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国頭朝致

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国頭親方朝致(くにがみうぇーかたちょうち、? - 1635年7月27日)は、琉球王国官僚。唐名は向鶴齢(しょう かくれい)を名乗った。元の名乗りは国頭重信(くにがみじゅうしん)[1]

向氏大宜見殿内と称される貴族家系の家祖である。浦添朝師の子、浦添朝利の兄にあたる。1622年三司官に選ばれた[2]

尚豊王1633年、国頭と喜友名親雲上への冊封使として派遣した。国頭はこの際、薩摩による琉球征伐以前と同じく、貢期を3年に2回とすることへの許可を求め、崇禎帝により了承された[3][1][4] 。2年後、国頭は帰路で重病を患い、福建省にて没した[3]

脚注

[編集]
  1. ^ a b "Kunigami Chōchi." Okinawa konpakuto jiten (沖縄コンパクト事典, "Okinawa Compact Encyclopedia").
  2. ^ 中山王府相卿伝職年譜 向祐等著写本”. 2017年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月27日閲覧。
  3. ^ a b 中山王府相卿伝職年譜 向祐等著写本”. 2017年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月27日閲覧。"中山王府相卿伝職年譜 向祐等著写本". Archived from the original on 2017-09-02. Retrieved 2017-06-27.
  4. ^ Chūzan Seifu, vol.8
公職
先代
豊見城盛続
三司官
1622 - 1635
次代
浦添朝利