知ることが生き方を変えるとき(2)~『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』を読む
『荒川放水路物語』に結実することになる放水路の調査・聞き書きをしているときに、絹田は、一人の古老から、関東大震災時に、この放水路の四つ木橋下手で、多くの朝鮮人が虐殺されたこと、その骨は埋もれたままになっていることを聞かされ、そして、「お経でもあげてくれれば供養になるのだが」という言葉も聞くことになった。
絹田は、これを聞き流しておくことができなかった。たいへんなことを聞いてしまったと感じた絹田は何人かの人に相談し、近くのお寺にも頼み、そうして、絹田の思いを知る人たちが集まって、1982年絹田を代表とする「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」(のちに、「~追悼する会」に改称)ができた。殺された朝鮮人の遺骨が河川敷に埋もれたままになっているのではないか、という証言をもとに各方面の許可を得て、同年、その試掘が実際に行われた。遺骨は出てこなかった。(50年は長すぎたのだろう。)しかし、この会は、それにかわって歴史的事実を掘り起こす活動を始めた。その後10年にわたって、当時を知るのべ150人の人々の証言を集めて、その事件の細部を洗い出し、それを一冊の本にまとめた。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』がそれだ。
(朝鮮人虐殺事件の歴史的背景から事件の全容を詳細に調べた姜 徳相・著『関東大震災』中公新書もあわせてよめば、巨きな視点からの理解も深まる。)
さらに、この会は毎年9月、旧四つ木橋の下手で多くの朝鮮人が殺されたという証言にもとづいて、その場所で追悼会も開催するようになった。絹田は、今は病をえて代表を降りたが、その遺志は受け継がれて、その追悼会は今年(9月4日)で23回目を迎える。そのことは、8月27日の僕のブログでふれた通りだ。
絹田は、教師として子どもたちの疑問に真剣に答えようと努力しているときに、図らずも、悲惨な歴史を語る人々と出会ってしまった。そのとき、絹田は、やはりそこでもその真摯な態度を変えることなく、その闇に埋もれた人々を助け出さねばならないと感じたのだった。そんな巨大な歴史に向きあって、自分のできうるすべての力をつむぎだして、今に生きる人間の責任を果たそうとしたのだった。
『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会 1992年刊 2100円)
絹田は、これを聞き流しておくことができなかった。たいへんなことを聞いてしまったと感じた絹田は何人かの人に相談し、近くのお寺にも頼み、そうして、絹田の思いを知る人たちが集まって、1982年絹田を代表とする「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」(のちに、「~追悼する会」に改称)ができた。殺された朝鮮人の遺骨が河川敷に埋もれたままになっているのではないか、という証言をもとに各方面の許可を得て、同年、その試掘が実際に行われた。遺骨は出てこなかった。(50年は長すぎたのだろう。)しかし、この会は、それにかわって歴史的事実を掘り起こす活動を始めた。その後10年にわたって、当時を知るのべ150人の人々の証言を集めて、その事件の細部を洗い出し、それを一冊の本にまとめた。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』がそれだ。
(朝鮮人虐殺事件の歴史的背景から事件の全容を詳細に調べた姜 徳相・著『関東大震災』中公新書もあわせてよめば、巨きな視点からの理解も深まる。)
さらに、この会は毎年9月、旧四つ木橋の下手で多くの朝鮮人が殺されたという証言にもとづいて、その場所で追悼会も開催するようになった。絹田は、今は病をえて代表を降りたが、その遺志は受け継がれて、その追悼会は今年(9月4日)で23回目を迎える。そのことは、8月27日の僕のブログでふれた通りだ。
絹田は、教師として子どもたちの疑問に真剣に答えようと努力しているときに、図らずも、悲惨な歴史を語る人々と出会ってしまった。そのとき、絹田は、やはりそこでもその真摯な態度を変えることなく、その闇に埋もれた人々を助け出さねばならないと感じたのだった。そんな巨大な歴史に向きあって、自分のできうるすべての力をつむぎだして、今に生きる人間の責任を果たそうとしたのだった。
『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会 1992年刊 2100円)
by espritlibre
| 2004-09-01 22:24
| L 絹田幸恵