もうダマされない為の読書術講義(?):その6

前回に引き続き、もうダマ4章を読み解いていきます。今回は何かと話題になっている欠如モデルにも言及します。

・・・これまでの遣り取り・・・


もうダマされない為の読書術講義(?):その1
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111016/1318728079


もうダマされない為の読書術講義(?):その2
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111023/1319367371


もうダマされない為の読書術講義(?):その3
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111107/1320660719


もうダマされない為の読書術講義(?):その4
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111217/1324125369


もうダマされない為の読書術講義(?):その5
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20120223/1329998568


どらねこ:ふう、空腹は最大の調味料だね。脳のエネルギー源は通常グルコースだけど、飢餓状態だとケトン体も利用されるから安心してね。

黒猫亭:どらちゃん誰に向かって話してるんだい(爆)。

どらねこ:いや、どんちゃんの食べっぷりに圧倒されちゃってよくわからない事を口走っちゃったようです。


みつどん:えー、今日は少ない方だよ?しめて1,429kcal。

黒猫亭:いま頼んだケーキは勘定に入っていないんでしょう?

みつどん:自転車で5時間も走れば無かったことに出来る!

どらねこ:夕食の時間になってしまいますよ?さあ、気を取りなおして続きをやりましょう。



■科学者は「お呼びじゃない」?
どらねこ:平川さんの4章は、消費者の疑いの正当性を英国の事例から、欠如モデル→双方向モデル→専門性の民主化へと謂う流れを提示して、その合理性を印象づけているようだ、と謂う感じで話が進んだのでしたね。

黒猫亭:実際にはその印象は間違いではないかと、前回はサウスウッドの報告書を参照したわけだね。本文に注釈なりが無いのは不誠実では無いか?と述べたわけだ。

みつどん:そうでしたね。ただ、科学のそのような性格や「不確実性」の意味については、P185以降のトランスサイエンス的問題を巡るくだりで捕捉されているという読み方もできるんじゃないかな?

黒猫亭:そこで例示として挙げられている事例は、全部原発事故以降に科学の信頼が揺らいだケースですよね。事故後の事態推移や放射性物質拡散の予測が専門家によってまちまちであったことや、低線量被曝の影響について確実なことがわかっていないこととか。まあ、それは説明自体は噛み合っていますよね。

みつどん:ええ。原子力発電所の実態については、菊池誠さんが言っていたように「中を開けてみなければわからない」わけですし、事故直後の状況では情報自体が限られていて、情報開示のスピードも適切とは言えませんでした。そういう状況においては確定的なことが言えないのが科学の限界ですし、それを「不確実性」と表現するのであれば、それは説明として正しいと思います。

どらねこ:低線量被曝の問題についても意見が割れていることは事実ですし、結論らしきものが出せるのもまだ先のことでしょう。科学が追い着いていない事柄については「不確実」だとしか言い様がありませんので、それは平川さんが述べている通りですね。

黒猫亭:しかし「不確実性」がそう謂う意味であるなら、それは科学の強みでもあるはずでしょう。「わかっていること」と「わかっていないこと」を強力に切り分けるツールが自然科学なのですから、自然科学の知見以上に「確実」な言明は現時点では存在しないわけです。だとすれば、平川さんの挙げた事例と謂うのは結局「科学の使い勝手」の問題に過ぎないわけですよ。しかし、そこで挙げられた事例はすべて科学の知見が「個人の納得」に対して無力だった場面ばかりですね。

どらねこ:STSは科学の在り方に対して一種批判的な立場の学問でしょうから、そう謂う形になるのもやむを得ない部分があるでしょうね。

黒猫亭:ええ、ですから言っていることは間違っていないのです。「間違ったことは言っていないのに、誤った印象を与えること」が問題なんですよ。結局全体を通じて一貫して「原発事故に関して科学の知見は役に立たない」と謂う印象を読者に強く与える書き方をしているんです。

