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 まったく・・・。
 明日から久々の訪沖だというのに、台風15号が沖縄に大接近。しかもこの台風、「大型」で「猛烈」なのだそう。その上スピードが遅いため、先島、沖縄あたりで停滞する可能性すらあるようです。

 まずは、明日、飛行機が飛ぶかどうか。那覇まで行ってしまえば、やるべきこと、やれることは見出せるだろう。そしてあの、内地ではちょっと考えられない台風のすさまじさを体験するのも、まぁ悪くはないだろう。

 ・・・ったく、どうしてこうなるのかなぁ。
 いちおうレンタバイクを予約しているけど、この調子じゃあ無理かもなぁ。
 ま、あの横殴りの雨さえ厭わなければ、夜のライブなんかはかえって空いていていいかも――なんて、覇気のない強がりを言ってはみるものの、ひたすらに空しい。

 とりあえず、万全の態勢だけは整えつつ、明日の朝フライト情報をチェックすることにしましょう。
 沖縄から帰ってきました。

 台風の脅威に怯えながら出発しましたが、そやつが西にそれていったため、現地では雨の影響はほとんどなし。一度だけ、夜中に国際通りを歩いていて通り雨に会った程度で済みました。
 毎日バイクで南へ北へ、そして那覇の路地深くへと入り込んで探索。いつもバイクを運転する姿勢で太陽の光を浴びていたため、顔、首筋、腕の表側、腿の表側のみ日焼け、というか火傷だね、これは。(苦笑)

 いや~、1年来ないとあちこち変わってしまうものですね。国際通りの街並みもビミョーに変化。新しい道路がつくられ、古いビルが壊され空き地になっていたり、街を歩く人の流れが変わっていたり。
 モノレール奥武山公園駅近くの喜多方ラーメン小法師は最強食堂に変わっていたし、古い佇まいが魅力だった若狭の高良食堂も更地になって、道路の向かい側に店舗を移していました。

 見てきたこと、感じたことなどはおいおいブログで書いていきますので、お楽しみに。・・・と言うのではなく、読んでみてください、と言うべきなのでしょうね。



 ココがどこだかワカルという方はすごい!
 玉城百名の仲村渠樋川(なかんだかりひーじゃー)近くの公園から海を望んでみました。
 台風の影も形もないね。(笑)
 沖縄に着いてまずやることは、食事。基本的には大衆食堂やすば屋など、庶民的なところを攻めることにしているのだが、今回はまず、三越近くの「沖縄そば博物館」に行って軽く肩慣らし。
 何店かある中から「琉球麺屋シーサー」を選び、豚バラ肉とトロトロナンコツが載った琉球そば500円を食す。まぁ、味はそこそこなのだが、こういう類いの店のご多聞に漏れず、量が少なく、熱くもなく、大きなヨロコビは感じられない。ここで2杯食べるつもりで朝から何も食べないでやって来たのだが、や~めたっと。
 繁華街の真ん中にあるにもかかわらず、午後4時近くというハンパな時間帯だったためか、客は1ケタで、段差のある広いフロアはガラガラ。この10月で開店1周年になるそうだけど、これから大丈夫だろうかという懸念も感じたナ。

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 その足で、かつて「牧志」と呼ばれていたバス停の「三越前」から市内線に乗ってレンタバイクを借りに行き、手続きを済ませる。
 そのバイクに乗って次に向かったのは、モノレール奥武山公園駅近く、那覇大橋のたもとへ。
 なぜかというと、空港から乗ったモノレールの車窓から、かつて沖縄では貴重な喜多方ラーメン処の「小法師」が店をたたみ、そこに「最強食堂」ができているのを目撃したからなのだ。また食べ物かよと言うなかれ。(笑)
 近年、沖縄本島各地に店舗展開を図り、食堂の価格破壊を進めつつある「最強食堂」だけど、ここにもできたとは知らなんだ。

 というわけで、店内へと突入!
 で、食べた最強ランチ480円がコレ。

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 まぁ、あちこち安くて美味いものを食べ続けてきたワタシとしては、これまた値段相応という感じかなぁ・・・。
 熱々だし、トンカツの肉もこういう店にふさわしいやや品のないものであるところも文句はないのだが、経験上確立してきた大衆食堂の6大要素である「早い」「安い」「美味い」「熱い」「多い」「楽しい」のうち、「楽しい」の部分の演出がやや足りないのではないか。
 食券を買う、それを厨房内のオバチャンに渡すと代わりに番号札を持たされる、できあがると番号を呼ばれる、取りに行く――という一連の流れは、学食風でいまひとつ楽しくないのだね。

