喜納番所」に寄ってみました。
 ここに寄るのは、この番所が再建整備されたばかりの頃以来2度目になります。
 広い駐車場に車を停めて、周辺を含めて見て回ります。駐車場の西側道路は広々としていて、おそらくここもかつては馬ウィー(琉球競馬)が行われていた場所なのではないかと思料します。

 駐車場から番所までは芝が張られた公園になっていて、少し色褪せてきた「喜納番所周辺観光案内図」がありました。その文章部分(一部)を以下に引用。

喜納番所
 番所とは、間切(まぎり)と呼ばれる琉球王国 時代の地方行政区に置かれた拠点施設で、現在の役場に相当します。喜名は首里・那覇と国頭(くにがみ)地域の中間にあり、徒歩で双方の地域から朝に出発するとちょうど夕方頃に着く地理的位置であったため、旅人が宿を求める宿場町として賑わいました。その交通の要衛に喜名番所は置かれました。
 1853年には来沖したペリー提督の調査隊一行も訪れています。廃藩置県後にはその役割を引き継ぎ、1897年より間切役場、1908年より村役場として、読谷の政治・行政の中心的な役割を果たしてきました
 2005年、番所は往時の雰囲気をそのままに、観光案内所として整備されました。発掘調査の結果に基づいて、屋根にはかつてと同じく灰色瓦を使用しています。

 ははあ、番所の整備は2005年。ならば、自分の初訪問は10年以上も前だったことになりますね。
 番所の建物を正面から見たのがこの写真。初めて見たときは木肌の色がもっと白かった印象があります。
 「道の駅」と言っても、観光案内所的な利用形態になっていて、他と違って売店などはありません。

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 敷地内には「第33回 全沖縄美化コンクール 県緑化推進委員会会長賞・優秀賞 受賞記念碑」(2005年2月建立)なんてのもありました。
 それには、「なぐみ思わしゅる 喜納村ぬ番所 東太陽うがでぃ 栄てぃいかな」(詠人 照屋 健)という琉歌が刻まれていました。

 参考までに、照屋健さんとは、読谷村喜名に生まれ育った沖縄古典音楽・野村流音楽協会師範・組踊伝承者。数年前、地元への想いを込めて「喜名の番所」の歌を作詞作曲し、オリジナルのCDに収録し発売したらしいのですが、これがその歌詞なの?