どらねこ:そう謂う印象はどらねこも感じました。ただ、なぜそう謂う印象を覚えるのかよくわからないですね。

黒猫亭:オレもそこが疑問だったのでいろいろ考えてみたのですが、平川さんは原発事故の問題をトランスサイエンス的問題だと言っていますね。そして、「トランスサイエンス」と謂うタームの説明については、初出のP185の時点では「科学に問うことはできるが、科学では答えを出せない問題群」と表現していて、P197で二回目に言及した際に併記して「科学なしでは解けないが、科学だけでは解けない問題群」と言い換えているんですね。

どらねこ:P185ではさらに「一見すると科学で答えが出せそうでも、実は出せない問題、あるいは出そうとしてはならない問題」と註釈していますね。

黒猫亭:その説明も間違ってはいなくて、検索してみると、たしかにワインバーグの定義は「科学に問うことはできるが、科学では答えを出せない問題群」と謂う訳語が多いようです。しかし、むしろ噛み砕いた意味としては「だけ」を補うのが妥当な解釈みたいですね。

みつどん:だいぶ印象が変わりますね。「科学に問うことはできるが、科学では答えを出せない問題群」と謂う表現だと、科学は不可欠な要素ではなく参考程度にしかできないように感じます。しかも、平川さん自身の言葉で「科学で答えは出せないし、出そうとしてはならない」と補足していますから、一種お呼びじゃない感が強いですね。

黒猫亭:ええ、「科学では答えが出せない」と謂う表現だと、要するにこの問題について科学は無力でお呼びじゃないよ、と謂う印象になります。しかし「科学だけでは解けない」と表現すると、科学は必要不可欠だがそれ「だけ」では解決できないという印象になりますね。さらに、言い換えた後の表現では「科学なしでは解けない」とちゃんと言っているんです。

どらねこ:そうか! 平川さんは「科学だけでは解けない」部分については説明しているけれど、「科学なしでは解けない」部分については何一つ説明していないんですね?

みつどん:あっ!やりかえされた。

黒猫亭:(笑)。一回目の説明がそれで、二回目の説明で言い換えたことにも文脈上の意味があります。つまり、P185以降数ページ、ワインバーグの説明から説き起こして語っているのは、震災と原発事故以降の状況で科学の信頼が揺らぐようなケースですから、そこで「科学で答えは出せないし、出そうとしてはいけない」と釘を刺しておけば、「原発問題について科学は無力だから、科学者の意見を聞く必要はない」と謂う印象を覚えますね。

どらねこ:なるほど、では、P197の二回目の説明は?

黒猫亭:ここは「トランスサイエンス・コミュニケーションの促進」が主題ですから、普通に考えて「科学は無力でお呼びじゃない」のならコミュニケーションなんか促進する必要はないって話になっちゃうじゃないですか(笑)。だからここでは「科学は必要だ」と謂うことになっているんです。間違ったことは言っていないけれど、言い換えや省略や不作為によって、その場その場でまったく違う印象が発生するわけですよ。

どらねこ:そこまで考えてやっているんですかねぇ・・・ちょっとにわかには信じ難いところですが、それで違和感の正体に説明がつくことは事実ですね。

黒猫亭:意図的か非意図的かと謂うのはオレにはどうでも好い問題ですね。問題なのは、事実としてそう謂う表現になっていて、おそらくかなり多くの読者はそう謂う誤った印象を覚えるだろう、と謂うことです。結局この章は全般にその手のレトリックを使った表現が矢鱈に多いんですよ。ハッキリと間違ったことは何も言っていない、でも平均的な読者が読むと誤った印象を覚えるように表現されている。言葉の多義性の揺らぎであるとか、文脈の構成であるとか、不自然な不作為とかね。

どらねこ:にゃるほど。そう謂う意味では、平川さんだけの責任ではないんでしょうけれど、少し前にTwitterで話題になったような欠如モデルについての誤解も、この章を読んだ読者は同じような印象を覚えたかもしれませんね。




■欠如モデル再び
黒猫亭:そうですね、欠如モデルと双方向モデルの関係についても、多分この章を読んだ読者は誤解したんじゃないかと思います。現時点でわれわれは欠如モデル型のコミュニケーションも平時においては意味があって、それがクライシス状況やトランスサイエンス状況においては適切ではないだけである、と謂う見方がSTSの基本的なスタンスだと謂うことを識っています。そのことを前回のレビューでJ_Stemanさん作成の図をお借りして視ていったわけですね。

