日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年2月徳川家康「小田原陣ノ御軍法」写

 

本文書は13ヶ条からなる軍律で、原本は未発見だが写が浅野家文書に伝わっているほか「家忠日記追加」などの記録類にもほぼ同文の箇条が書き写されており、「東照宮御実紀」(徳川実紀)にも軍令が下されたとあることから、この軍律が小田原攻めにおいて発せられたことは確かであろう*1。これまで採り上げた禁制は郷村や寺社に「保護を約束」したものであるが、この軍令・軍法・軍律*2は家康から末端の兵士に充てて発せられたものである。

 

従来は掠奪の客体である郷村や寺社に「安全の保障」を約束する*3「消極的な」対応に留まっていたのに対して、軍律の発令は掠奪の主体たる兵士に禁止行為を周知徹底させるという「積極的」対応に切り替えたことを意味し、かつ詳細である点注目に値する。長文を厭わず全文を引用してみよう。

 

中近世移行期の軍律について谷口眞子氏は次のように指摘する。

 

 

 

掠奪自体は古今東西の戦争において普遍的に見られるものだが、戦争の目的や軍隊規律、兵站の充実度によってその程度は異なる。近世初期にかけて軍隊の規律は重要視されていくが、規律には、足軽隊の訓練や軍隊の命令遵守など軍隊組織内部にかかわる規律と、社会に対する軍隊全体の規律がある。前者は軍隊を統制し、効率的に作戦行動を遂行しようとする意図が表れたものであり、後者は在地社会からの掠奪を禁止するもので、前述した制札*4も含まれる。

 

谷口眞子「移行期戦争論」(『戦争と平和の中近世史』179頁、青木書店、2001年。下線は引用者)

 

 

軍律には①戦争に勝利するため兵卒の練度を高めたり、命令系統を明確にする軍隊内部の規律と②社会から「正当な」軍隊と認められるための規律の二つの要素から成り立っていた。

 

戦争に勝利することはもちろん(①)、社会的に「認知」されうる「権力」であることも求められた(②)のである。マックス・ウェーバー流にいえば「合法的に独占された暴力装置」としての軍隊である。

 

自力救済の世界では合法的な、あるいは正当な「暴力」を様々な集団が行使していた。秀吉はそれら自力の行使を「私戦」として禁じ、「正当な」暴力行使を独占しようとした。惣無事政策とはそのような限定的な意味においての「豊臣の平和」を目指したものに過ぎない。

 

 

なお本ブログでは「戦闘」や「合戦」(batlle)、あるいは「変」、「乱」、「役」、「事件」などと呼ばれたものもすべて「戦争」(war)と呼ぶ。局地的にしろ広域的であるにしろ、あるいは短時間で決するものにしても、長期間に及ぶものでも軍事行動が人々に惨禍をもたらす点で実態は同じだからである。その点は当時の人々にとっても同意できるであろう*5。以下、基本的に戦争がもたらす惨禍、日常生活の破壊、あるいはそこにつけ込む「死の商人」の暗躍を「戦争」のなかに見出すことを目的とする。軍隊の後方から「人商人」と呼ばれる奴隷商人が付いて来たことを、後の「唐入」のさい従軍した真宗の僧侶慶念が「朝鮮日〻記」に記したように*6、戦場には漁夫の利を得んとする商人たちが多数蠢いていた。

 

ところで兵站とは何か。辞書的には「戦闘部隊の後方にあって、人員・兵器・食料などの整備・補給・修理などにあたり、また、後方連絡線の確保などにあたる機能、機関」*7とある。端的に言えば「腹が減っては軍は出来ぬ」の喩え通りであるが、これのもとになった俳諧「ひだるき(飢え)は殊に軍(いくさ)の大事なり」はこの時期から1世紀のちの1694年に成立した。しかし1603年長崎で刊行された「日葡辞書」には「兵粮」が立項され「兵士の食糧」とある*8。これが兵站を意味する当時の言葉であることは間違いなく、したがって兵站の概念はすでにこの時期存在していたことが確認できる。