 しかし、量は十分。立て続けに2食食べてしまい、ややぐったり。
 でも、このぐったり感こそ満足の証ナノダ!
 いい歳をして、なぜにかくもここまで自分の消化器官をいじめてしまうのであろうかと、後の祭りの大反省。
 食べ物から始まった2007年秋の沖縄旅。いやはや、先が思いやられますナ。
 沖縄島にも遅い夕刻が迫ってきたが、まだ明るい時間がある。それではというので、かつてシュガーローフヒルと呼ばれた沖縄戦の激戦地へと向かう。
 ひめゆり通り、安里バイパスを通ってゆいレールのおもろまち駅へ。駅のすぐ脇、地図には安里緑地と記載されている場所がシュガーローフヒルだ。

 その場を目の当たりにして、なぜこんなちっぽけな高台をめぐって、歴史に残るほどの大殺戮戦が繰り広げられたのかと不思議に思ってしまう。それほどまでに無残な、見る影もない小山だった。
 丘の周辺は、ほぼ全方位にわたって山裾を削りとられて法面化されている。バイクをブイブイ言わせながら丘の裏側に回り込んでみると、那覇市の配水タンクへと登っていく道があって、その手前には丈夫そうな扉が設えられ、中に入ることはできなかった。

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 記念碑とか、何らかの証拠となるものがないかと探してみたが、それも見当たらなかった。
 周辺を見回すと、おもろまち。沖縄きっての新しい街がぐいぐいと四方に広がっていこうとしている。
 時の流れの中で人間が生きる、ということは、かくも簡単に地形や構造物を違うものに変えてしまうものかと、その場に立ち尽くし、しばし呆然とする。

 その後、丘沿いの迷路のような住宅街を、アップダウンしながら国際通りへと抜け出る。
 これがけっこうおもしろかった。この辺りだってかつては激戦地。戦後、斜面にへばりつくようにして形成されたこの住宅地も、60余年を経てここまで密集したのだろう。
 狭々とした道沿いには八幡神社や公民館・・・。いちばん高いところには、門柱に「稲嶺一郎」と書かれた大きな敷地があった。おそらく、前沖縄県知事の岳父の家があったのだろう。岳父も沖縄の名士だった人だが、戦後のどさくさにこの地を買い求め、眼下に広がる街並みを眺めていたのだろうと思うと、なんだかおかしい。
 そしてここでも、南北を貫くぶっとい都市計画道路がつくられようとしていた。

sugarloaf.gif これは“買い”です! インプレッションはこちら


 初日の夜は、今年春に宜野湾から那覇国際通りへと移転した「ライブハウス島唄」へ。
 ネーネーズなどのライブが聴ける店で、宜野湾にあった頃はバイクやレンタカーなどでよく行ったものだったが、これでようやくアルコールを飲みながらその唄々を聴けることになったわけだ。(飲んでしまってタクシーで那覇に戻ったこともあったが・・・)

 店づくりのコンセプトは基本的に変わっていないようだが、ステージや客席がこれまでより広くなった分、ネーネーたちとの間に距離ができてしまった感じ。
 宜野湾では、ステージの合間に比嘉綾乃や上原渚が客席にやってきてお愛想を振りまいたりしていたものだが、こちらではそういうことはないようで、3回のステージがすべて終了した後に出口でごあいさつをするのでCD買ってくださいね~・・・ということでした。

 客層も、これまで以上に観光客チックで、一人でマニアックに聴きに来ている人なんかは激減した模様。たま~にそーゆーヒトがいたとしても、彼らは客席の後ろのほうから、クースなどをなめつつ静かに店内全体を俯瞰するしかない。おれのほかにもそういう仲間が1人いたのは心強かったナ。

 「黄金の花」や「バイバイ沖縄」、「翼を休めに来ませんか」などの知名定男作品のほか、「永良部百合の花」、「ノーウーマン・ノークライ」、「他所の人」などをうたう。
 彼女たち、練習を重ねたと見えて、唄三線をやるようになっていた。太鼓、三板なども上手にこなし、ステージからの客扱いも達者になっていたな。

 そうそう、後日沖縄タイムス主催の選抜芸能祭を観ることになるのだが、そこで古典の「伊野波節」の前奏を聴いていてはたと気づいたのは、それが、ネーネーズの「ノーウーマン・ノークライ」の前奏とそっくり!
 ははぁ、「ノーウーマン・・・」のアレンジには沖縄の古典が影響しているとは! 知名定男、恐るべし。

 4人のネーネーターも元気そうで何より。いずれも喉を酷使しているようで、ややハスキーボイスだったのが気になるが。

 オリオンや泡盛も飲めたし、夜11時前の終演だし、歩いて宿まで戻れるし、これは楽チンだな。

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 ネーネーズ。左から與那覇歩、比嘉綾乃、上原渚、金城泉。
 2日目は、本来なら旅のメーンイベントである那覇の大綱挽と那覇まつりがあるはずだったが、台風接近のため早々に延期が決定していた。では、ということで、島尻方面へとバイクを出す。

 天候は、薄曇り。途中JEFに寄って、新聞(もちろん地元紙)を読みながらルートビアとポテトでゆっくり寛いで、八重瀬町富盛の石彫大獅子を見に行く。
 糸満市の阿波根交差点から左折し、賀数、当銘と進み、途中小城のニーセー石などを見学しながら志多伯、東風平を経由して富盛へ。