どらねこ:ええ、ああ謂うふうに専門家の方に助言をいただけることは、この連載がダラダラとやる気あるんだかないんだか無駄口ばかり叩きながらチンタラモタクサと・・・もとい、十分な熟議の下に適切な時間を掛けて更新されていることのメリットの一つですね。

黒猫亭:そうですね、あのお話を伺ったことでわれわれ門外漢にも平川さん以外の窓口からの情報が入って、STSについての理解が深まったと謂うことがありました。その前提で平川さんが欠如モデルについてどう言っているかを改めて読んでみると、例によって間違ったことは言っていないものの、一読して「欠如モデルはオワコン」と謂う強い印象を覚えることは事実でしょう。

みつどん:それが主題の1つ、と受け取っていました。

どらねこ:「2000年代の科学コミュニケーションの生ぬるさ」とまで批判していますからね。

黒猫亭:ちゃんと読むと、たしかに欠如モデル型のコミュニケーションが完全に不要だとまでは言っていないんですよ。ただし、欠如モデルに基づく日本型サイエンスカフェ的なコミュニケーションについては徹底的に批判しています。知識を与えるだけではダメなんだ、公共的関与の対話じゃなきゃダメなんだ、と主張しているわけですから、幾ら「欠如モデルの対話は不要」と明言していないからと言って、普通の読者は「欠如モデルの科コミはダメなんじゃん」と謂う印象を覚えるのは当たり前ですね。

どらねこ:実際には、専門家から非専門家に知識を与える形の科コミも十分必要性があるわけですし、STSの立場でもそれは全然否定されていないわけですよね。公共的関与の大前提として、市民の立場で必要とされるレベルの科学知識の普及が行われる必要があるのは当たり前だろうと思います。

黒猫亭:前回触れたように、平時の科コミが欠如モデル型なのは当たり前だ、と謂うのはそう謂うことでしょう。クライシス状況やトランスサイエンス状況ではない場面では、キチンと専門家から非専門家に積極的な知識の提供が必要で、それがリスコミやトランスサイエンス・コミュニケーションの基礎になるわけですね。市民は科学について何にも知らなくても好いし、科学とは無関係な立場で個人の納得を要求しても当然だ、専門的知識が何もない市民が公共的関与を実践してもノープロブレム、なんて話ではないわけです。

どらねこ:以前クロネコッティさんが述べていた「衆愚の問題はどうするんだ」と謂うのは、実はそう謂う平時の科コミによる知識啓発で担保されるわけですね。

黒猫亭:ええ、「欠如モデルはオワコン」と言っちゃったら、市民は公共的関与に必要な科学の知識をどこで得るのか、それとも何も知らない立場で物を言って好いのか、と謂う当然の疑問が出ますからね。対象について何も知識がないのであれば、その判断や意見は当然妥当なものとは言えないし、そもそも決定された政策が目的に照らして妥当なものかどうかを量る尺度もありません。当然衆愚の問題が出てくるはずなんですよ。

みつどん:最低限度のリテラシーがなければ、専門家を交えても何を聞くべきなのかすらわからないわけですから、知識の非対称性の問題が顕在化せざるを得ない。どこかで必ず知識供給型の欠如モデル的なコミュニケーションの回路が必要になるはずだ、と。

黒猫亭:それが合理的な筋道でしょうね。そもそも「欠如モデル」と謂うのは「科学技術の社会的受容」に関する用語であって、それは平川さんも説明していますし、その目的性を外して考えれば欠如モデル的なトップダウンの知識提供型科コミには別段問題はないわけです。「科学技術の社会的受容」とは別の文脈で、市民の科学リテラシーレベルを底上げする活動として専門家から非専門家に対して科学知識の提供は為されなければならない。

どらねこ:これまでの欠如モデルを巡る誤解では、その「科学技術の社会的受容」と謂う目的性が認識されていなくて、ひたすら「欠如モデルはオワコン」的な言い方がされていましたね。

