浦和県
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浦和県(うらわけん)は、1869年(明治2年)に武蔵国内の旧幕府領・旗本領の管轄のために明治政府によって設置された県。現在の埼玉県の一部、東京都板橋区の全域、北区の岩淵・王子地区、練馬区の一部、豊島区の一部および新宿区のごく一部(下戸塚村)を管轄した。
概要
[編集]1869年(明治2年)1月28日、武蔵知県事・宮原忠英の管轄区域をもって大宮県が設置された。県名は、県庁を足立郡大宮宿(現:埼玉県さいたま市大宮区)に置く予定だったことによるが、実際には暫定的に東京府馬喰町四丁目(現:東京都中央区日本橋馬喰町二丁目の浅草橋南交差点付近[1])の旧代官御用屋敷を県庁とした。東京府(第1次)、韮山県、川越藩などとの管轄区域の交換を経て、主に東京の北西郊外を管轄した。
同年9月29日、県庁を足立郡浦和宿(現:埼玉県さいたま市浦和区高砂三丁目15番1号)に移転し、浦和県に改称した。当時浦和宿が県域内で最も人口が多く賑わいをみせていたのが移転の理由となった。現在も同地に埼玉県庁が所在する。
1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県を経て、同年11月14日(または11月13日)、第1次府県統合により岩槻県および忍県と合併して埼玉県となった。
沿革
[編集]管轄地域
[編集]戸口51,920戸280,530人(府藩県別人員表)。
- 武蔵国
- 豊島郡のうち - 29村(上板橋宿、下板橋宿、前野村、金井窪村、中丸村、長崎村、上赤塚村、上赤塚村成増分、下赤塚村、小豆沢村、神谷村、下村、袋村、八富新田、岩淵本宿町、西台村、徳丸本村、徳丸脇村、赤羽村、稲附村、十条村、志村、四ツ葉村、根葉村、中台村、蓮沼村、王子村、豊島村、下戸塚村)
- 足立郡のうち - 301村(幕府領215村、旗本領47村。現在の埼玉県域のみ)
- 埼玉郡のうち - 293村(幕府領162村、旗本領158村、一橋徳川家領13村、久留里藩領7村、岩槻藩領5村、忍藩領1村、佐倉藩領1村)
- 大里郡のうち - 27村(幕府領7村、旗本領26村、前橋藩領2村)
- 横見郡のうち - 10村(幕府領2村、旗本領9村)
- 比企郡のうち(「旧高旧領取調帳」では既に韮山県と記載されているため詳細は不明)
なお相給が存在するため、村数の合計は一致しない。
現在の地名における県域
[編集]- 埼玉県
- ほとんどが浦和県に属していた自治体
- 一部が浦和県に属していた自治体
- 東京都
- 板橋区
- 板橋、稲荷台、大山金井町、大山東町、大山西町、大山町、加賀、熊野町、幸町、栄町、中板橋、仲宿、仲町、中丸町、氷川町、富士見町、双葉町、本町、大和町のほぼ全域および南町の大半(旧板橋町域)
- 旧上板橋村域 - 大谷口、大谷口上町、大谷口北町、上板橋、小茂根、桜川、東新町、常盤台、徳丸、東山町、南常盤台、向原、弥生町のほぼ全域および中板橋の一部
- 旧志村域 - 相生町、小豆沢、泉町、大原町、坂下、清水町、志村、中台、西台、蓮沼町、蓮根、東坂下、前野町、宮本町、若木のほぼ全域および舟渡四丁目の一部を除く大半、高島平一・九丁目の大半および二丁目の一部(旧・前谷津川以東)、新河岸一丁目の一部
- 旧赤塚村域 - 赤塚、赤塚新町、大門、徳丸、成増、三園、四葉のほぼ全域および高島平一・九丁目の大半および二丁目の一部を除く大半(旧・前谷津川以西)、新河岸一丁目の一部を除く大半
- 旧長崎村域 - 板橋区南町、幸町
歴代知事
[編集]大宮県
[編集]- 1869年(明治2年)2月9日 - 1869年(明治2年)4月9日 : 知県事・宮原忠英(前武蔵知県事、元久美浜代官)
- 1869年(明治2年)4月9日 - 1869年(明治2年)7月17日 : 知県事・間島冬道(前刑法官判事)
- 1869年(明治2年)7月17日 - 1869年(明治2年)7月22日 : 権知事・間島冬道
- 1869年(明治2年)7月22日 - 1869年(明治2年)9月29日 : 知事・間島冬道
浦和県
[編集]- 1869年(明治2年)9月29日 - 1871年(明治4年)11月13日 : 知事・間島冬道(前大宮県知事)
脚注
[編集]- ^ 久松警察署東日本橋交番脇に「郡代屋敷跡」の案内板がある。
- ^ 武蔵国所在ノ韮山県以下ノ管地ヲ交換ス - 国立公文書館デジタルアーカイブ
参考文献
[編集]- 岸清俊 (2003). “職員履歴と達書にみる大宮県の成立とその展開”. 文書館紀要 16: 38-64 .
関連項目
[編集]先代 (武蔵国の一部の 幕府領・旗本領) |
行政区の変遷 1869年 - 1871年 (大宮県→浦和県) |
次代 東京府(豊島郡) 埼玉県(足立郡・埼玉郡) 入間県(大里郡・横見郡) 韮山県(比企郡) |