 なぜ大獅子かというと、沖縄戦時の写真集などで、米軍がこの獅子を盾にして日本軍を追い詰めている写真が秀逸で、ぜひその現場を見てみたいと思ったから。
 その一部がコレ。

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 で、大獅子がある高台の公園までバイクで登りきり、実際に見て撮影したのがコレ。うひょー、時は過ぎ行けども、獅子は不変。見事でありますな。当時は鉄の暴風のためにはげ山になっていたけど、今はご覧のとおり亜熱帯の植生があたりを覆い、かなり鬱蒼としていました。




 高さ141センチ、体長175センチと、残波岬の大獅子など近年になってできたものと比較すればちっぽけな部類に入る大きさですが、なんてったって歴史が違う、重みが違う。

 大獅子の脇にあった碑によると、「この獅子は火除けとして1689年に設置されたもので、フィーザン(火山)といわれる八重瀬嶽に向かって蹲踞(そんきょ)している。この獅子が設置される以前は、富盛村では火災が多く、村人はことごとく困ったということが「球陽」にくわしく記されている。今日でも、旧暦10月1日(竃のお願い)<防火儀礼>の行事にこの獅子を拝んでいる。戦前までは旧暦9月9日(タントゥイ棒)のときに、村の青年たちはこのジリグスクに集まり棒踊りを演じた。沖縄各地にある村落祭祀上の目的でつくられた獅子のなかでも最大最古のもので、民俗資料として貴重なものである。」――とのことです。
 その後は、海でも眺めながらカフェでも楽しもうと思い、国道331号を使って、知念にあるという「カフェくるくま」を目指す。南部になり道路を走る車も少なめになったので、照りつけるゆるやかな太陽の下、ゆったりとした速度で進む。

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 その途中に寄ったのが仲村渠樋川(なかんだかりひーじゃー)。
 近くにある垣花樋川は訪れたことがあるが、ここは初めて。
 地元ではウフガーと呼ばれる湧泉で、古くは樋1本の簡単なものだったのが、1912年に琉球石灰岩で築いた現在の形に改められたとのこと。男性用のイキガガーと女性用のイナグガーがあり、それぞれ洗い場と水槽を備えている。
 写真は、西側のイキガガーかな。行った時は、農作業を終えたおっさんが下着姿になってここで長靴を洗っていたが、カメラを構えるこちらを察して、一時ファインダーからフェードアウトしてくれた。いや、スマヌ。
 お! しかし写真をよく見ると、右側の水の流れの下に白い長靴、そしてその脇には脱ぎ捨てた服が見えるな。(笑)
 この東隣りに少し見えるイナグガーは、周囲を切石で囲まれ、屋根が付けられていた。かつては女性の水浴場に利用されたらしい。



 これは、玉城百名の高台を走る道路沿いから奥武(おう)島を望んだもの。リーフエッジに白波が立ってなかなかいい景色だ。

 「カフェくるくま」は、着いたのが午後1時前の昼食時で大混雑。店員さんに「4、50分待ちですが・・・」と言われ、あっさり退却。うむ、一人で分にそぐわないことはするものではないという教訓かな。

 その後は331号よりも海に近いローカルな道を通り、受水走水(うきんじゅはいんじゅ)や新原(みーばる)ビーチなどに寄り道しながら奥武島を目指しました。


 奥武島に来たのは、中本鮮魚店で天ぷらを食べるため。
 ココの天ぷらは美味い!!ということをかねがね聞いていたので。

 沖縄の天ぷらって、内地のそれと違って、おやつ感覚で食べるもの。衣がもっちりとしていて、そのまま、またはソースをつけたりして食べる。

 島へと続く橋を渡ってすぐのところに店はあり、店の前は人だかりがしていたのですぐにソレとわかる。
 で、自分も並んで待つこと数分。大量買いをしていく人が多く、なかなか順番が回ってこないのね。(笑) でも、その間にもどんどん揚げたての天ぷらができていく様子を見ているのもなんだか楽しい。

 自分の番がめぐってきたので、「少しだけで申し訳ないけど・・・」と言いつつ、イカと魚と芋を1コずつ注文。150円也。でも、店の人はぜ~んぜん問題ありませんよという表情で、どーぞと渡してクレタ。

 でもって、島の南側のゲートボール場のある広場へと移動し、ベンチに腰掛け、日焼けし始めた腿から膝ナンゾをさすりつつ食す。
 イカは肉厚でもっちり、魚は白身のものでほくほく、芋は紫色の紅芋で、これまたほっくりで美味。おばさん、芋は1個シーブン(おまけ)してくれたようで、全部で4つ入っていたゾ!
 こうやって、何もつけずにそのままアツアツをハヒハヒ言いながら食べるのが一番ウマイのだろうな。シアワセだなぁ・・・。

