日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

元亀2年4月20日庄康正宛北条家朱印状写

 

今回は太閤検地のもっとも重要な論点のひとつ、すなわち小農自立の歴史的前提となる奴隷的存在の譜代下人の実態を示す「泉郷百姓窪田十郎左衛門者欠落之事」との事書を持つ文書を採り上げる。本文書は一般向けの歴史書である安良城盛昭『太閤検地と石高制』*1や佐々木潤之介編『日本民衆の歴史3』*2所収の藤木久志「戦国大名と百姓」でも紹介されているのでご存じの方も多いと思われる。

 

 

 

 

   泉郷*3①百姓窪田十郎左衛門者欠落之事

 

卯年*4欠落、豆州みろく寺*5ニ有之、

  壱人女梅②同子壱人

 

午*6八月欠落、同所有之、

  壱人女乙

 

午*7六月欠落、武州符中*8ニ有之、

  壱人丹

 

巳*9九月欠落、豆州狩野内立野*10ニ有之、

  壱人③善三郎親子三人

 

   以上七人

 

右、欠落之百姓、縦雖為不入之地*11、④他人之者拘置儀為曲事間、任国法*12、領主・代官*13ニ申断、急度可召返者也、仍如件、

 

   辛未

    卯月廿日*14 (虎朱印)            奉之*15

                          江雪*16

 

      庄新四*17殿

(『戦国遺文 後北条氏編』第2巻、181頁、1477号文書)

 

 

(書き下し文)

 

   泉郷①百姓窪田十郎左衛門の者欠落のこと

 

卯年欠落、豆州みろく寺にこれあり、

  壱人女梅②同子壱人

 

午八月欠落、同所にこれあり、

  壱人女乙

 

午六月欠落、武州府中にこれあり、

  壱人丹

 

巳九月欠落、豆州狩野の内立野にこれあり、

  壱人③善三郎親子三人

 

   以上七人

 

右、欠落の百姓、たとい不入の地たるといえども、④他人の者拘え置く儀曲事たるの間、国法に任せ、領主・代官に申し断わり、きっと召し返すべきものなり、よってくだんのごとし、

 

(大意)

 

 

  泉郷①百姓窪田十郎左衛門の者が欠落した件について

 

永禄10年に逃亡し、現在は伊豆弥勒寺に身を寄せる

 ひとり女梅と②その子ひとり

 

永禄13年8月に逃亡し、同じく弥勒寺に身を寄せる

 ひとり女乙

 

永禄13年6月に逃亡し、武蔵国府中に身を寄せる

 ひとり丹

 

永禄12年9月に逃亡し、伊豆国狩野郡立野に身を寄せる

 ひとり③善三郎親子3人

 

  合計7人

 

右の欠落した百姓たちについて、たとえ不入の地であっても④「他人の者」を抱え置くことは曲事であるので国法通り、逃亡先の領主または代官に断った上で必ず召し返すこと。以上。

 

 

図1. 「泉郷百姓窪田十郎左衛門の者」欠落先関係図

                    GoogleMapより作成


本文書から読み取れるのは同じく「百姓」といっても窪田十郎左衛門のように名字を持つ者と下線部①のように「窪田十郎左衛門の者」と彼の所有物扱いされる7名の百姓に分かれていたということである。所有物扱いされている点は④「他人の者」という表現にも表れている。また②、③から彼らが家族を持っていたことも明らかである。簡単に図示すると図2のような構造になる。

 

図2. 窪田十郎左衛門と「その者」たち

 

窪田家を構成するのは善三郎親子3名などの「譜代下人」の家族を複数抱えた複合大家族である。彼ら彼女ら下人が自立した経営を営んでいたのか、それとも窪田のもとで大経営に従事していたのかは本文書のみでは分からない。しかし家族を持っていたとしても、下人らは窪田の家族に包摂される存在だった。さらにいえば種籾、農具や畜力など耕作するにも窪田に依存せざるを得なかったと思われる。先走るが、この所有物、つまり奴隷的存在の「下人」こそが近世の単婚小家族の小農として自立していくのである。

 

欠落関連の文書をもう一点引用しておく。

 

 

   従八幡郷*18欠落之者可召返事

 