 

これらの諸点から戦場とはヒト・モノ・カネなどが大量に集散する場であり、様々な取り引きが行われうる場であったことを再確認しておきたい。

 

やや前置きが長くなったが、本文を見てみよう。

 

 

 

(端裏書)

「天正十八年小田原陣之節家康公秀吉公御軍法写」

 

   小田原陣ノ御軍法

 

一①、無下知して、先手*9を指置、物見を遣す儀可為曲事、

 

一②、先手を指越*10、令高名と云共、背軍法之上ハ、妻子以下悉可成敗事、

 

一③、無子細而、他之備へ相交輩在之者、武具馬共二取之、若其主人及異儀者、其*11以可為曲事、但於用所者、打よけて可通事、

 

一④、人数押*12時、脇道すへからさる由、兼而*13堅可申付、若妄二於通者、其者主人可為曲事、

 

一⑤、諸奉行人之指図*14を令違背者可為曲事、

 

一⑥、為時*15使差遣人ノ申旨、少モ不可違背事、

 

一⑦、人数押時、小旗・鉄炮・弓・鑓、次第*16を定め、奉行相添て可押、若妄二押者可為曲事、

 

一⑧、持鑓*17ハ軍役*18之外たる間長柄*19を指置、持する事堅く停止、但長柄之外令持者、主人馬廻*20ニ可為一丁事、

 

一⑨、於陣取、馬取放ス儀、可為曲事、

 

一⑩、小荷駄押事、兼而可相触催条、軍勢ニ不相交様ニ堅く可申付、若猥二軍勢二相交者、其者を可成敗事、

 

一⑪、無下知而男女不可乱取、若取之陣屋二隠置者、急度其者主可改之、自然自他相聞、其者欠落セハ、主人之知行可没収*21事、付敵地之家*22無下知而先手之者不可放火事、

 

一⑫、諸商売押売狼藉堅く令停止、若於違背之族者、則可成敗事、

 

 

一⑬、無下知而於令陣払者、可為曲事、

 

右条〻於違背者、日本国中大小神祇照覧あれ*23、無用捨可令成敗者也、仍如件、

 

    天正十八年二月吉日*24     家康 御判*25

 

 御家中*26組頭*27物頭*28衆へ一通つゝ被下候也*29、

 

 (以下ともに書き写されている秀吉の禁制は略)

 

(『大日本古文書 浅野家文書』41~43頁。下線と番号は引用者)
 
(書き下し文)
 
 

「天正十八年小田原陣の節家康公・秀吉公御軍法の写」

 

   小田原陣の御軍法

 

一①、下知なくして、先手を指し置き、物見を遣す儀曲事たるべし、

 

一②、先手を指し越し、高名せしむるというとも、軍法に背くの上は、妻子以下ことごとく成敗すべきこと、

 

一③、子細なくして、他の備えへ相交る輩これあらば、武具・馬ともにこれを取り、もしその主人異儀に及ばば、ともにもって曲事たるべし、ただし用所においては、打ち除けて通るべきこと、

 

一④、人数押す時、脇道すべからざる由、かねて堅く申し付くべし、もしみだりに通すにおいては、その者の主人曲事たるべし、

 

一⑤、諸奉行人の指図を違背せしめば曲事たるべし、

 

一⑥、時の使いとして差し遣わす人の申す旨、すこしも違背すべからざること、

 

一⑦、人数押す時、小旗・鉄炮・弓・鑓、次第を定め、奉行相添えて押すべし、もしみだりに押さば曲事たるべし、

 

一⑧、持鑓は軍役の外たるあいだ長柄を指し置き、もたすること堅く停止、ただし長柄のほか持たせしむる者、主人馬廻に一丁たるべきこと、

 

一⑨、陣取において、馬取り放す儀、曲事たるべし、

 

一⑩、小荷駄押すこと、かねて相触れ催すべき条、軍勢に相交わらざる様に堅く申し付くべし、もしみだりに軍勢に相交わらば、その者を成敗すべきこと、

 