 あぁ、腹が膨れてきた。
 カフェを楽しむことはできなかったけど、おれはこうやって、袋から直接天ぷらなんぞをパクついているほうがずっと至福を感じるし、似合っているのだろうな。
 なんか、胸いっぱいだ。
 そうか、毎日脂っこいものばかり食べているし、水物もなく無心に食べているからそう感じるだけのことなのだろうナ・・・。

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 いや、おどろいた。
 今年7月18日付けの琉球新報に、自分のことが載っていたのである。
 その内容は、琉球新報のホームページにも掲載されていた。
 もっとも、実名が載っていたわけではないのだが、これは間違いなくおれだ。

 記事を書いたのは、琉球フェスティバル大阪の仕掛け人、H.I.P大阪の河野社長。社長は、おれがHPに書いている琉フェスのインプレッションを読んでくれていて、琉フェスの記録映像を送ってくれた方。

 その内容を一部抜粋すると・・・。
『1万人以上が集まる大阪の琉球フェスティバル。・・・・一番遠くから来る人は、山形市のTさんであろう。毎回、自らのホームページで公演評を発表してくれる。』

 奇しくもこの日は、おれの誕生日。

 記事の全文は、こちらにありますので、ご覧ください。
 奥武島で天ぷらを食べた後は、ホテルサザンリンクスや糸満市平和創造の森、喜屋武の集落などに寄りながらいったん那覇のホテルに戻る。

 本当なら、東風平の運動公園で開かれる、今年が第1回目となる八重瀬町の青年エイサーまつりを観る予定だったのだが、これも台風のため一週間延期。
 それではと、ホテルでちょっと休んだ後、「第2回えぐち祭り」を観るべく北谷へと向かう。こちらは決行のようなので。南へ北へと、なんと精力的なことか。

 北谷の栄口区の公民館近くの野外運動場では、午後6時から、特設野外ステージでさまざまなパフォーマンスが繰り広げられ、それらを堪能。
 いちゃりば兄弟ブルースバンド、子ども演舞、台湾民族舞踊(地元愛好会によるもの)という具合に町内会ならではの混沌とした出し物が続き、その後はいよいよお目当ての島唄ライブ。



 はじめは、ひがけい子とシュビーズ。ひがけい子といえば、でいご娘の末妹。本人も栄口に住んでおり、姉の一人は町内会の役員をしている誼で参加したのだそう。
 おなじみ「わしたウチナーけんさんぴん」などの曲を披露。シュビーズって“楚辺”をひねったネーミングだったのですね。

 続いては、地元青年会の地謡も務めるよなは徹が登場。三線一本で「屋慶名クヮーデーサ」「北谷ナークニー」「ケーヒットゥーリ節」など通好みの民謡をうたう。
 「ケーヒットゥーリ節」では、老人会の面々が鎮座するテントから ♪ケーヒットゥリ、ヒットゥリ・・・の合いの手を入れてくるあたりに、おれは心底痺れてしまったゾ!

 次には、ビールケースと板でできた観客席をいったん撤去して、盆踊りが行われる。最初の曲はよなはがつくった「栄口節」でゆるやかに、幽玄に踊る。
 ♪ 北谷栄口区や イスリスーリ・・・  なんか、遠い子ども時代の夢を見ているような気持ちに。
 しかしその後はフツーの盆踊り。北谷音頭(?)や、♪月が出た出たぁ~・・・の炭坑節など。このミスマッチもまた良し、ということか。

 お次はなんと、「しゃかり」が登場。チアキもまた栄口の住民なのだそう。相方のかんなりも隣りで太鼓を叩いていました。
 そうそう、“しゃかり”というのもお近くの地名“謝苅(じゃーがる)”をひねったネーミングなんだよね。

 最後は栄口区エイサーが登場して演舞を披露し、その後は区民カチャーシー大会。
 いやはや、区民祭りとは思えない、めっちゃ濃~い内容の祭りでした。
2007.10.17 七島黒糖


 旅のインプレはちょっと一服。
 コレ、お土産に買ってきた「七島黒糖」です。
 沖縄県黒砂糖協同組合&沖縄県黒砂糖工業会プレゼンツ。

 北から伊平屋、粟国、多良間、小浜、西表、波照間、与那国の7島の黒糖が一度に楽しめるという逸品です。粒が大きいのと小さいの、色が黒々としたのと白っぽいのと、様々。

 カロリーを気にしてたくさん食べたりしないので、味を比較してどこの島のがどうということまでは今のところよくわかりませんが、見ているだけでとても楽しい。

 1,575円はこの程度の量としては超高値だとは思いますが、食べる楽しみという観点からは実に優れていると言えると思います。

 持ちもいいので、これからしばらく味わって、南の島に思いを馳せることにしましょう。
 沖縄3日目、10月8日は、またまた朝はロビーで新聞を読むなどしてくつろぎ、街中の食堂が開く頃合を見計らって出動。
 まずは国際通りで琉球ガラスのタンブラーを物色。結局お目当てのブツは三越で買っても値段的に変わらないことがわかり、丁寧な梱包&信用を買ってここで3個入りを5セット購入。引越しのあいさつ用に。満足満足。



