トランス・サイエンスの時代を読んでみた(後編)

先日の書評エントリの続きhttp://d.hatena.ne.jp/doramao/20120307/1331133987です。



■BSE事件
本書でも、科学コミュニケーションの信頼喪失事例として英国のBSE問題を採り上げ、どのような問題があったのかを分析しています。もうダマ4章との比較に際し、参考となりそうな部分を中心に引用します。

p43より
サウスウッド委員会が活動を開始した時点で、BSEの原因や人間への感染可能性に関して科学はまだ不確実な状況にとどまっていたのである。しかし、現実はすでに先行していた。サウスウッド委員会は、不確実な科学知識をもとに、政府への助言を求められたのであった。

ここのポイントは、まだ不確実な状況に留まっていた事と、不確実な段階で助言を求められていた状況が書かれている事でしょう。

p43より
結局、イギリス農水省は以前から仕事で付き合いのある専門家と有名大学の専門家への相談によって委員会の構成を決めていったのである。サウスウッド氏はオックスフォード大学の動物学の教授である。フィリップス委員会による後年の検証によれば、サウスウッド委員会には当時のBSEに関する最適の専門家がふくまれてはいなかったとされている。そして、そのわりにはこの委員会は「よい仕事」をしたとも記されている。

現実に目にする日本のなんとか委員会を見てもこの構成で良いのかな?などと個人的に思う事もありますが、誰が最も適した専門家であるのか?各専門分野からの割合はどのくらい?などなど考慮しなければならない事は沢山ありますし、声をかけて招集とも成れば自然と知った間柄である事が優先されるのは仕方が無いでしょう。後から見れば何であの人が・・・みたいなのは後知恵的ではあると思います。

p44より
後年、インタビューに答えてサウスウッド氏は「あの時点でもっと厳しい規制を勧告すべきであったかもしれない。しかし、そうすればイギリスのみならず欧州全体の畜産業界に大きな影響を与えると考えてやめた」と述べている。ここには厄介な問題がある。このような委員会に参加する科学者は、自らの責任の範囲をどのように決めればいいのであろうか。純粋に科学的に発言可能なことに限って発言すべきなのであろうか。それとも、具体的な対策に関わることまで発言するべきなのであろうか。後者の場合、必然的に科学的に発言可能なことを越えてしまうであろう。

これは良い悪いと謂う問題では無くて、こうした判断は出てくるモノで、どこまで意識して踏み込んだ発言になるかと謂う問題であることがちょっと考えれば分かりますよね。だって、厳しい勧告にする場合の判断も科学的な話では無いのですから。筆者はつづけてこう述べている。

p44-45より
現実に社会において問題となっている事柄に対して、科学者は往々にして科学の領域を越えた判断をせざるを得ない状況に追い込まれるという、現代社会の特徴を指摘しているのである。このような状況に巻き込まれることは科学者には大変辛いことであろう。
<中略>
後知恵でこのような失敗の事例をあげつらうことは容易である。
<中略>
この種の失敗をすべて科学者の責任にすれば、科学者はこのような問題群からの逃避行動をとるようになるからである。社会における「科学」あるいは「科学知識」の使い方として、これは妥当ではないだろう。

糾弾するだけでは何も解決しません。全くその通りだと思います。そうしてこうした科学叩き的なものも進みすぎれば、若者の理科離れみたいな状況はより進んでもおかしくないと思います。人に嫌われるのが分かっている職業に魅力なんて感じない人も居ることでしょう。科学コミュニケーションとは逆に引きこもってしまうような状況を招くような対応はどちらにとっても望ましくないはずだからね。

p45-46より
報告書をよく読むと「BSEが人間の健康に何らかの影響を与えるとはほとんど考えられない。しかしながら、こういった見積もりの評価が誤っていれば、結果は大変深刻なものとなるであろう。」という留保が書き加えられている。
<中略>
この留保は行政関係者や政治家からは無視され、この報告書を根拠に人々に対して「イギリスの牛は安全である」というキャンペーンが繰り広げられたのであった。
<中略>
フィリップス委員会は、当時のイギリス政府のとった対応が「「牛肉は安全である」というメッセージを国民に発し続け、重要な情報を公表しなかった」こと、「BSEが人間に感染しないというイメージを国民に与えてしまった」ことを批判している。

BSE問題で科学者の判断についての問題に言及するのであれば、政府の責任についてどのような問題があったのかを伝える事が必須だと思いますが、このようにキチンと書かれております。寧ろ、政治的な判断が原因で科学に対する不信が生まれた事例なのだと書かれておりました。ページの都合はあったにせよ、もうダマ4章にこの部分をしっかりと述べた記述があれば印象は大きく異なっていたと思うのですが、どうでしょうか?