伊東*19之鎌田ニ有之、

   甚四郎親子共三人

小鍋嶋*20ニ有之、

   小三郎妻子共ニ五人

江戸*21ニ有之、

   二郎三郎親子共五人

河越*22ニ有之、

   鳥若

四屋*23ニ有之、

   とね

   甚房

藤沢*24ニ有之、

   弥六

鎌倉*25ニ有之、

   くら

川村*26ニ有之、

   善三郎

吉沢*27ニ有之、

   房

小田原*28二有之、

   ほうたい

伊豆田中*29ニ有之、

   いぬ親子二人

 以上廿壱*30人

右、為国法間、領主・代官ニ相断、急度可召返、若致難渋者有之者、注交名、可遂披露者也、仍如件、

 

  癸酉

   三月六日*31 (虎朱印)

 

     安藤源左衛門尉殿*32

 

(同上、230頁、1639号文書)
 

 

こちらは先の事例とは異なり一郷村から23名もの百姓が欠落したことを示す文書である。一斉に逃亡した(逃散)というより散発的個別的に欠落していったのであろうか、単身者もしくは単婚小家族が欠落先ごとに記されている。彼ら彼女らは窪田のように名字を持つわけでもなく、複合大家族を営んでいたわけでもない。

 

こうした単婚小家族が小農経営の担い手となっていくわけで、それは同時に窪田のような複合大家族の解体→単婚小家族化を促す。これが中世と近世を分かつ小農自立の道筋である。

 

太閤検地論争において中世社会に奴隷的存在が多数見られることには合意を得ているが、それでは中世が安良城のいうように家父長的奴隷制社会であるかどうかはまた別に検討を要する問題である。

 

*1:NHKブックス、1969年

*2:三省堂、1974年

*3:駿河国駿東郡、下図1参照

*4:永禄10年、1567

*5:伊豆国未詳

*6:永禄13年、1570

*7:永禄13年、1570

*8:武蔵国多摩郡府中、下図1参照

*9:永禄12年、1569

*10:伊豆国田方郡、下図1参照

*11:守護から守護使が立ち入らない特権を与えられた土地

*12:北条氏領国内の大法。「分国法」のように必ずしも成文法であるわけではない

*13:領主は戦国大名から封土を与えられている者、代官は戦国大名直轄領を支配する者

*14:元亀2年4月、ユリウス暦1571年5月13日

*15:この朱印状は板部岡江雪斎が奉者として承った

*16:板部岡融成、北条氏評定頭。「小田原評定」の語源となる評定

*17:郎脱、泉郷内に「同心給」をもつ領主

*18:駿河国駿東郡

*19:伊豆国賀茂郡

*20:相模国中郡

*21:武蔵国豊嶋郡

*22:武蔵国入間郡

*23:武蔵国多摩郡

*24:相模国東郡

*25:同上

*26:相模国西郡

*27:相模国中郡

*28:相模国西郡

*29:田方郡

*30:「三」の誤りカ

*31:元亀4年、ユリウス暦1573年4月7日

*32:清広、北条氏の馬廻衆

天正18年4月27日上杉景勝宛豊臣秀吉朱印状

 

 

其面之儀*1、利家*2相越、具申通被聞召候、此中無由断由尤被思召候、仍国〻地下人百姓等、小田原町中之外、悉還住事被仰付候条、可成其意候、然処人を商買仕候由候*3、言悟*4道断、無是非次第候、云売者云買者、共以罪科不軽候、所詮*5買置たる輩、早〻本在所へ可返付候、於自今以後、堅被停止之間、下〻*6厳重ニ可申付候也、

 

   卯月廿七日*7 (朱印)

   

     羽柴越後宰相中将*8

            とのへ

 

(四、3040号)
 
(書き下し文)
 

そのおもての儀、利家相越し、つぶさに申し通し聞し召され候、このうち由断なきよしもっともに思し召され候、よって国〻地下人百姓ら、小田原町中のほか、ことごとく還住のこと仰せ付けられ候条、その意をなすべく候、しかるところ人を商買仕り候よしに候、言悟道断、是非なき次第に候、売る者といい買う者といい、ともにもって罪科軽からず候、所詮買い置きたる輩、早〻本在所へ返付すべく候、自今以後において、かたく停止せらるの間、下〻厳重に申し付くべく候也、

 

 
(大意)
 
松井田城の戦況について、利家が小田原に参り詳しく報告したのを聞いた。油断なく行動しているようで実にもっともなことである。よって諸国の地下人や百姓たちを小田原町中のほかすべて還住するように命じたので、上野でも同様にするように。しかるに人を売買する者もいると聞くが、言語道断で許しがたいことである。売る者といい買う者といいともにその罪は軽くない。結局買った者の責任でもとの在所へ返すように。今後人身売買はかたく禁じるので下々の者まで周知させるように。
 
