The Space of Truth

自分なりの考え方等を綴っています。

性格は無理に直す必要ない

よく自分の性格が嫌いで直したいという話を目にしますが、性格はそう簡単に変えられません。


直そうと思って色々努力したとしても長続きしません。


もっと言ってしまえば「その性格、直す必要あるのか?」と思うこともあります。


もしかすると相手はそれほど気にしていないことだってあります。


直したところで折角の長所まで失われ、本来の自分ではなくなってしまうこともあります。


例えば大人しい性格は色々と損だからもっと明るくなった方が良いと言われたとします。


本来の性格が明るい性格だったのであればそれほど努力しなくても本来の自分に戻れるでしょうが、そうでないのであれば簡単には上手く行きません。


頑張って性格を変えたとしても自分の中でどうもしっくり来ない等、何らかの違和感が出てくることもあります。


「前は真面目に仕事していたけど、最近は友達が出来てお喋りするようになってしまい、ミスが出るようになった」等、誰かが何らかのマイナスを感じることもあるかもしれません。


大人しくても「他人の話をよく聞いてくれる」、「真面目に仕事をしてくれる」等、何らかの良い部分はありますのでその長所を伸ばした方が自分らしくいられるのではないでしょうか?


人に指摘されたことをそのまま鵜呑みにするのではなく、自分で「このように対応した方が良いかな?」と思うことがあったらその部分を変えれば良いのでは?と私は思っています。


その中で「明るい性格になりたい」ということもあるでしょうが、いきなりそこを目指すのではなく、普段の行動で「あの人の対応、良いな」と感じたことを取り入れるだけでも十分だと思います。


しかし自分には難しいと感じるのであれば無理に変える必要はなく、そのままで良いのです。

 


また、良い人にならなくても性格が悪くても良いと思っています。


一見、良い人と思われている方は実は気苦労が多く、生きづらさを感じているかもしれません。


上手く吐き出すことが出来ず、ストレスから病気になってしまうことだってあります。


性格も本当に悪ければそのことすら自覚していませんから・・・


一見、完璧そうに見える人であっても裏では何考えているかわからず、腹黒い性格かもしれません。


前に「女子はみんな性格が悪い」という話も目にしたことがありますが、多かれ少なかれどこかしらネガティブな部分は誰しもあります。


誰からも好かれるような完璧な人間、人格者を目指す必要はないのです。


そのようなことをしてしまっては自分が辛くなりますし、かえって本来の自分から遠ざかります。


誰しもどこかネガティブな部分があるからこそ、魅力になることもあります。


一流のパティシエが作ったケーキだって万人が好むとは限りません。


ケーキが大好きな方であっても味の好みがありますし、「もう少し庶民的なケーキの方が好き」とか「自分で作るケーキの方が自分の好みに合わせられて好き」ということだってあります。


完璧な人間、人格者を目指すのではなく、楽に楽しく生きることができるようになれば本来の自分に戻り、より良い面が引き出されるようになってくるのでは?と私は思います。

自分がいなくなって欲しいと思う人は本当にいなくなる?

私も振り返ると子供の頃からそのようなことはあったかもしれません。


私は小学校の頃からすぐ近くに住んでいた子に散々、嫌がらせを受けていたのですが、数年経ち、親が離婚してしまい、その母子は引っ越してしまったのです。


その子の母親も非常に気が強く、私の母も「本当に話の通じない人」と困っていたぐらいだったので引っ越してくれた時は本当に安心しました。

 

職場でもいじめまでは行かなくても不快と思っている人や相性が合わなかったりで出来ればいなくなって欲しいと思っていた人がいつの間にか部署異動や退職してしまったということが何度かありました。

 

 

しかしだからと言って何かワークをしたとか毎晩のように念を送っていたとかそのようなことはありません。


そもそも嫌な人全員がいなくなった訳ではなく、私が辞めても残っていたり、辞めるギリギリで部署異動されたということもあったりしました。


なので一概にいなくなって欲しい人がいなくなる訳ではなく、その環境にマッチしているか?が関係しているのでは?と私は思っています。


一見、上手く行ってそうに見えても環境的に合わない部分があったり、心境の変化があって転職を考えていたり・・・


当然ながらパワハラやいじめをしてくるような人がいた職場は私の方が先に退職を選んでいます。


そもそもパワハラやいじめがある職場は環境自体に問題があり、エネルギー的にも淀んでいるのでそこの空気に合わなければ退職せざるを得ない状況になります。


そのような職場であれば早いうちに退職に追い込まれるぐらいの方が寧ろ良いのかもしれません。

 