■理系・文系
科学コミュニケーションにとって大切なのは相互の理解が進むことであると思います。それを妨げかねないのが分断であるとどらねこは思います。原子力発電所事故のあと、どらねこもネットなどで分断と謂って良いのかは分かりませんが、あちら側こちら側みたいな認識で言及されると謂う事もありました。本書ではそのような分断についてどのように言及しているのでしょうか?

p81より
日本の場合には、科学あるいは技術の問題を語るときに、理系と文系という語り方をすることが多い。科学技術コミュニケーションの問題の場合にも、理系の「専門家」と文系の「素人」という対比が良く出てくる。
しかしまず言っておきたいことは、現代の科学技術というものが理系の専門家だけに任せるには重要すぎる存在になっているということである。したがって、文系と理系というかたちで人々が分断されるという状況があるとすれば、それは現代社会にとって非常に危険なのである。科学技術コミュニケーションは、この分断を少しでも和らげるための取り組みなのである。

理系の専門家と謂う表現の是非はおいておいて、「科学者」に対する「科学知識の乏しい一般市民」の対立の構図は望ましくないのは当たり前だと思いますが、原子力発電所事故後にはそのような構図が至る所に見られているとどらねこは思います。その中で特に気になるのがツイッターで見られたSTS発の用語である「欠如モデル」と謂う言葉の一人歩きです。これが科学者と市民の分断或いは、分断の切っ掛けとなる場面で用いられているように見えたのですね。目的を考えればこのような道具として用語が用いられるのはSTSの専門家にとって不本意なことでは無いでしょうか?少なくとも本書を読む限りではそう思えるのですが如何でしょう?

文系/理系について筆者はもう少し述べています。

p83より
ただ、文系と理系という区別はかなり粗雑なものであることには注意しておきたい。理系といっても理学系と工学系、さらには医学系で発想のパタンはかなり異なるが、それらをひとくくりにして何となく私たちは理系と呼んでいる。文系も同様で、哲学や文学系と法学、経済学では同じ文系といっても発想はかなり異なるのである。しかし、現実には、この大掴みな分類に由来する問題があることも確かである。

と、文系と理系を簡単に括ることの問題点を述べております。これは「科学者」と「市民」と分けられた場合にもその言葉から受ける印象と現実の中身が異なる可能性を持っていることを同時に示すはずですから。

p84より
つまり日本の場合、理系といっても医学系や工学系が中心であり、とりわけ工学系が非常に強いのが特徴である。その理由は、世界で最初の発展途上国だったからである。
<中略>
こうして大量の理工系研究者(理系という言葉よりは現実を表すにふさわしいであろう)が大学を中心に生み出されているが、その教育システムには大きな問題がある。
<中略>
高校のかなり早い段階で、文系と理系に区別して教育が行われているのである。これでは、一九五〇年代にC・P・スノーが憂えたイギリスの状況、つまり理系文化と文系文化という「二つの文化」の分断状態の再現になりかねない。

大きな問題と謂うのは科学コミュニケーションを円滑に進めるにあたって、と謂う言葉が加わるのが妥当だと思いますが、勿論そう謂う意味で述べているのでしょう。そこに限定するならばどらねこも同意出来る考えです。

p85より
他方、文系は科学に無知である。高校の非常に早い段階で理科から離れてしまうため、科学の基礎知識は不足し、現代社会における科学技術の役割や意義、問題についての関心もほとんどないまま大学に進学している。
このような状態で、この巨大で、現代社会にとってあまりに重要な科学技術をコントロールできるのかという問題がいま生じている。