 そして、朝めし代わりにパラダイス通りの「大東そば」へと赴き、大東島名物の大東寿司とそばのセットを千円で。
 ようやく初めて、大東寿司を食した。(遅い時間に行くと品切れになっているのダ)
 サワラのヅケを乗せた、八丈島にもあるような寿司。酢が利いたシャリもグッドです。一握り100円の計算となりちょっと高いけど、初めてだからね。

 そばのほうは、相変わらず美味い! 太くてもっちりした独特の風味は絶品です。この麺だったら、麺通の多い山形県人をも十分唸らせることができましょう。
 今後しばらく通うことになりそうな予感・・・。
 この麺を用いてジュワジュワやるここの焼きそばもウマイですよ。
 その後は、パレット久茂地で沖縄県産本フェアをやっているというので、それを見に行く。

 参加社30社、奄美から八重山まで1300種類以上の本が集められているということだったが、どうしても欲しい本はそう多くなく、ここで買ったのは、野村流古典音楽を八重山に広めた屋嘉宗業という人の一代記「三絃を響かせ」の1冊。ほかはネットで買えそうなものだったので、ここでは書名をメモするにとどめる。

 ついでに寄った隣りのCD販売ブースでも品定めをしたけど、あまり欲しいものはない模様。沖縄民謡界はかなり衰退気味とみたが、いかがなものだろうか。

 そして、その後はコザ方面へ。
 その目的のひとつは、コザ十字路の「丸長食堂」でランチを食べること。(笑)

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 さぁ、ご覧ください。すごいでしょ~。600円のランチです~。
 上から時計回りに、ハンバーグ、ウインナー、焼き豆腐、豚肉生姜焼き、ポークランチョンミート、卵焼きとベーコン、サザンアイランドドレッシングたっぷりの千切りキャベツ。

 左上のシロモノは、漬物にバター2片。
 これだけ脂肪分の多いおかずなのに、バターを熱々のご飯にのっけたらもっとおいしいですからね~という、お店のオバサンのサービス精神の象徴です。これを残すわけにはいくまいて。

 店の雰囲気は一種独特。なんせ、店構えがこのとおりですから。
 入口のドアなんて、失礼ながら、古いスナック街の共同便所のそれのよう。入るのにかなり緊張を強いられましたぜ。
 さらに店内は、家族連れやガテン系のほかにおじいやおばあなどの有閑階級の方々も多く、それらの人々の社交場にもなっている模様。
 おれなんて、すっかり陰の席のオトーサン呼ばわりされて、最後まで他所者扱いだったもんナ。

 でもね、都会の雑踏の孤独に酔いしれる人がいるように、おれは最近、沖縄でこのような浮いた存在となることを気にしなくなってきた。というよりも、密かなヨロコビを見出せるようになってきた。
 人間、何にシアワセを感じるかなんて、わからないものですよ。

 最後に一言。味は確かだったゾ! 沖縄フリークなら、一度は行くべし!


 オープンしたてのコザの音市場も見てきました。立派ですね~。
 真新しい建物の広場ではなにやら地元バンド風が賑やかな演奏をしていました。
 真夜中のエイサー道じゅねーといい、ホント、コザの人たちって大きな音に寛容なのですね。

 建物のほうは、できたばかりにもかかわらず、人は少なめ。テナントスペースも、これから入るべく工事をしているブースもあったりして、オープンしきっていない印象も。
 まぁ、なにかとのんびりな感じがいいと言えばいいのかもしれませんが、このあたりはきちっとやったほうがいいと、おれは思いますよ。

 あれ、胡屋十字路の大歩道橋は撤去されてしまったのだなとか、ああ、おれが立っているこのあたりはかつて大衆食堂ミッキーがあったのだなとか、以前の胡屋十字路に思いを馳せてみる。

 コザも着実に変わっていくのだろうな。
 第二のコリンザにならないように、関係者の方々、よろしくお願いしますよ。完成は、終わりではなく、スタートなのですから。


 でもって、コザを離れて次に行ったのは、宜野湾市民会館。午後6時からココで「2007 沖縄タイムス 選抜芸能祭」というのがあるのですね。

 沖縄タイムス社では毎年「芸術選賞」という賞を設定して、古典芸能を奨励していて、上位に入選した人たちの演技や演奏をこうして公開しているのです。地域文化の育成を地元のマスコミが費用を投じてやっていくことってとても大切なことだと思うのですが、我が地元のマスコミなんて、ケチくさくてさっぱりやってくれないのね。羨ましいぞ、沖縄。

