トランス・サイエンスの時代を読んでみた(前編)

※注意※この記事は当ブログで連載中のもうダマ書評シリーズの4章を理解する補足としてアップしたモノです。この本の内容自体を論じる事を目的として引用をしておりません。その為、筆者の主張や本の内容を理解する助けになるような記事となっておりませんので、そのあたりはご理解下さい。因みに、どらねこはこの本を読んで良かったとは思っております。もうダマされない為の読書術講義(?):その6を事前にお読み頂いたうえどうぞ先にお進み下さい。


■なぜこの本か
この記事は『小林傳司 トランス・サイエンスの時代-科学技術と社会をつなぐ−NTT出版 2007』を参考にもうダマ4章を考えるものです。

STS研究者である平川秀幸氏がツイッター上で同僚と紹介し発言を引用しており、また著書の傾向からSTS研究者として研究内容にも共通点があると判断し、小林氏の主張を書評エントリで切り出したものと並べてみることで何かが見えてくるのでは無いかと思ったからです。もう一つは、平川氏が4章で採り上げている内容と、本書の内容が非常に似通っている事によります。では早速、どらねこが興味を持った記述を引用多めに紹介していきます。


■科学技術の受容と研究者の対応的な話

p5より
科学技術の開発者側は明らかに社会を意識し、反対派の存在を前提にして対応しようとしているのである。このことは、遺伝子組換え技術に限らない。生命技術であれ原子力技術であれ同様である。近年では原子力学会も学会誌の表紙をソフトなイメージに変更し、「原子力学会」という文字がきわめて小さくなるようにデザインされている。
つまり、科学技術に対して、批判的な声が上がり社会的対立も生み出されるような状況がある一方で、あるいはだからこそ、研究開発をする側は一般の人々の感覚との乖離を意識し「丁寧にわかりやすく噛みくだいて」説明しようとしているという事態なのである。しかし、このような対応で十分なのだろうか。わかりやすければ人は受け入れるものなのだろうか。私には少し方向が違うのではないか、と思われてならない。人々はそんなに単純ではないと思うのだ。

遺伝子組換え技術などの新しい技術を紹介するウェブサイトなどで見られる丁寧な分かりやすい解説・・・果たしてそれだけで受け入れて貰えるのだろうか?と謂う筆者の疑問からスタートしている。

p8より
現在、科学技術をめぐって社会との軋轢が生まれる事例が増えている。そして、科学技術の開発をしている人々も、このような軋轢を意識した対応をとり始めている。しかしこのようなぎくしゃくとした関係は、かつてはなかったことである。なぜ近年このようなぎくしゃくとした関係が生まれてきたのであろうか。最近ではこのような関係を改善するために「科学技術コミュニケーション」の重要性が叫ばれ、実際にもさまざまな試みが行われ始めている。しかし、このコミュニケーションは、科学知識の注入だけで片がつく問題ではないのである。

科学知識の注入「だけ」で片がつく問題では無いと書いてありますね。どうしてそうなのか?小林氏は次のように説明しています。

p8-9より
社会心理学者の中谷内一也は、人間がある事柄についての「良し」「悪し」を判断する方法に二種類があるといっている。一つは「中心的ルート処理」と呼ばれ、問題対象に関する情報を十分吟味して態度決定するという方法である。彼の挙げる例で言えば、BSEに関して情報を収集し、リスク計算も行い、牛肉を購入するかどうか判断するといったやり方である。いわば研究者の手法である。
他方、「周辺的ルート処理」というやり方もある。これは、中心的ルート処理のような正攻法ではなく、「あの人が言っているから」といった情報源の「信頼性」や「多数の情報が同じことを言っている」といった情報の「量」を手がかりに判断する方法である。
推進派や反対派は当然「中心的ルート処理」をする傾向が強いであろうが、普通の人々はおそらく「周辺的ルート処理」をする傾向が強くなるであろう。中心的ルート処理をするためには、強い動機づけとそれを実行する能力とが必要だからである。

<中略>
日々忙しい生活を送っているときに、本当に関心のある事柄に関しては調べもすれば勉強もするが、そうでなければ、確かに手近な情報で対応しているものである。

この中心的ルート処理および周辺的ルート処理は精緻化見込みモデル*1と呼ばれるヤツですね。立場を変えると良し悪しの判断は説得的コミュニケーションのモデルと謂う感じになるのかなと思いますね。どらねこの好きな社会心理学がでてきてしまうと、「周辺ルート」の受容プロセスに訴えるものがありますね。さて、大事と思う処は、最後の部分なのですが、何となく大事そうだけど、自分には直接・・・と考えてしまえば、雰囲気とか好き嫌いとかあの人がオススメだからと謂う情報を重視しちゃう傾向にあるんですね。

p9-10より
科学技術の研究者は、自分の研究テーマに関しては「中心的ルート処理」をしていることは間違いがないであろう。しかもここで動員される情報は主として科学知識のはずである。しかし彼らだって、専門ではない科学技術の分野や社会問題、日常生活において遭遇する問題群の場合には必ずしも本業の研究のようには対応していまい。人間の持ち時間は有限だからである。多くの問題については「周辺的ルート処理」をしているはずである。
他方、反対派はどうかといえば、同じく自分の関心のあるテーマに関しては研究者と同じであろう。ただし、ここで動員される情報源は科学技術の研究者のそれとは異なっている可能性がある。科学知識はもちろん含まれるであろうが、同時に例えば遺伝子組換え技術であれば、農業のあり方や多国籍企業の影響といった情報が動員されるであろうし、「生き方」をめぐる価値観も重視されるであろう。

<中略>
「中心的ルート処理」と「周辺的ルート処理」を使い分けること自体は、決して非合理的ではない。そして「周辺的ルート処理」自体が常に誤りをもたらすわけでもない。われわれはそうやって今まで無事に生きてきたのだからである。

普通に生活している人に、統計を知らないと話になりません。キチンと勉強してから出直して下さい見たいな事を謂うの酷だと思います。というか、どらねこ自体が統計をよく理解していないのです。勘弁して下さい。このように小林氏の話は非常にすんなり受け入れる事が出来ました。

p11より
納豆を買う人を見れば、その気持ちはよくわかる。専門家が一般市民に科学技術の正確な知識を身につけることを望むのにはこういう発想からである。私は、こういう点で、科学技術コミュニケーションが科学技術についての正確な理解を促進するための啓蒙活動に取り組む事の意義を評価している。必要なのである。
しかしそれだけでいいのか、というのが本書の一つのテーマである。

この本のテーマが、啓蒙活動に取り組む事の意義を認めつつ、それだけで良いのか?を問うものだとすれば、科学は信頼を失った、科学が答えを出してはいけない問題には市民の意思こそが重要なのだと読めるもうダマの4章とはだいぶ印象が違うように見えます。

この後、もうダマ4章でも採り上げられている事例や概念を網羅した内容が書かれております。矢鱈と長くなってしまいそうなので、それらの紹介は次回にまわしたいと思います。一応、英国のBSE問題、ワインバーグの主張、文系・理系の対立あたりの話を引きながら対比をして考えて見たいと思います。

つづく・・・予定

*1:もう一つ、ヒューリスティック-システマティックモデルも