嫌な人にいなくなってもらいたいから念を送ると自分に返って来るという話も聞きますが、呪いを掛けるレベルとかでなければ私はあまり信じていません。


その環境にどれぐらいマッチしているか?次第であり、相手の方が仕事や人間関係等、自分以上に何らかがマッチしていなければ相手が先に退職するでしょう。


例えばその辞めて欲しい相手が仕事のミスが多く、周りも手を焼いているぐらいであれば自分関係なしに退職に追い込まれる可能性はあります。


性格面で合わないとかであればその嫌な人がいなくなっても新たに別の嫌な人が入って来ることも結構あります。


逆に自分の方がマッチしていなければ自分が先に退職することになるはずなので念を送ったから自分に返って来たと見えることはあるでしょう。

「多様性」という言葉は色んな発想がある

前に「多様性という言葉をなくします」というCMを見掛けたことがあります。


この言葉を最初に聞いた時、「えっ?」と思ったのですが、その後に「みんな違うのが当たり前の世界にしたい」とのことで素敵な話ではあるけど、そこの理解がある方が寄ってこない限り、難しいと感じます。

 


多様性という言葉は言い換えれば「人それぞれ」等、別の言葉に置き換えることも出来ます。


しかしどんな言葉に置き換えようと排除的な考えがある限り、偏見や差別がなくなることはないでしょう。

 


また、多様性に関する話でこのようなことも見掛けたことがあります。
・多様性を認めないのも多様性
・多様性とは新しい価値観も古い価値観も存在する
・多様性という言葉が都合の良いように使われているからこの言葉が嫌い

 


いずれも言われてみればそうなんですよね・・・


確かに多様性を認めないのは自由と言ったら自由です。


ただこの多様性という言葉がちょっとざっくりに感じるのでもう少し噛み砕くと一般的に少数派的な考え方、価値を否定するのもアリという感じでしょうか?


例えば同性愛もどう思おうと、その考え自体を否定しようと個人の自由です。


しかし当人たちの前で「気持ち悪い」、「普通じゃない」等、全否定したり排除するようなことをしてしまうことがNGなのです。


自分的にはあり得ないけど、そのような考え方もあるというイメージでいれば否定もアリです。

 


多様性という言葉が都合の良いように使われているというのも排除されたくなく、対立心からそうなってしまうのかもしれません。


多数派であろうと少数派であろうと排除されることは悲しいことです。


私の中ではどちらかと言うと多数派の方がそのように思っていることが多いように感じます。


ざっくり言って一般的な常識とかけ離れている考えは排除したいという考えはまだまだ強く、日本だとなおさらかもしれません。


お互いの価値観を認め合えるようになるのが理想ではありますが、排除的な考えがある限り、難しいでしょう。


しかしいずれ昔の非常識、少数派と思っていたことが逆転し、常識、多数派となることはあります。


例えば昔は職を転々とするより一社に勤める方が多数派という感じでしたが、今は逆転しています。


他にも色々な例がありますが、昔の常識は今も常識とは限りませんし、今は少数派な意見であることもいつの間にか多数派の意見になっているかもしれません。


常識という発想が好きではない私としては新しい価値観は視野を広められ、選択肢が増える良いチャンスなのでもっと少数派の価値観を知りたいぐらいです。

「何で?」と聞かれることが不快な理由

「何で?」と聞かれて不快に感じる方はよくいらっしゃるようですが、まさに私もそうです。


理由はたくさんありますが、まず深い理由がない時にそう聞かれると回答に困るからです。


例えば何かを選ぶ際も「なんとなく」という感覚で選ぶことだってあります。


聞く側も特に深い理由がないこともあるでしょうが、本当に理由がなければ「別に深い理由はない」って答えれば良いんですかね???