一⑪、下知なくして男女乱取すべからず、もしこれを取り陣屋に隠くし置かば、急度その者の主これを改むべし、自然他より相聞こえ、その者欠落せば、主人の知行没収すべきこと、つけたり敵地の家下知なくして先手の者放火すべからざること、

 

一⑫、諸商売・押売狼藉堅く停止せしむ、もし違背の族においては、すなわち成敗すべきこと、

 

 

一⑬、下知なくして陣払せしむるにおいては曲事たるべし、

 

右条〻違背においては、日本国中大小神祇照覧あれ、用捨なく成敗せしむべき者なり、よってくだんのごとし、

 

    天正十八年二月吉日    家康 御判

 

 御家中・組頭・物頭衆へ一通ずつ下され候なり、

 
(大意)
 

「天正十八年小田原陣の際に家康公・秀吉公から下された御軍法の写」

 

   小田原陣の御軍法

 

一①、下知なく、先手を蔑ろにして、物見を遣すことは曲事とする。

 

一②、先手を追い越し、高名を馳せたとしても、軍法に背いた上は、妻子その他親族まで連座させ成敗する。

 

一③、事情なく、他の部隊へ出歩く輩があれば、武具・馬ともにこれを没収し、もしその者の主人が異儀に及べば、主従ともに曲事とする。ただし所用があって他の部隊へ出かける者は、脇を通ること。

 

一④、軍勢が総攻撃する時、脇道してはならないとあらかじめきつく命じておくこと。もしみだりに通るようなことがあれば、その者の主人の曲事とする。

 

一⑤、諸奉行人の命令に違反することがあれば曲事とする。

 

一⑥、臨時の使いとして差し遣わした者が申したことに、すこしも違反しないこと。

 

一⑦、軍勢が総攻撃する時、小旗・鉄炮・弓・鑓の順序を定め、奉行とともに前進すること。もしみだりに前進すれば曲事とする。

 

一⑧、持鑓は負担すべき軍役ではないので長い柄の鑓を放り出して、短い持鑓を持たせることは堅く禁ずる。ただし長柄のほかに持鑓を持たせる者は主人の馬廻に一丁とする。

 

一⑨、陣を設営する際、馬の手綱を放すことは曲事である。

 

一⑩、小荷駄を押す者たちにあらかじめ周知すべきことは、軍勢と交戦しないようにと堅く命じておくように。もしみだりに軍勢と交戦することがあれば、その者は成敗する。

 

一⑪、下知なく男女を乱取してはならない。もし下知なく乱取を行い、男女を陣屋に隠し置くようなことがあれば、必ずその者の主人は調査するように。万一よそから噂が立ち、その者が欠落するようなことがあれば、その主人の知行地を没収する。つけたり敵地の家下知なく先手の者が放火してはならない。

 

一⑫、諸商売・押売狼藉は堅く禁ずる。もしこれに背く者はすぐさま成敗すること。

 

 

一⑬、下知なく陣払いすることは曲事である。

 

右の条々に背く者は日本国中大小神祇よご覧下さい、用捨なく成敗するものである。以上。

 

    天正十八年二月吉日    家康 御判

 

 御家中・組頭・物頭衆へ一通ずつ下された文書の写である。

 

 

 

 

①から⑧、⑩、⑬はおおむね命令系統を明確にする軍隊内部の規律といえる。これを見ると足軽や雑兵など末端の兵士を統率することが如何に難しかったかがうかがえる。⑬のように勝手に陣払をする者の心配をせねばならないということは、そうした行為がしばしば見られたからであろう。

 

⑨は暴れ馬が周辺の郷村に被害を及ぼすことのないよう配慮した箇条といえ、社会的な規律に分類できる。

 

⑪は「下知なくして」男女を乱取することを禁じたものである。素直に読めば「下知が下れば」乱取してもよいということになる。「戦争に勝利したあとなら構わない」といったところだろうか。