 舞踊、古典音楽、筝曲、器楽演奏など15演目を3時間半にわたってたっぷり堪能。今年度の最高賞、優秀賞、新人賞の受賞者が、前年度までの最高賞などの受賞者とともにうたい、踊り、演奏します。
 演目も、各ジャンルのメジャーがずらりと並ぶので、観ているほうも基本的なところをつかむことができます。

 終わる頃にはもう、身も心も充実感でいっぱい。というか、少々飽きがくるくらいたくさん観たなという感じでした。(笑)

 プロではないとはいえ、この内容で1500円なら、納得だなぁ。


 2007秋・沖縄旅は、残念ながらとうとう最終日。チェックアウトまで部屋を使わせてもらい、まずはブランチを。
 那覇に滞在したなら、おれの場合、やはりココで一度は食べたい。それは、首里の「あやぐ食堂」。

 ご覧のブツはみそ汁定食570円です。
 これが、連日深夜まで不摂生を続けた身体にとてもやさしい。
 みそ汁は、野菜がたくさん入っていて、肉類も多く入れるものだから、味のほうはかつおダシというよりも、札幌の味噌ラーメン風。今まで食べたことのない味のみそ汁だったが、ヒジョーに美味かった。
 ごはんは、まぐろの刺身と目玉焼き、マカロニサラダ、漬物でいただく。連日脂肪分の多い食事をしてきたので、胃がホッとしているようです。

 店は、朝の9時半からやっていますので、ホテルの高い朝食とかビジネスホテルのサービスのおにぎりなんか食べるよりも、ずっとこっちのほうが心が納得。おれはいつもそうしている。

 店内は、まだ午前10時を過ぎたばかりというのに、タクシーの運ちゃんなどで結構繁盛していました。店のオネーサンたちも元気かつフレンドリーでたいへんグー。
 いやぁ、今回の旅、食事に関しては、有終の美を飾れたし、納得ですね。

 この後は、那覇市内を一巡してバイクを返却し、ホテルに戻って預けておいた荷物を受け取り、モノレールで空港に向かい、お土産をたんまり買い込んで(ほとんどが食料品でした)、帰途についたのでした。

 台風の余波で、那覇の大綱挽きなど一部の屋外イベントが見られなかったのは残念ですが、それはまた今後のお楽しみということで。

 普段の生活の中で、沖縄で見たいもの、聴きたいものを見つけ出し、それらがたまってきたならまた訪れましょう。



○はじめに

 今年も琉球フェスティバルを観に大阪に行ってきました。
 琉フェス大阪への参加は今年で4年連続。いつものように開催日の前日大阪入りし、開催の翌日に戻るという2泊3日の行程。
 今回は初日に新大阪駅の足元、かつて「被差別部落」といわれた地域を深々と探索し、開催日当日の午前中は岸和田まで足を伸ばし、歴史を感じさせる街並みや岸和田城、だんじり会館などを見てきました。それらの合間には、牛スジの入ったネギ焼(お好み焼き)や船場カリーのすじネギカリー(スジばっか!)、つるつるシコシコのけつねうどんなども食べて、満足満足。

 で、琉フェス。
 1995年に復活した琉フェスも、今年で数えて13回目。まず思うのは、総合プロデューサーの知名定男や主催者のFM大阪、H.I.P大阪などがよくぞここまで続けてきてくれたなということ。
 これも興行ですから、山や谷がある中で、1年も休まずに続けることは容易なことではなかったことでしょう。島唄フリークの一人として、関係者に対して深く感謝しなければならないなあ。

 今回の琉フェスですが、1970年代に竹中労が中心となって催されたという第1期を支えていた照屋林助、嘉手苅林昌、登川誠仁、大城美佐子、国吉源次、山里勇吉といった沖縄民謡界の重鎮は、亡くなったり年をとったりですっかり姿を消してしまいました。また、今回は、大工哲弘、大島保克といった“常連組”もなぜか不参加。
 今回の参加者は、まずは、総帥知名をハブとして活躍するネーネーズ、鳩間可奈子、チナサダオ楽団、ごとうゆうぞうなど。ベテラン組としては、金城実、山里ユキ、饒辺勝子、金城恵子。このあたりはビセカツの影響が大きいでしょうか。そして若手常連組からは、新良幸人withサンデー、下地勇、よなは徹など。さらに、初出場組として加治工勇、池田卓、やなわらばー、かりゆし58。このほか、今回は琉球民謡登川流保存会の関与が濃厚で、同保存会の宮里政則、伊礼哲&サンクルバーナーも初出場。奄美からはRIKKI、貴島康男、山元俊治(としはる)です。
 チケット発売時に発表されたときには決まっていなかった大勢の唄者が出演し、ずいぶんと多彩な顔ぶれになりました。