要するに科学コミュニケーションの齟齬の背景にはこうしたシステム面の不具合があるのだろうと筆者は指摘しているのでしょう。そうであるならば、この問題はすぐに解決できる類のものでは無いと謂う事であり、近い将来に大きな問題が発生した場合、両者の対立が起こっても不思議は無い事になります。このロジックで考えれば、両者に対立が起こったとしてもそれは科学者サイドばかりに問題があると指摘されるような話では無いと謂うことです。この分断が起こらないようにする為に、この問題を事前に指摘していた研究者が率先的に動くことを読者としては期待してしまいます。
ところで、どらねこは大学の受験勉強を全くやったことがないので、好きな教科を興味の向くままに学べたことが今となっては幸いしてるのかな、なんて風にも思ったりしました。


■ワインバーグのはなし
もうダマ4章p185では、ワインバーグの提唱したトランス・サイエンスの概念を簡単に次のようにせつめいしております。
→『科学に問うことはできるが、科学では答えを出せない問題群』
本書では、ワインバーグの主張についても言及した文章があります。引用してみます。

p128より
ワインバーグのトランス・サイエンスという考え方の興味深い点は、トランス・サイエンス的事例の場合に、専門家がどのように振る舞うべきかを考察していることである。科学によって明確な解答が出せる場面では、科学技術の専門家はそれを明確に示せばよい。そして可能な限り、トランス・サイエンス的問題をサイエンスの問題として解決できるように研究を進めるべきだというのである。

ワインバーグの主張はトランス・サイエンス的問題であっても、科学者はなるべく科学の問題として解決を目指そうと謂うモノであると紹介しております。どうも平川氏の切り取り方は、小林氏のこの説明から受ける印象と相容れないように見えます。

p128より
つまり、専門家の意見が分かれるトランス・サイエンス的場面では、専門家は意思決定を独占すべきではなく、利害関係者や一般市民を巻き込んだ公共討議に参加し意思決定をするべきだというのである。

このようにワインバーグの意見を引いている一方、小林氏は生物学者の柴谷篤弘氏の指摘を元に次のように述べます。

p131より
抽象的にいえば、科学が解答を与えることが出来ない領域であるトランス・サイエンスを、研究を進めることによって科学の領域に持ち込むことは悪いことではない。しかし彼が挙げている事例は、原子力発電に伴う放射線による発ガンの可能性に対して、ガンへの免疫を与える研究によって対処するというものなのである。柴谷はこれを「いってみれば、放射線があたってそれで白血病やガンにかかっても、それが癒えればいいのでしょうと居直」っていると批判する。

これを見る限り、ワインバーグの主張とトランス・サイエンス的問題はすくなくとも公共的討議において決定するべきと考えるSTS研究者の考えにはこのような隔たりがあると考えて良いでしょう。それにも関わらず、あたかもワインバーグの主張そのものであるかのように、もうダマ4章には書かれていると謂うのがどらねこの印象です。この意見は誰のものであるのか、その部分を明確にする重要性を人文社会科学研究者の方であれば理解していない筈はありません。


■おわりに
科学技術の取り扱いや限界について自覚を持つ事は勿論大切な事ですが、それらの科学技術に関連する課題を多くの方に伝えるツールとしては理工系科学者も人文社会系科学者もコトバを介して行っていると謂う共通点があります。言葉の用い方一つで相手に与える印象は大きく変わります。その威力を十分に理解している者が自分の主張を通す為の逸脱がないように、常に自戒しながら用いていくことが重要になると思うのです。科学は絶対では無い!と謂う相対化から始まる問題を取り扱うときにはどこまでの相対化が必要なのでしょうか?対象を見渡せるように距離を置いたつもりが、今自分がどこに居るのか分からなくなってしまっていないでしょうか?もしくは、目隠しをさせたまま連れ出されていないでしょうか?こうした問題を取り扱うときにはそんな怖さをどらねこは感じるのですね。
本書には、日本国内のBSE問題に取り組んだ専門家の声を紹介するなど興味深いトピックスが沢山ありまして、とても参考になりました。興味を持った方は一度手にとって損は無いと思います。私の書評擬きが皆様にとって何らかの参考になれば嬉しいです。では、もうダマ書評シリーズの続きもどうぞよろしくお願いします。