黒猫亭:平川さんがこのくだりで説明していることによれば、要するにこれまで日本では「科学技術の社会的受容」を目的とした科学コミュニケーションは「殆どなかった」と謂うことになるでしょう。ですから、「殆どなかった」ことそれ自体は問題ではあるけれど、それはその限りでは欠如モデルもへったくれもない話なんですよ。平川さんは「若者の理科離れ」と謂う話もしていますが、それは日本の現状では市民の科学リテラシーがお話にならないレベルだと謂うことですから、公共的関与どころか科学リテラシーの涵養を優先しなければならない状況だったと謂うことになります。

みつどん:双方の知識や認識に隔たりがありすぎるなら、先ずその溝を埋めるのがコミュニケーションの一歩ですよね。でないと文字通りDISコミュニケーションになりかねない。

どらねこ:そう謂う状況で一足飛びに公共的関与の対話の必要性を説いても、説得力はないですね。ある程度の科学リテラシーを前提に据えてこそ公共的関与の議論も成立するんでしょうから、市民が最低限の科学リテラシーすらも欠いたままただひたすら政府や科学者と議論をすればいいと謂う意見なら、ちょっと賛成出来ないです。

黒猫亭:普通に平川さんが伝えている諸条件を勘案すれば、日本ではまだまだそのレベルに達していないから時期尚早だよ、と謂う結論になるはずなんですが、ここは勢いで「双方向モデルが必要なんだ」と押していますね。なので主張のロジックが破綻していると思います。

どらねこ:この欠如モデルと謂う言葉は、ネット上では更に一人歩きしている状況が見られますね。元々曖昧な概念*1だけに、使う人によって都合良く恣意的に意味付けされていると謂うのかな・・・

みつどん:あぁったったったったったったったったったったったった、大変だぁっ!

どらねこ:どうしたのどんちゃん、悪逆非道なモヒカンの襲撃から善良なムラビトを護る為に北斗百烈拳を叩き込んでいるような声*2なんか上げちゃって?

みつどん:大変ですよっ! われわれがこうしてダラダラとやる気あるんだかないんだか無駄口ばかり叩きながらチンタラモタクサと・・・もとい、十分な熟議の下に適切な時間を掛けて考察を深めている隙に、PseuDoctorさんに抜かれましたよ! 新しいエントリがネットで評判になっていたので見に行ったんですが、今の話題と完全に被ってます、モロ被りです! 小○智○くらいアカラサマに被ってます!

黒猫亭:まあまあ、仮にネタが被っていたとしても、ネット言論は抜いた抜かれたの世界じゃないでしょう。われわれはわれわれのやり方とペースでやっていくだけのことですよ・・・どれ、オレも愛用の高機能携帯情報端末*3でそのエントリを読ませてもらうとしましょうかね。

どらねこ:・・・

みつどん:ああ、どらちゃんプリントアウトしないと長文を読めないんだった。おばちゃ〜ん、プリントアウトいっちょう!!

どらねこ:どんちゃん、アリガト。ふむふむ。これ、さっきクロネコッティさんが言及した「科学だけでは解けない」と「科学なしでは解けない」の二つを使い分けと同じ構図の話じゃないですか。



P02-04-2 ニセ科学の潜在的被害者は誰か〜「欠如モデル批判」と「ニセ科学批判」の意外な関係〜
http://pseudoctor-science-and-hobby.blogspot.com/2012/02/p02-04-2.htmlより


平川さんによれば、欠如モデルとは「科学技術をめぐる不安や反対などトラブルの原因が、知識不足以外に(も)あるのに、知識不足の問題としてのみ扱うこと?」であり、また「不安・反対の人々を「無知で不合理な存在」として表象し、「ご理解下さい」と一方的に技術の受容を迫るなど、テクノクラティックな態度のこと」だそうです。


しかしながら、当初から私はこの定義に違和感を持っていました。即ち、上記の記事でも少し触れた様に、「科学技術をめぐるトラブルの原因が知識不足のみだと考えている人など本当に居るのか?」「一方的に技術の受容を迫っている人など居るのか?」という疑問が消せなかったからです。