 会場や観客席のつくりはというと、これまたずいぶんと様変わり。去年まではセンターの守備位置付近に設えられていたステージがバックスクリーン付近まで後退してしまい、そのためにアリーナ席はかなり広くなりました。ステージ両脇にあった売店は、ホームベース付近、アリーナ席とスタンド席の間にまとめて設営されています。
 まあ、アリーナ席が人気なので仕方ないのでしょうが、これではスタンド席の人(ワタシらですね)にとっては臨場感が薄れ、かなり物足りない感じ。実際に演奏が始まってみると、やはりステージは距離以上に遠く感じられ、アリーナの歓声も届かず、高揚感が得られにくいようでした。
 また、4つ設えられたオーロラビジョンのうちより画面の大きい上の2つは、天井から下がっている照明器具などがかぶってよく見えず、がっくり。席の値段はアリーナもスタンドも同じなのですが、ずいぶんと待遇に差がついてしまっています。
 今後琉フェスに参加しようとしてどちらの席にすべきか悩んだときは、迷わずアリーナ席にしたほうが得策でしょう。でも、どうしてもじっくりと鑑賞したいという向きは、やはりスタンド席。ただしオペラグラスは必携ですが・・・。
○開幕

 午後3時を過ぎて、いよいよ開幕です。
 「南嶽節」のイントロをバックに、獅子舞とともに沖縄かりゆし会(大東市)、琉鼓会(尼崎市)、琉ゆう会(京都)の3つのエイサー団体が入場し、仲順流り~クーダーカー~トゥータンカーニー~海ヤカラー~テンヨー節~いちゅび小~固み節~花の風車~唐船ドーイとグルーピーに演奏、演舞。
 演舞が終わるや、場内は暗転。琉球芝居風の口調で「かりゆしぬ遊(あし)び うち晴りてからや 夜(ゆ)ぬ明きて太陽(てぃだ)ぬ 上がるまでぃん 大阪ん遊び 幾世(いくゆ)までぃん!」と開幕宣言をする玉城満の大きな声が会場に響きます。
 そしてぱっとライトが照らし出したのは、ステージ上に並ぶたくさんの三線奏者。お~、すごい! これは琉フェスとしては新しい趣向。ずらり並んだのは、琉球民謡協会登川流保存会関西支部の100人! 100人がステージにズラ~リですよ、ナント。
 うたうは、師匠登川誠仁の十八番「ゆしぐとぅぬ宝」。浮世を渡るなら「義理」「誠」「情」を忘れず肝に銘じ、心に染めよとの、沖縄のうたごころにも相通じる教訓歌です。
 そして「新デンサー節」。いずれも登川流の練習曲なのでしょう。とても豪華でしたよ、拍手拍手~♪

 その唄三線が終わるや、スポットライトを浴びて紋付袴姿の知名定男が登場。ステージ中央に正座し、出演者、主催者を代表して深々と一礼。琉フェスを復活させた当初は今回まで回数を重ねるとは誰が思ったことか、それが今日までやって来ることができたのもひとえに島唄ファンの皆さんのおかげ、これから5年、10年、100年、1万年と続くようご支援をお願いしたい――と語ります。
 一人の島唄ファンとしてはまったく同感。特に「ここまで回数を重ねるとは誰が思ったことか」というところが。(笑) こちらも知名定男のもとに歩み寄り、関係者の熱意に深甚なる謝意を申し上げたいくらいです。
 知名はさらに、大先輩方が育んできた財産を引き継いでいく真っ只中に身を置けるのは幸せであること、“沖縄”がブームではなくブランドになったことなどを述べます。“13回記念”と言うべきところを“登川誠仁の17回忌”と言って笑いを誘うあたりはなかなかです。ちなみに、“17回”は知名の勘違い、知名の師匠に当たる誠グヮーはまだご存命です。
 最後は、ゆっくりと鑑賞していってほしいと、またもや両手をついて一礼を。やんちゃだった知名セーネンも、今年で齢62。もう長老の仲間入りなのですね。

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 ステージ全体が明るくなると、いつの間にかバックはチナサダオ楽団に変わっていて、彼らの演奏する「てぃんさぐぬ花」のメロディに乗って、ここでようやく司会の玉城満、谷口キヨコのおなじみ2氏が登場。
 まずいつものように、こちら側は八重山の皆さん、こちらは宮古の皆さん・・・と会場を区分けしておいて、参加者を一組ずつステージに呼び込み紹介をします。
 呼ばれたのは、鳩間可奈子、池田卓、下地勇、山元俊治、RIKKI、貴島康男、饒辺勝子、山里ゆき、知名定男、金城実、金城恵子、加治工勇、宮里政則&かりゆしバンド、伊礼哲&サンクルバーナー、よなは徹、ネーネーズ、やなわらばー、かりゆし58、大西ゆかりの順。
登場順なのかと思って見ていましたが、後からわかりますがそうでもなく、何の順なのかはいまだに不明。あれ? 新良幸人&サンデーの紹介って、あったっけ?
 全員が揃ったところで「てぃんさぐぬ花」を3番までしっかり大合唱。なんかもう、フィナーレみたいですね。(笑)
○ネーネーズ