 
⑫については市場で出される制札と同じ文言である。18世紀の初めまで「押売押買」の禁止令が度々出されたように、市場では武力をちらつかせて「不当に安く買う」押買や「不当な高値で売りつける」押売が日常的に行われていた。「日葡辞書」にも「押買」が立項されていて「無理に売り手の意志に反して物を買い取ること」とあることから、日常的に行われていたと思われる。古代では威力を持って行う売買を「強市」(ゴウシ)といい、これに対して合意の上で売買することを「和市」(ワシ)といった*30。「迎買」といって市に出向く商人を待ち伏せて押買する者もいた。古代・中世の市場(市庭)は「見えざる手」(invisible)どころか目に物見せる(visible)暴力がものをいう場であったのだ。
 
なぜこのような市に出すべき文言が軍律に記されているのだろう。それは先述したように戦場がヒト・モノ・カネなどが大量に集散する場であることと無関係ではない。大量の兵士の欲求を充足することは勝利するために必要欠くべからざる条件である。合戦図屏風の隅には酒を売る者と戦線を離脱して酒を買い求める兵士の姿が描かれている。そういった商売の一大チャンスでもあったのだ。また先述の「朝鮮日々記」に見られるように隊列に商人が加わっていた可能性も否定できない。
 
 
 
後に採り上げるが、4月9日付小早川隆景充の朱印状写には「京都より女ども罷り下るべく候」*31と遊女を小田原に呼び寄せている。前年秀吉はそれまで営業場所を自由に選べた遊女たちを二条柳町に集め管理下に置いた。「公娼制度」のはじまりである。その遊女たちを呼び寄せたのだろう。公娼制度も兵士の士気を高める「欲求を充たす」ための兵站だったのかもしれない。
 

 

*1:関ヶ原直前にも同文の軍律が出されたと記録するものもある

*2:以下「軍律」で統一する

*3:しばしば反故にされた

*4:軍勢による掠奪を禁止した制札・禁制ー引用者

*5:2022年2月ロシアはウクライナ領土に対し「非ナチ化を目的とする特別軍事作戦」を遂行したとし「戦争」でないと強調した。しかしその実態は戦争以外の何ものでもない。「征伐」、「反乱」などいった一方の立場に立った表現も改める必要がある

*6:慶長2年11月19日条「日本よりもよろつのあき人もきたりしなかに、人あきないせる物来り、奥陣ヨリあとにつきあるき、男女老若かい取て、なわにてくひをくゝりあつめ」

*7:『日本国語大辞典』

*8:例文として「兵粮に詰まる」=食糧が欠乏する、「兵粮が尽くる」=食糧がなくなる、「兵粮を籠むる」=備蓄用の食糧を城内に入れるが挙げられている

*9:さきて、本陣より前に位置する部隊

*10:手順を踏まないで

*11:共カ

*12:軍勢を進めて攻撃する

*13:かねて。あらかじめ

*14:「下知」は主従関係にある場合、「指図」は指揮命令系統にある場合で使い分けているのかは、今後の課題とする

*15:臨時の、一時の

*16:順序、手続き

*17:大将の印として持つ短い鑓

*18:石高などの分限に応じて負担すべき人数や武器の数

*19:柄の長い鑓

*20:大将の周囲

*21:モッシュウ

*22:これに対して「味方の地」という表現も見られる

*23:神仏に嘘偽りがないことを誓う文言。「神仏よ、ご覧になってください」くらいの意味

*24:「家忠日記追加」は2日に発せられたとする。そうだとすればグレゴリオ暦1590年3月7日、ユリウス暦同年2月25日

*25:「判」とあるので花押が据えられていたのだろう。「朱印」や「黒印」なら「御朱印/御黒印」などと書き写すはず

*26:大名の家臣全体

*27:軍事組織を「組」に分けた際の頭

*28:足軽大将のこと

*29:「家中-組頭-物頭」という指揮命令系統を設けたらしい

*30:「和(あまな)い市(か)う」の意味。その後「和市」は売買価格、相場を意味するようになる

*31:3023号