この疑問が言葉尻を捉えたイチャモンではない証拠に、平川さんは同時に「本当に知識不足が原因である問題に対して必要な知識を提供することは当然のこと。批判対象ではないし、敢えて欠如モデルと呼びもしない」とわざわざ述べておられます。

<中略>

平川さんは御自分のブログ記事(2006年のものです)の中で、欠如モデルの事を、こんな風に書いています。即ち「一般市民は科学や技術の知識が欠如しており、専門家が正しい知識をわかりやすく伝えることが重要だ」というのが欠如モデルの考え方だそうです。

<中略>

どうも平川さんは、こうした違いを理解出来ずに言う事がズレているのか、それとも理解した上で敢えて内容をズラして、しかもそれを「当然の常識」扱いしているのか、そのどちらかの様に思えます。前者であれば日本語の理解不足ですし、後者であれば不誠実(卑怯)な態度です。


みつどん:クロネコッティさんが先ほど指摘した「言い換えや省略や不作為によって、その場その場でまったく違う印象を与える事例」と同じロジックですね。

どらねこ:これは意図的に行っていると考えても良いでしょうね。

黒猫亭:うーん、それどころか、欠如モデルと謂う言葉自体、キチンと定義されたタームではなく、そもそも重要な概念であるかどうかすら疑わしい、なんて話まで出てきているようだなぁ・・・

どらねこ:もしかするとこの件は、複雑な問題に対しわかりやすいラベルを貼るような時に必要な注意を怠った場合、容易に起こりうるような問題なんじゃないかな?

みつどん:ここはもう少し整理して考えた方が良いのかも・・・?

黒猫亭:じゃあ、とりあえずこの段階までの流れでオレの結論を言おう。多寡が一冊の書籍のたった一章の記述には、それなりの影響力しかないことは前提となる事実ですよね。だからすべての責任を問うつもりなどは毛頭ないけれど、この前半の流れを読んで読者が強く受ける印象について、試みに整理して箇条書きにまとめてみましょう。



・科学者が一方的に市民に安全情報を発信するのは「欠如モデル」でオワコンだから、科学者の側が市民の意見を聞くべきだ。


・しかも、原発事故の放射能汚染について科学はまったく無力だから、市民は科学者の意見など聞く必要はない。


・科学の知見に基づいて「どの程度まで安全なのか」と謂う情報が発信されていても、そこには科学が見落とした「未知のリスク」が存在するかもしれないから信用出来ない。

黒猫亭:どうです、当節問題視されている一部の過激な反原発論者の言い分そのままじゃないですか。煎じ詰めれば「原発事故について科学者が何を言っていても聞く必要はないし、言っていることも信用出来ない。寧ろ科学者には市民の要求に従う義務がある」と謂うことになるわけですよ。この種の客観的根拠を欠く飛躍した乱暴な科学批判を後押ししたことについて、平川さんにはその影響力なりの幾許かの責任があるとオレは考えていますよ。

どらねこ:・・・と謂うか、この章で平川さんが読者に印象付けたかったのは、まさにそう謂うことなんじゃないかと謂う気がしてきました・・・

みつどん:平川さん個人の政治的スタンスとも合致しますしね。しかし、それは科学哲学的にもSTS的にも誤った言明になる、そこで「間違ったことは言っていないのに、誤った印象を与える」レトリックを駆使している、と・・・

黒猫亭:ええ、ここまでのオレの話が「印象論」に見えてその実は「受け手の印象を操作する技術論」であったことに留意して戴ければ、そう謂う結論になるでしょう。

どらねこ:どうやら大分見えてきましたね。この章の問題は結構根が深いようです。じっくり腰を据えてもっと突っ込んで考えてみましょう。




というわけで次回に続く。

*1:これについては科学哲学者である伊勢田氏の記事が参考となる。http://blog.livedoor.jp/iseda503/archives/1710164.html続きを期待したい。

*2:某世紀末救世主伝説参照

*3:毎度律儀に解説を入れる必要があるかどうかは疑問だが、A社製スマートフォンのこと。