 

 

 

この文書を見て思い起こされるのは天正15年6月18日の日付を持ついわゆる「キリシタン禁教令」の次の一つ書である。

 

 

 

一、大唐・南蛮・高麗へ日本仁を売り遣わし候こと曲事たるべし、つけたり日本においては人の売買停止のこと、

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

「つけたり」については「ついては」と読む解釈もあるが、ここでは「つけたり」と読んでおく。

 

この文書が実際に発せられたかどうかは疑問も残るが、『日本西教史』によれば秀吉が宣教師たちにこう詰問したことが記されている。

 

 

第五はポルトガル人をして日本の人民を買い、これをインド*9に送遣せしめたるはこれ何人の許可に出でたるやとの責問なり

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

この二点の史料からは、ポルトガル商人が日本人を他国に売買することを禁じたのであって、人身売買一般を禁じたものとまではいえない。「禁教令」の「つけたり」もポルトガル商人が人身売買を日本で行うことを禁じたものと解釈できる。要するに秀吉の「人身売買禁止令」は労働力や兵士となる戦力の国外流出を防ぐ目的で出されたと見るのが妥当であろう。

 

以上の点から本文書も次のように解釈しておく。

 

第一に、刀狩令や八幡(海賊)禁止令のように各大名らに一斉に発出せず、上杉景勝に充てた朱印状でのみ触れていることから「人身売買禁止令」と呼ぶべきものではなく個別的に発せられたものと見るべきである。

 

第二に、文脈的に百姓の還住政策を行う中の条文であることである。「ことごとく還住のこと仰せ付けられ候条」ではじまり、「早〻本在所へ返付すべく候」で結んでいるように、戦争により荒廃した田畠を急ぎ再開墾する必要があり、労働力を確保するため戦乱を逃れた百姓らを還住させねばならなかった。そうした混乱に乗じて人身売買を行うのは秀吉の還住政策に反する。そうした限定的な文脈における人身売買の禁止だったのではないだろうか。

 

第三に「人商人」、「人勾引」といった用語を用いていない点も気になる。

 

翌々日の29日付の真田昌幸宛朱印状に「東国の習いに女童をとらへ売買仕り族そうらわば」とある。こちらも「在〻所〻土民・百性ども還住の儀仰せ出され候」からはじまり「早〻本在所へ返し置くべく候」で結んでおり*10、還住政策の一環として発せられたものである。これをもって人勾引による人身売買を「東国のみの習慣」と見るのは早計であろう。永正15年(1518)成立の歌謡集「閑吟集」には「人買ひ舟は沖を漕ぐ とても売らるる身を ただ静かに漕げよ 船頭殿」という歌が見られ、「日葡辞書」*11にも以下の語彙が立項されている。

 

  • ヒトアキビト(人商人)=「人身売買の取引をする商人」

 

  • ヒトカイブネ(人買船)=「奴隷、すなわち、買い取った人間を運ぶ船」

 

  • ヒトカドイ(人勾引)=「人を呼び寄せて、だましたり、さらったりしてその人を連れて行く者」

 

 

注意すべきはこれらはポルトガル船来航以前からの語彙で、こうした行為を行っていたのは日本人だったことである。「山椒大夫」などの説話物語でも人身売買が主題となっており、列島全体で行われていたことは周知のことに属する。人身売買が大航海時代の到来によってグローバルな展開を見せたのは事実であるが、それは日本でも人身売買が行われていたからこその出来事であることを見逃してはならない。長崎などの奴隷積み出し港はこうした国内的構造と対外的契機の結節点として成立したのであって、南蛮貿易が盛んになったから日本でも突然人身売買が行われるようになったというわけではない。これらをまとめると図1のようになる。

 

図1. 人身売買ルート

 

 

奴隷の供給源や再生産構造について詳細を述べる余裕はないが、おもに共同体内部からは債務奴隷として、共同体外部からは奴隷狩りや戦争奴隷として発生するものと考えてよい。奴隷に婚姻が許される場合は子孫も「譜代」として原則奴隷となる。

 

しかも20世紀まで人身売買は公然と行われていた。昭和恐慌の農村踏査報告を行った猪俣津南雄『窮乏の農村』(岩波文庫)には「娘の身売り」という文言が頻出するが、内務省検閲官はこれらを伏せ字にすることすらなかった。脱法的な、あらゆる形での人身売買が違法とされるのは1955年の最高裁「前借金無効」判決を待たねばならない。

