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宮原忠英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宮原 忠英(みやばら ただひで、1818年文政元年3月) - 1885年明治18年)7月)は、幕末旗本、明治期の官吏大宮県知事。仮名は中務。

略歴

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御徒組頭の河野彦左衛門の子として生まれ、天璋院広敷添番宮崎勝次郎の養子となり宮崎達次郎と名乗った。1860年に家督を継いで天璋院広敷添番となり、まもなく久美浜代官に転じそこで明治維新をむかえる。新政府に恭順を示した後、奈良府判事と大宮県知事をそれぞれ短期間務めるが、その後の足取りは不明である。[1]

『香取郡誌』によれば吉田村(現・匝瑳市吉田)の生まれで、幼名登一郎。上野輪王寺宮右筆として仕えたのち旗本に転じたとある。[2]

履歴

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  • 万延元年10月(1860年) - 天璋院広敷添番
  • 文久3年4月4日(1863年5月21日) - 静寛院宮用達・天璋院用達
  • 元治元年6月4日(1864年7月7日) - 丹後久美浜代官
  • 慶応4年=明治元年
    • 1月14日(1868年2月7日) - 福知山藩士に対し恭順
    • 8月8日(9月23日) - 奈良府判事試補
    • 8月23日(10月8日) - 奈良府権判事
    • 9月17日(11月1日) - 奈良府判事
    • 10月3日(11月16日) - 宮原中務と改名
    • 10月8日(11月21日) - 従五位下
    • 11月10日(12月23日) - 奈良府判事免職、位記返上
  • 明治2年
    • 1月4日(1869年2月14日) - 弁事
    • 1月10日(2月20日) - 徴士・武蔵国知県事
    • 4月9日(5月20日) - 大宮県知事免職

参考文献

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  1. ^ 岸清俊 (2003). “職員履歴と達書にみる大宮県の成立とその展開”. 文書館紀要 16: 38-64. https://monjo.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/129. 
  2. ^ 香取郡誌 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー