日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年10月3日武蔵国比企郡かたよせ郷百姓中宛上田憲定朱印状

これまで秀吉や家康側の史料から小田原攻めについて見てきたが、今回からしばらくの間後北条氏側の史料からこの戦争について見ていきたい。

 

 

 

かたよせの郷*1、今日より中い*2にさしおき*3候、百姓わきの者*4并出家以下まても、ふさた*5なくはしりめくり*6肝要ニ候、何事なり共かいふん*7しなん*8をくはへへく*9候、其ため印判を以申ことはり候、然ハおとなしき*10百姓ありのまゝ早〻松山へきたるへく候、郷中のしおき*11可申付候、以上、

  

  丑*12

   十月三日(上田憲定*13朱印)

 

      かたよせ

 

        百姓中

 

(『川越市史 史料編』中世2、709頁)

 

 

(書き下し文)

 

かたよせの郷、今日より中井に指し置き候、百姓脇の者ならびに出家以下までも、無沙汰なく走り廻り肝要に候、何事なりとも涯分指南を加えべく候、そのため印判をもって申し断り候、しからば大人しき百姓ありのまゝ早〻松山へ来たるべく候、郷中の仕置申し付くべく候、以上、

 

(大意)

 

かたよせ郷の百姓どもを今日から中井に配置する。百姓らは脇の者ならびに出家した者に至るまで、怠けることなく奮戦することが重要である。何事も精一杯従者を連れて参戦するように。そのためにこの印判状を発した。一人前の百姓はすべて松山へ馳せ参じるように。郷内の支配について申し渡す。以上。

 

 

 

 

図1. 武蔵国比企郡松山城周辺図

 

               『日本歷史地名大系 埼玉県』より作成


この文書から成人男性は出家も含め、「脇の者」といわれる隷属的な百姓まで動員がかかったことがわかる。

 

なお次の史料は年未詳ながらこの総動員体制の実態を物語る文書である。

 

 

 

いつかた*14より松山りやう*15へ、なんとき夜うち*16をうち候共、かい*17を立てへく候者、かいしたひ*18そのところ*19へかけあつまり*20、はしりめくる*21へく候、夜うちのしゆをうつとめ*22候者ニハ、一かと*23はうひ*24をいたすへく候、さて又かけあつまらぬものをハ、徒類せいはい*25いたすへく候、そのすし/\*26に物主を付おき候間、けんみつ*27もふさた*28もかくれ*29あるましく候、ゆミ・やり・てつはう*30をもち*31候ものハもちろん、とうく*32をもたぬものハほう*33をもち、けんミつまかりいで*34へく候、以上、

 

  十二月二十一日 (朱印)

    

     ならぬなし*35

 

(『東松山市史 資料編』第2巻、553頁)

 

 

 

下線部では、弓鑓鉄炮を持っている者はもちろん、武器を持たない者は棒でも持って参戦せよと述べているのだからその必死ぶりがうかがえる。映画「スターリングラード」で「銃は複数人に1丁」とされたソ連軍兵士および民間人も真っ青な総動員体制である*36。それがかりに事実だったとしても武器が支給される近代の軍隊はまだましで、武装は自弁とされていたのがこのころの戦争である。

 

 

*1:武蔵国比企郡、下図参照

*2:横見郡/吉見郡中井、下図参照

*3:指し置き。配置する

*4:脇の者

*5:無沙汰。怠けること

*6:走り廻る。戦う

*7:涯分。精一杯

*8:指南。従者や被官になること

*9:採用すること

*10:一人前の

*11:備え

*12:天正17年。グレゴリオ暦1589年11月10日、ユリウス暦同年10月31日

*13:小田原北条氏家臣で武蔵松山城主

*14:何方

*15:é ˜

*16:討ち

*17:貝。法螺貝

*18:貝次第。法螺貝が鳴ったら

*19:然るべき配置

*20:駈け集まり

*21:走り廻る。奮戦する

*22:夜討ちの衆を撃ち止め

*23:廉

*24:褒美

*25:成敗

*26:ç­‹ç­‹

*27:顕密。少しでも

*28:無沙汰。怠けること

*29:隠れ

*30:弓・槍・鉄炮。「てつはう」を「TETSUHAU」と読むのは誤り

*31:持ち

*32:道具。武器

*33:棒

*34:罷り出で

*35:武蔵国比企郡奈良梨村、上図参照

*36:竹槍でB-29を撃墜できると思っていた極東の住民に指摘されたくないと思うが