 

人身売買が身近な存在だったことは野口雨情が100年ほど前の1924年に発表した童謡「人買船」からも容易に推察される。むろん現代でも人身売買が深刻な問題であることに変わりはない。

 

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最後に太閤検地=小農自立政策論と「人身売買禁止」政策が整合的だったことから、両者が安易に結びつき、「人身売買禁止」政策として解釈されるようになったのではないかという疑念を述べておく。太閤検地論争において安良城盛昭は有名な中世=家父長的奴隷制社会、近世=農奴制社会というテーゼを提示し、「一地一作人」など奴隷的存在だった譜代下人ら「現実に耕作する者」を検地帳の名請人とし、中世の奴隷制社会を否定したと主張した。こうした文脈において秀吉が人身売買を禁じたという議論は説得的である。ただ個別に史料を読んでいくとやはり特殊的事情を捨象することには慎重でありたい。したがって本文書をもって秀吉が人身売買一般を禁じたとするには再考の余地があると考える。

 

 

天正14年3月15日鉢形城主北条氏邦は武蔵国棒沢郡荒川郷の持田四郎左衛門・同源三郎宛朱印状で「人の売り買い一円致すまじく候、もし売買いたすについては、その郷触口*12をもって、相違なきところを申し上げ、商売致すべきこと」*13と命じている。「一円」は「完全に」という意味であり前半の「一円致すまじく」は全面的に人身売買を禁止しているかのような文面だが、「もし売買致すについては…相違なきところを申し上げ商売いたすべし」と条件が整えば届け出た上で行ってよいと後半で前半部分を否定するかのようなことを述べている。

 

「相違なきところ」とは人身売買する者*14とされる者*15の間に主張の「相違がなければ」という意味で、売買されることを「同意」*16し、「略売」ではないということが明らかな場合という意味だろう。もっとも「同意」といっても親が子に「因果を含める」形で同意させたケースも多かったはずである。

 

次回はこうした譜代下人である伊豆国泉郷「百姓窪田十郎左衛門の者」が欠落した史料を採り上げたい。

 

 

*1:上野国松井田城の戦況

*2:前田

*3:「由」とあるので伝聞による情報であろう。おそらく松井田城付近の出来事を伝え聞いたのではないか

*4:ママ

*5:結局のところ

*6:「下〻」が末端の兵士を指すのか百姓らを指すのかは微妙なところである

*7:天正18年4月、グレゴリオ暦1590年5月30日、ユリウス暦同年同月20日

*8:上杉景勝

*9:アジア一帯のこと

*10:3044号

*11:土井忠生他編訳『邦訳日葡辞書』1980年、岩波書店

*12:注進する者

*13:『埼玉県史 資料編6』648頁、1328号文書

*14:売買する主体

*15:売買される客体=しばしば「言語を解する家畜」に喩えられる

*16:「和誘」と呼んだ

天正18年4月8日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

 

此表様子為可聞届、飛脚付置之由、尤悦被思食候、先書*1如被仰遣、去月廿七日至三枚橋*2被成御着座、翌日ニ山中・韮山*3躰被及御覧、廿九日ニ山中城中納言*4被仰付、即時ニ被責崩、城主松田兵衛大夫*5を始、千余被打捕候、依之箱根・足柄*6、①其外所〻出城数十ヶ所退散候条、付入*7ニ小田原*8ニ押寄、五町十町*9取巻候、一方ハ海手警*10船を寄詰候、三方以多人数取廻、則②堀・土手・塀・柵以下被仰付置候、北条*11首可刎事、不可有幾程候、是猶*12様子者不可気遣候、次③韮山城も付城堀・塀・柵出来候、是又可被干殺*13候、委細長束大蔵大夫*14可申候也、

 

    四月八日*15  朱印

 

      加藤主計頭とのへ*16

(四、3022号)
 
 
(書き下し文)
 
 
この表の様子聞き届くべきため、飛脚付け置くの由、もっともに悦ばしく思し食され候、先書仰せ遣わさるごとく、去る月廿七日三枚橋に至りご着座なされ、翌日に山中・韮山の躰御覧に及ばれ、廿九日に山中城中納言に仰せ付けられ、即時に責め崩され、城主松田兵衛大夫をはじめ、千余打ち捕られ候、これにより箱根・足柄、①そのほか所〻の出城数十ヶ所退散候条、付け入るに小田原に押し寄せ、五町十町取り巻き候、一方は海手警固船を寄せ詰め候、三方は多人数をもって取り廻し、すなわち②堀・土手・塀・柵以下仰せ付け置かれ候、北条の首刎ねるべきこと、いくほどあるべらず候、様子においては気遣いすべからず候、次いで韮山城も③付城・堀・塀・柵出来候、これまた干殺さるべく候、委細長束大蔵大夫申すべく候なり、
 