 

他にも理由を言いたくない・・・本人には言いづらいこともありますし、理由がたくさんあって言えないこともあります。


もっと言ってしまえば元から質問されることが好きではないので「何で?」が口癖な方は正直、苦手です。

 


また、「何で?」という言葉は責められている感覚になってしまうというのも理由の一つです。


聞く側になっても相手を責めているような感覚になりそうで使いたくないのです。


特にちょっと気まずそうな場面の時は禁句ぐらいにした方が良いと私は思っています。


例えば仕事でミスされた際も直に「何で?」とは聞きません。


ミスの理由は大抵、想定内であることがほとんどなので聞くとしたら「何で?」ではなく、「○○だったとか?」等、思い当たりそうなことを聞くようにしています。

 


ちなみに私は「何で?」を使うとしたら他人に向けて使うのではなく、自分の独り言というか、「何で○○なんだろう?」という使い方ならたまにあります。

何か不祥事を起こした際、一方的に誹謗中傷したり、注意するだけでは効果がない

数ヶ月前、芸能界でTwitterで不適切投稿をしたら誹謗中傷が絶えず、被害者側が許すと言っても誹謗中傷が止まらず・・・という話がありましたが、SNSって怖いですね・・・


あの2人が普段、どのような関係かはわかりませんが、当人達以上にコメントしている一般の人達の方が過敏になり、大事にしている感じがしました。

 


この件に限らず言えることですが、私もいじめられっ子なのでいじめっ子タイプとは関わりたくありません。


しかしいじめっ子タイプが何か不祥事を起こし、第三者から誹謗中傷を浴びせられている姿を見るとそこまでしなくても・・・と思ってしまうことがあります。


被害者本人が加害者に暴言を返してしまうのはそれだけ傷付いたからであり、否定はできません。


しかし関係のない第三者が必要以上に暴言で攻撃してしまうのはたとえ正義感から来ていたとしてもいじめっ子と同じです。


正義感は時として悪になることもあり、自粛警察が良い例です。


そもそも誹謗中傷で返しても何も解決になりません。


私は自分をいじめてきた相手を許せるほどの器はありませんが、すべては被害者側が決めることです。


被害者側が「許す」、あるいは「終わりにしたい」と言っているのであればそこで止めないと被害者側はさらに嫌な気持ちになります。

 


何か不祥事を起こした際、当事者と親しい方は「もっとアドバイスしておけば良かった」、「厳しく叱っておきます」という話を聞きますが、このような対応ではハッキリ言って効果はありません。


そもそも人の性格は注意したからと言ってそう簡単には直りませんし、別のアプローチを考えるべきでは?と私は思うのです。


アメリカではいじめ問題が起きた際、加害者側がカウンセリングを受けるようになっているようですが、これは加害者の心身のバランスを取るためのようです。


加害者側は何らかの心の問題を抱え、他者を追い詰めるようなことをしてしまっているのでお説教的なことではなく、心のケアが必要なのです。


また、以前受けたセミナーでもモンスターのような子供がいたが、この子を直そうとか良い子にしよう等と思うのではなく、とにかくハートを開いて接していたら良い子になったという話を聞いたことがありました。


そうなんですよね・・・


矯正させるような態度で接してしまえば相手の心を開くことはできません。


嘘を付くようになったり、距離を置かれたり・・・関係は悪化するでしょう。


もっと言ってしまえばその押し付けがブーメランとなって返って来ることもあるかもしれません。


これは子供に限らず大人にも言えることですが、良くない振る舞いの根本は過去の傷付きから来ています。


アドバイスや叱るぐらいの対応しかできないのであれば距離を置くのが最善だと私は思います。


それは無責任ではないか?と思うかもしれませんが、その当事者には遅かれ早かれいずれ別の理解者が現れるのでその方に任せておけば良いのです。


今まで不祥事を起こしてきた方達を見ていると他に手を差し伸べていただける方が現れ、再起できるよう、道を作っていただけています。


実際にこのような話もあります。

ダルビッシュが先輩・清原へエール。「僕がやれることは何でもします」 - プロ野球 - Number Web - ナンバー

 


もしどうしても友達として何とかしたい等、思うのであれば相手を責めるようなことはせず良き理解者になる、助けを求めて来た時にフォローしてあげるのが本当の意味での友達ではないかと私は思います。


そう考えるとどんなに親しい関係であろうと普段からべたべたではなく、適度に距離を置く方が手を差し伸べやすいのかもしれません。