 うたい終えて、ステージにネーネーズだけが残り、今年のスターティングはネーネーズ!
 何種類かある衣裳のうち、今回は白が基調の紅型衣裳。花鳥をあしらったきらきら模様に襟元の濃紺、足元の赤が華やかさを添えています。

 1曲目は、♪ 麦藁帽子を・・・カチャーシー踊れば・・・ という、初めて聴く曲。根っからのネーネーズファンでありながら曲名を知らないというのは、自分としては大問題。これは事件ですね。(笑)
 うたう姿は堂に入ったもので、緊張している様子もなく、笑顔はいいし、振付けの動きもいいし、むしろ大きなステージを楽しんでいるような印象さえ受けました。

 続いては「ノー・ウーマン・ノークライ」。オーロラビジョンに大写しになった金城泉のシャープな顎のラインにゾクッ!
 この曲の特徴部分である高音ソロパートを與那覇歩がうたいます。その響きはとても秀逸で、初代の比屋根幸乃のそれにもひけをとらないものでした。成長したんだね、みんな。

 ライブハウス島唄では4人が交代で毎日3回のステージのMCをやっているようですが、今回の大舞台は例年どおり比嘉綾乃がMCを担当。昨日の10月20日に久々に新曲を発表することができたことを報告し、3曲目はそのうたを。知名が奄美をイメージしてつくった曲だそうで、貴島康男がイントロの奄美の三線を奏でて始まりました。♪ 二度と帰りはしないさ・・・ なんていう曲なんだ?!

 ネーネーズは琉フェスの際に新曲を発表することにとても意欲的。3代目として初出場した第10回(2004年)では「SUN-KANI」と「恋西陽(くいいりひ)」を初披露したし、第11回では「山河、今は遠く」のリメイクをうたったのでした。

 最後はタンッ、タンッ、ターン、タンタンというラテン音楽独特のクラベス(拍子木)の音が鳴り響いて、「ヨーアフィ小」を。
 ♪ 汝(やー)とぅ 我んとぅ ヨーアフィ小(ぐゎー) ・・・
 ヨーアフィ小とは許婚のこと。知名が自身のメジャーデビュー作「赤花」でうたい、初代ネーネーズもデビュー作「IKAWU」でうたった恋人同士の語らいのうたを、時空を超えて彼女たちがうたいます。元気に踊る上原渚がとってもかわいかった!

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 比較的持ち時間が長かったとはいえ、もう終わり?という終わり方でネーネーズが袖に下がると、琉フェスの十三祝いに駆けつけたといういずみ&やよいが登場。玉城満の主宰する笑築過激団の女性団員で、沖縄のローカルテレビ番組「お笑いポーポー」などにレギュラー出演した漫才コンビなのだそうです。
 「定男センセにクルザーター(黒砂糖)をあげたら、琉フェスに出てみたらどうかと言われて、今日の十三祝いに駆けつけました~!」とのこと。賑やかなネーネーターです。


 過去の琉球フェスティバルの模様はこちら


○池田卓

 そのネーネーターにいいカーギーと紹介されて登場したのは、初出場、池田卓です。西表島船浮出身の28歳。高校時代は沖縄水産高校で投手として活躍した経歴を持つ好青年です。

 ピアノとアコギをバックにまずうたうのは、彼のデビュー曲「島の人よ」。
 純白のカッターシャツに洗いざらしのジーンズ、これに三線をストラップで肩にかけた出で立ち。その白いシャツがトップライトに映えわたります。
 右足をやや前に出して半身でうたう姿勢は新良幸人に似ていなくもないですが、彼の頭髪はフサフサですから、見間違えようもありません。(笑)
 ♪ 生まれ島を離れ暮らす 島の人よ
    覚えてますか 生まれ島の祭唄を ・・・
 観客が感動している様子は、うたい終えた後の拍手がじわじわとさざ波のように湧きあがり徐々に大きくなっていくことで実感できます。

 「まさか、うたでドームに来るとは思っていませんでした」と語る元野球少年は、三線を別のものに持ち替えて、西表島に行きたいなぁ、島のおじいになりたいなぁ・・・という「なりたいな」をうたいます。曲調はカントリー風、三線をバンジョーのように掻き鳴らし、軽快な感じ。

 最後は、代表曲のひとつ「おばあちゃんの唄」を。
 大好きなおばあちゃんに、元気にしてますか? お変わりないですか? と語りかけ、そのおばあちゃんが亡くなったおじいちゃんに、見てますか?あの子の晴れ姿を、聴いてますか?この子のあの唄をと呟く――というモチーフ。
 これには泣かせられました。今回の琉フェス中一番の感動でした。

 うたのつくりそのものやヤマトグチの歌詞は沖縄風とは言えませんが、そこに流れる肝心(チムグクル)はまさにオキナワ。その素晴らしさは八重山の離島で生まれ育った者でなければ出せない味わいです。こういうのもオキナワンミュージックのひとつのかたちなのでしょうね。


 1996年の琉球フェスティバルの模様はこちら