 
(大意)
 
こちらの戦況を知っておきたいということで飛脚を用意したこと、実に嬉しく思う。先書で述べたとおり3月27日三枚橋に着陣し、翌日山中・韮山両城の様子をうかがい、29日には秀次に山中城を責め落とすよう命じたところすぐさま落城させた。城主の松田康長はじめ、千余名の者を討ち取った。この戦果により①箱根や足柄、そのほかあちらこちらにある出城数十ヶ所も恐れをなして兵士たちが逃亡したので、このまま小田原城へ押し寄せて、あと5~10町のところまでに迫り包囲した。海沿いは警固船が守りを固めており、残る三方は大勢で包囲している。②堀、土手、塀。柵などをつくらせたので氏直の首を刎ねるのも間もなくのことであろう。こちらの戦況を心配するには及ばない。つづいて韮山城にも③付城、堀、塀、柵などを巡らして兵粮攻めにするつもりである。なお詳しくは長束正家が口頭で申す。
 
 

 

図1. 山中城・韮山城・小田原城ほか北条氏領国関係図

        横浜市歴史博物館『特別展 秀吉襲来』図録54頁の図より作成

 

 

本文書においても尊敬の助動詞「被」や「御」が付けられているのは秀吉の行為であるが、一ヶ所だけ「責め崩され」と秀次の行為にも「被」が添えられている。

 

 

清正へ書き送った内容は3月29日に山中城を落とし、城主松田康長はじめ1000名以上を討ち取ったこと。箱根や足柄などの数十ヶ所の出城も兵士たちが逃亡したので、小田原城まで5~10間のところまで迫り、海上を封鎖し、陸上も堀や柵などを巡らした。韮山城も同様なので氏直の首を取るのも間近であろうということである。

 

下線部①から分かるのは出城の存在が戦術上重要な役割を果たしていたということである。軍事史には疎いのでそれ以上は踏み込まないが、北条氏側は各出城からゲリラ戦術を行っていたのだろう。

 

②、③では戦況が有利になるに従い、包囲網を堅固にするため大規模な工事を繰り返している。木材や人足を大量に必要するはずだが、どう確保したのだろうか。

 

ひとつの仮説として禁制を公布した駿河や伊豆など東海道近国の郷村から人足を徴発したことが考えられる。国単位の禁制を大量に発した意図もそこにあったのだろう。「安全保障」*17と引き替えに陣夫役を負担させたということではないだろうか。

 

「干殺し」させることは兵員の損害を最小限度に抑える点では優れているが、堀や柵、塀などを巡らせるために膨大な資材と労働力を必要とする。決して経済的な戦争とは言えず、むしろ浪費的というべきである。それを負担するのは大名でありかつ百姓である。豊臣政権の特徴のひとつに「際限なき軍役」負担が挙げられる所以である。

 

ところで籠城する側からは豊臣軍がどのように見えたのか

 

『雑兵物語』*18では雑兵たちに次のように語らせている。

 

 

 

敵地へは踏み込むと、あんでも*19目に見ゑ、手にひっかゝり次第にひつ*20拾うべい。とにかくに陣中は飢饉だと思うて、喰らわれべい草木の実は云うにや及ばない、根菜に至るまで馬に引っ付けろ。松皮は煮くさらかして、粥にして喰らったもよい。

 

 

 

 

これは籠城している側ではなく、城を攻めている側の状況(「敵地へ踏み込むと」)であり、兵粮を「現地調達」するための心得を説いたものである。

 

中近世移行期は慢性的な飢餓状態にあったが、戦地ではさらに酷かったようである。兵站・輜重はそれほど機能していなかったので、いきおい「現地調達」に走らざるを得ない。商人が出入りしていれば購入することも可能だが、そうでなければ上述のように「視界に入る、手の届く物はすべて拾い」、木の皮を剥がして煮込み「粥」にして食べることで生き残るしか術はなかったのである。

 

 

 

この点は次回松田康長の書状を採り上げて探ってみたい。

 

