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宮内聡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宮内 聡
名前
カタカナ ミヤウチ サトシ
ラテン文字 MIYAUCHI Satoshi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1959-11-26) 1959年11月26日(65歳)
出身地 東京都
身長 175cm
体重 70kg
選手情報
ポジション MF
ユース
1975-1977 日本の旗 帝京高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1978-1988 日本の旗 古河電工 114 (6)
通算 114 (6)
代表歴
1979  日本U-20 0 (0)
1984-1987 日本の旗 日本 20 (0)
監督歴
1989-1998 日本の旗 プリマハム
1997-1999  日本女子
2000-2020 日本の旗 成立学園高校
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

宮内 聡(みやうち さとし、1959年11月26日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、指導者。

略歴

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帝京高校時代は攻撃的MFとしてプレー。1976年の第55回全国高等学校サッカー選手権大会で3位になり優秀選手に選出。1977年早稲田一男金子久らと共に第56回全国高等学校サッカー選手権大会優勝に貢献し優秀選手に選出された。卒業後の1978年に早稲田、金子と共に日本サッカーリーグ1部の古河電気工業(現ジェフユナイテッド市原・千葉)に入部。同年に日本ユース代表に選出され、1979 FIFAワールドユース選手権のメンバーに選ばれたが、試合出場機会は与えられなかった。

所属する古河電工では2年目の1979年からスタメンに定着しリーグ戦第4節の東洋工業(現サンフレッチェ広島F.C)戦で初得点を記録したが古河での練習中に右膝半月板を損傷。手術とリハビリに数年間を費やし、復帰後も後遺症に悩まされるなど、右膝の怪我は宮内の選手生命を左右する物となった。

1983年に2度目の手術から復帰を果たすと守備的MFに転向。それまでの攻撃を組み立てる側から、体を張った守備やタックルで相手の攻撃の芽を摘み取る側へと代わったが、このポジションで才能を開花。1985年には11シーズンぶり2回目となるリーグ優勝。翌年にはアジアクラブ選手権1986の優勝に貢献した。

日本代表としては、1984年9月20日の韓国戦でデビュー。この試合で評価を受けた宮内は森孝慈監督の下で代表メンバーに定着し、翌1985年に行われた1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では西村昭宏と共に中盤の守備を担い、最終予選進出に貢献した。また、1986年アジア競技大会1987年ソウルオリンピック予選など国際Aマッチ20試合に出場した。

しかしながら、10年間で6度に渡った手術後も怪我は完治せず、1987-88シーズンを最後に28歳で現役を引退した。

現役引退後の1988年奥寺康彦が主催したサッカー教室のアシスタントコーチに就任。翌1989年からはこの年から始まった日本女子サッカーリーグ所属のプリマハムFC監督に就任し、10年近くに渡って同クラブの監督を務め女子サッカーの普及にも尽力、1997年から1999年まで日本女子代表の監督を務めた。

2000年から東京都にある成立学園高校サッカー部総監督に就任し全国高校サッカー選手権大会出場に導いている。

2020年ASエルフェン埼玉の代表取締役会長に就任[1]

またサッカー解説者としてもスカイパーフェクTV!のサッカー中継(主にイタリアセリエAUEFAチャンピオンズリーグ)を中心に出演している。

所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1978 古河 22 JSL1部 1 0
1979 10 1 0 0 2 0 12 1
1980 15 3 1 1 0
1981 3 0 1 0 0 0 4 0
1982 4 1 1 0 3 0 8 1
1983 16 2 1 0 1 1 18 3
1984 8 18 1 3 0 5 0 26 1
1985 21 0 0 0 2 0 23 0
1986-87 18 0 5 2 23 2
1987-88 20 0 2 0 3 0 25 0
通算 日本 JSL1部 114 6
総通算 114 6

※1986年度の天皇杯は、古河電工がアジアクラブ選手権1986-87出場のため辞退


JSL東西対抗戦 出場1回(1987年)

表彰

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代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 20試合 0得点(1984-1987)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1984 1 0 0 0 1 0
1985 8 0 7 0 15 0
1986 6 0 5 0 11 0
1987 5 0 4 0 9 0
通算 20 0 16 0 26 0

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1984年09月30日 大韓民国の旗ソウル  韓国 ○2-1 森孝慈 日韓定期戦
2. 1985年02月23日 シンガポールの旗シンガポール  シンガポール ○3-1 ワールドカップ予選
3. 1985年03月21日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  北朝鮮 ○1-0 ワールドカップ予選
4. 1985年04月30日 朝鮮民主主義人民共和国の旗平壌  北朝鮮 △0-0 ワールドカップ予選
5. 1985年06月04日 日本の旗愛知県 名古屋市瑞穂公園陸上競技場  マレーシア ○3-0 キリンカップ
6. 1985年08月11日 日本の旗愛知県 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場  香港 ○3-0 ワールドカップ予選
7. 1985年09月22日 香港の旗香港  香港 ○2-1 ワールドカップ予選
8. 1985年10月26日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  韓国 ●1-2 ワールドカップ予選
9. 1985年11月03日 大韓民国の旗ソウル  韓国 ●0-1 ワールドカップ予選
10. 1986年07月25日 マレーシアの旗クアラルンプール  シリア ○2-1 石井義信 ムルデカ大会
11. 1986年08月01日 マレーシアの旗クアラルンプール  マレーシア ●1-2(延長) ムルデカ大会
12. 1986年09月20日 大韓民国の旗大田  ネパール ○5-0 アジア大会
13. 1986年09月22日 大韓民国の旗大田  イラン ●0-2 アジア大会
14. 1986年09月24日 大韓民国の旗大田  クウェート ●0-2 アジア大会
15. 1986年09月28日 大韓民国の旗大田  バングラデシュ ○4-0 アジア大会
16. 1987年04月08日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  インドネシア ○3-0 オリンピック予選
17. 1987年04月12日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  シンガポール ○1-0 オリンピック予選
18. 1987年06月14日 シンガポールの旗シンガポール  シンガポール ○1-0 オリンピック予選
19. 1987年06月26日 インドネシアの旗インドネシア  インドネシア ○2-1 オリンピック予選
20. 1987年09月18日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  ネパール ○9-0 オリンピック予選

指導歴

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監督成績

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年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 Lリーグ杯 皇后杯
1989 JLSL プリマハム 6位 10 3 0 3 4 - ベスト8
1990 3位 15 15 5 5 5 - ベスト4
1991 3位 18 28 13 2 3 - ベスト4
1992 5位 18 22 9 4 5 - ベスト4
1993 6位 18 - 10 - 8 - 準優勝
1994 L 3位 18 - 12 - 6 - 優勝
1995 優勝 18 - 18 - 0 - ベスト4
1996 準優勝 18 - 16 - 2 準優勝 ベスト4
1997 3位 18 - 15 - 3 優勝 準優勝

脚注

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参考文献

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  • 「THIS IS MY SOCCER LIFE 63」『サッカーダイジェスト』1985年4月号
  • 「28歳でユニフォームを脱いだ名ディフェンシブ・ハーフ」『イレブン』1988年9月号

外部リンク

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