*1:4月1日付朱印状写、3005号

*2:駿河国駿東郡、下図参照

*3:伊豆国田方郡、下図参照

*4:豊臣秀次

*5:康長

*6:相模国西郡、「西郡」は後北条氏が足柄上下郡を西郡に再編成した

*7:敵に追い討ちをかけて城内に攻め込むこと

*8:相模国西郡

*9:「町」を城下町の「○○町」と解釈できなくもないが、他の文書では小田原城への距離として用いているから、小田原城まであと「5~10町」(545~1090メートル)の距離まで迫ったと読んだ方が適切であろう

*10:固脱カ

*11:氏直

*12:於の誤りカ

*13:兵粮攻め

*14:正家

*15:天正18年、グレゴリオ暦1590年5月11日、ユリウス暦同年同月1日

*16:清正

*17:豊臣軍兵士に掠奪をさせないといった程度の消極的安全保障に過ぎないが

*18:岩波文庫、79頁

*19:何でも

*20:必ず

元和4年11月29日雑賀関戸勝介宛野上原野村孫二郎人身売買証文

 

今回は毛色の変わった文書を採り上げる。大坂落城から3年後の元和4年のものである。

 

 

   定

 

一、我等之子とらと申者六ツノとしより、銀子拾弐匁ニうり渡し御年貢ニ仕候間、如何様共末代*1御つかひ可被成候、若御代官衆*2御給人衆*3又ハいつ方よりもゆか*4と申かけ候ハヽ、我等申わけ*5可仕候、少もかまひ*6無之様に可仕候、若此子走*7候ハヽ人代*8ヲたて可申候、縦天下一同之御徳政行、又ハ如何やうの儀*9御座候共相違有間敷候、仍状如件、

 

  元和四年霜月廿九日*10     のかみ原野村*11

                     孫二郎(略印)

 

    雑賀関戸*12

     勝介様参

 

(『和歌山県史 近世史料三』468頁)
 
(書き下し文)
 
 

   定

 

一、我等の子とらと申す者六ツの歳より、銀子12匁に売り渡し御年貢に仕り候あいだ、いかようとも末代御使いなさるべく候、もし御代官衆・御給人衆または何方よりもゆかと申し懸け候ハヽ、我等申し訳け仕るべく候、すこしも構いこれなきように仕るべく候、もしこの子走り候ハヽ人代を立て申すべく候、たとい天下一同の御徳政行われ、または如何ようの儀御座候とも相違あるまじく候、よって状くだんのごとし、

 

 

(大意)
 
   定
 
一、我が子とらと申す者、6歳の時に銀12匁で貴殿に売り渡し年貢を皆済することができましたので、いかなる種類の労働にも末代まで譜代下人としてお使いください。もし代官や給人たちやそのほかの者たちがとやかく言うような場合は、われわれが弁明に立ち、そなた様に少しも御迷惑にならないように致します。もしとらが欠落したならば代人を立てます。たとえ天下一同の徳政や代替わり、国替えなどがありましてもこの約束を反故にするようなことは致しません。以上です。
 
 
 

 

 

数え年わずか6歳*13の娘を銀12匁で「末代」に「売り渡し」たとあるように人身売買証文であることが明らかである。非熟練労働であろうと6歳の子が即戦力になるわけではないので数年間は養育することになる。売主には「口べらし」になる。

 

また「たとい天下一同の御徳政」云々の文言は徳政担保文言といい、中世後半から近世にかけて常套句となっていた。

 

 

図1. 紀伊国雑賀庄・野上庄周辺図

                    『日本歷史地名大系 和歌山県』より作成

またこの時期の雑賀庄内の各村高は下表の通りで、関戸村が宗教的紐帯の中心をなしていた。

表1. 雑賀庄内各村高

表2. 関戸村人身売買証文一覧

 


上表2によれば日高郡、牟婁郡など紀伊国一国規模で人身売買を行っていたことがわかる。これらの文書は同じ家に伝わっているので、名宛人は同一人物か直系卑属であろう。

 

図3. 紀伊国略図

                     「紀伊国」(『国史大辞典』より作成)

『和歌山県史』は「身分的な奉公契約から債権的な雇傭契約への労働関係の推移をみることができて貴重である」*14と評価する。

 

奉公人請状には次のような付帯条項が記されているのが一般的である*15。

 

  • 奉公人が欠落した場合当方で探し出す。
  • 欠落した者を見つけられなかった場合は代人を出す。
  • 領主の国替えや徳政令が発令されるなど「世直り」のような出来事が起きても異議申し立てをしない。
  • 奉公人が損失を与えた場合すべて弁済する。
  • 奉公人をどのように使役しても構わない。また折檻の上怪我をしても申し分はない。
  • ハンセン病などの病を患っていることが75日以内に判明したら契約を解く。

 

遊女奉公の場合はさらに付帯条項が追加され、請人は無限責任を負っていた。


幕府は以下のように人身売買禁令を発していたが、脱法的な形式を取る者があとを絶たず、新田開発に伴う水害が多発したことで元禄11年には事実上解禁し、その法的慣習は1955年最高裁の前借金無効判決まで続いた。昭和恐慌時の「娘の身売り」は教科書でもおなじみだが、こうした歴史的な背景があったことは踏まえておきたい。

 

表3. 徳川幕府人身売買禁令年表

             牧英正『近世日本の人身売買の系譜』1970年、創文社より作成

 

元和偃武といってもそれはあくまでも「徳川の平和」に過ぎず、普遍的な意味における平和を意味するものではなかった点に注意したい。

 

 

*1:「代々」つまり「譜代」として

*2:紀州徳川家の直轄地を管轄する代官

*3:地方知行を受けている給人、「地頭」とも呼ぶ

*4:「瑜瑕」=珠と瑕。良し悪し。ここでは自分の娘であるとか許嫁であるとか難癖を付けてくること

*5:弁明

*6:構い=差し支え、支障

*7:欠落すること

*8:代わりになる者

*9:代替わりや領主の国替えなど「画期」をなすもの

*10:グレゴリオ暦1619年1月14日、ユリウス暦同年同月4日

*11:紀伊国那賀郡野上庄野原村、下図参照

*12:紀伊国海部郡雑賀庄関戸村、下図参照

*13:満年齢で4~5歳

*14:「解説」1002頁、強調は引用者

*15:『概説古文書学 近世編』299~300頁、1989年、吉川弘文館

天正18年4月4日九鬼島兵粮奉行宛豊臣秀吉朱印状

 

 

 

急度*1被仰出候、

 

一、御兵粮*2つミ*3候舟共*4為迎、梶原弥介*5披遣候、彼者*6申次第、舟共も早〻可出候、於油断者可為曲事事、

 

一、右御兵粮賃*7舟ニもつミ*8、運賃之儀ハ弥介申通可遣之事、

 

一、御兵粮米何方之舟ニても*9可預ケ置*10と申候者*11、九鬼*12為留主居いか程も預り可置*13事、

 

  右旨、委曲*14梶原弥介可申渡候也、

 

   卯月四日*15 (朱印)

 

   九鬼島*16ニ在之御兵粮米

           奉行共かたへ

(四、3014号)
 
(書き下し文)
 

きっと仰せ出され候、

 

一、御兵粮積み候舟ども迎えとして、梶原弥介遣わされ候、彼の者申し次第、舟どもも早〻出だすべく候、油断においては曲事たるべきこと、

 

一、右御兵粮賃舟にも積み、運賃の儀は弥介申す通りこれを遣すべきこと、

 

一、御兵粮米いずかたの舟にても預け置くべしと申しそうらわば、九鬼留主居としていかほども預り置くべきこと、

 

  右の旨、委曲梶原弥介申し渡すべく候なり、

 

 

   九鬼島にこれある御兵粮米奉行ども方へ

 

(大意)
 
関白殿下が以下のことを仰せになった。
 
一、兵粮を積む船の迎えとして梶原弥介を遣わした。梶原が申すように出帆させるように。油断があった場合は曲事とする。
 
一、右の兵粮船に運送賃も積み込み、弥介が申すとおりに船賃を支払うこと。
 
一、兵粮米はどこの船であろうと弥介に託すように彼が申したなら、嘉隆は留主居の責任において何艘でも船を駆り出すこと。
 
右の趣旨、詳しくは梶原弥介が口頭で申す。
 
九鬼島に滞在している兵粮米奉行たちへ

 

 

本文書で「仰せ出され候」、「遣わされ候」のように尊敬の助動詞「被」が添えられている動詞の主語が秀吉で、ない場合は梶原弥介や九鬼嘉隆などである。

 

九鬼島がどこの島を指すのかは不明だが、九鬼嘉隆の本拠とする志摩国鳥羽周辺であろう。あるいは志摩国を「島」と呼ぶ例もあるので*17、九鬼の領国志摩を漠然と指している可能性もある。いずれにしろ伊勢湾に面した志摩は東国への大動脈の起点だった。

 

図1. 志摩国鳥羽周辺図

                 『日本歷史地名大辞典 三重県』より作成

天正17年12月5日船手人数定は表1の通りである。

 

表1. 船手人数

 

横道に逸れるが、石高に比例して軍役を負担するとは具体的にいかなる負担を諸大名が負うことになるのか。知行高を経済力と単純に置き換え、衣食住や武装など必需品と軍役負担の支出合計、予算制約などを図示すれば下図のように負担に耐えきれない大名となんとか耐えうる大名に分かれる。

 

 

図2. 軍役負担と知行高



むろんそうした負担を最終的に負うのは百姓らである。朝鮮出兵前の天正20年(文禄1年)1月豊臣秀次は吉川広家、小早川隆景、浅野長吉らに以下のような朱印状を発した。

 

 

御陣へ召し連れ候百姓の田畠のこと、その郷中として作毛仕りこれを遣わすべし、もし荒れ置くにいたらばその郷中御成敗なさるべき旨のこと、付けたり郷中として作毛ならざる仕合わせこれあるにおいては、かねて奉行へ相理るべきこと

 

(吉川家文書124号)

 

 

従軍させた百姓の田畠を郷中が責任を持って「惣作」*18し、けっして荒廃させることのないよう命じている。貴重な労働力が従軍により奪われるので、その労働力不足を共同体の連帯責任として転嫁したわけである。現実には秀次の不安は的中し、各地で荒廃田が出現することになる。

 

本文に戻ろう。船手が「船頭」を意味するならば、乗組員の総員はこれを大きく上回り、乗組員の総員を意味するなら水軍の規模となる。もちろん秀吉と水軍を率いる諸大名とのあいだに「船手」をめぐる解釈のズレが生じることもありうる。また水軍のうち輜重兵的な役割を担う者もいたはずである。本文書は兵粮米運送を担う輜重兵のような存在を「船手」と呼んだのであろう。

 

 

近代の軍制とは異なり、軍人(serviceman/officer)と民間人(civilian)、武官と文官の区別はなく、また交戦規程もなかったので戦闘員も非戦闘員も戦場に駆り出され、あるいは戦闘に巻き込まれることも少なくなかった。老若男女を問わず武装し、武力行使していた自力救済の時代であるから当然といえば当然である。

 

 

ところで本文書2条によれば、船賃に相当する銭か米などを積み、支払うように命じている。これが船主に利益をもたらすのか、それとも雀の涙ほどのものだったかは明らかでないものの、「対価」らしきものを支払うよう命じている点で「徴発」でないという形を装っていたといえる。もっとも朝鮮出兵時の最初の越冬時に船頭や水主の過半数が病死し、津々浦々から新たな漕ぎ手をかき集めているのでこの姿勢が終始一貫しているわけではない*19。中野等『太閤検地』*20が太閤検地は試行錯誤的に行われたと指摘するように、ある程度の政策基調はあるにしても、常に一貫した姿勢ではなく試行錯誤の連続だったのは軍制でも同じだったろう。

 

 

本文書は兵粮米の輸送を促すため梶原弥介を志摩に派遣したことを示している。それは前線への兵粮米の輸送が滞っていたということであろう。

 

 

 

*1:「必ず」という意味だが、ここでは強調をあらわす言葉でとくに意味はない。「せしむ」に使役の意味がないのと同様語調を整えるため

*2:「兵粮」に「御」が付いているのは秀吉の所有物であることを示す

*3:積

*4:「共」は複数形、「子共」などと同様

*5:秀吉の水軍船手。船頭を「船手頭」、乗組員を「船手」と呼ぶが、船手頭を単に「船手」と呼ぶことも多いのでここでは船頭クラス

*6:梶原弥介

*7:兵粮を運ぶ船賃

*8:積

*9:どこの舟であろうと

*10:人や物を託す、寄託する

*11:「申す」の主語は梶原弥介

*12:嘉隆

*13:「預り置く」の主語は九鬼嘉隆

*14:詳細は

*15:天正18年4月。グレゴリオ暦1590年5月7日、ユリウス暦同年4月27日

*16:志摩国のいずれかの島、下図参照

*17:2834~2835号

*18:共同耕作

*19:文禄2年2月5日島津義久/吉川広家宛秀吉朱印状。六、4406~4407号

*20:中公新書、2019年