ウソをつく道具:その2

前回の終わりの方でどらねこは

社会学研究の幾つかはそうしたバイアスにとらわれたモノが含まれている事に気がつくことが出来ました。

などと生意気を謂いましたが、今回のエントリではその1つと考えられる、『日本人は本当に集団主義なのだろうか?』を書こうと思います。書くと謂ってもどらねこが検証するわけでなくて、認知心理学者の高野陽太郎氏が所謂日本人論に対して唱えた異議や反論を示した著作*1を(以下、本と記す)読んでどらねこが思ったことなどを並べる*2ぐらいの代物ですけどね。そんなわけで、このエントリで述べられる内容に不審な点*3があったとしてもそれはどらねこの妄想である可能性*4が高いので注意してください。前置きが長くなりましたが、本題に入りましょう。

■日本人は集団主義でつねに集団として行動する傾向にある
上記の小題は、日本人論一般に見られる認識だと思います。その他、『日本人には個性がない』とか、『自我が確立していない』、『自己主張をしない』、『すぐに右へならえする』などの特徴で語られることが多いようです。で、それはよその国のヒト(特にアメリカ)からそう見なされているという話しばかりじゃなくて、日本人自体がその説を受け入れているというような状況*5です。そして、日本人とは対照的な『個人主義の国民性』を持つ例としてアメリカという国が大抵引き合いに出されれます。
「えっ、そんなの当たり前じゃねーの?」
どらねこがそんな事を謂ったら、すぐにそんな返事が返ってきそうな気がします。だって、日本のいぢめ問題は日本人の集団主義的性質のあらわれダヨってお偉いセンセイが講釈垂れていたよ、とか。だってほら、太平洋戦争では国民一丸となって、自分をなげうって強国に挑んでいったじゃないの?あれこそが日本人の性質だよねとか、日本は農耕民族だから集団主義的な性質を持って居るんだよ・・・などなど。
でも、どうなんだろ。それって本当に集団主義的だから起こったことなの?それより日本人は集団主義的だという話し自体本当なの?ちゃんと検証した話しなの?そんな疑問に真っ向から取り組んだのが高野陽太郎氏の本なのですね。簡単にその否定の根拠を紹介してみます。

■実証的な研究による証拠
エピソードの印象って強いですよね。アヤシゲ健康食品の宣伝手法に多用されているのはエピソードがヒトに与える影響がとっても大きいと謂うことを商売人がよく知っているからなんでしょう。日本人論のステロタイプはエピソードを並べることによってより強化され、通説になったと思いますが、一度出来上がった通説には反論となるエピソードをぶつけても跳ね返されるのがオチでしょう。そればかりでなく、ダメ出しするのに、ダメだしされる側と同じ論法で正当性を主張するというのもなんだかなーですよね?そこで、実証的な研究を採り上げ、反論の根拠とするわけです。じゃあ、実証的な研究*6ってなんだろう。
この場合であれば、集団主義の代表とされる日本人と個人主義の代表とされるアメリカ人を比較した研究という事になるでしょう。しかし、ただ単に比較検討した研究であれば良いと謂えません。比較検討した研究が多数存在する場合には、その中から自分の主張を支持する結果の論文だけ抜き出すことで都合の良い結論を提示する事も可能だからです。これはどらねこもよく使う手ですね。 なので、こうした複数の研究成果を集めて何が謂えるのかを調べる場合には、予め条件設定をしておくことが大切なのです。例えば、研究方法を限定するとか、サンプルの大きさに基準を設けるとか、用語の定義がしっかりなされて行われたもの・・・などなど。高野氏の場合は調査研究に於いては、『集団主義・個人主義の程度を直接測定することを目的とした研究だけ、さらにその類の研究は全て検討対象とした』また、実験研究では『一般に理解されている意味と直接関連する行動を調べた研究だけにしぼり全て検討の対象とした』そうです。これなら定義に沿って選ばれた研究を全てになりますので偏りはなくなることでしょう。
では、こうしてあつめられた研究を検討した結果はどうなったのでしょうか?その結果はこんなかんじ。

11件の調査研究と8件の実験研究が集まった。
そのうち、13件の研究がアメリカ人のほうが日本人より集団主義的
違いが見出せないというのが5件
通説と一致しているのは1件

つまり、実証的研究からは『日本人は集団主義的』とは謂えないという結論がもたらされたわけですね。オマケに、これら研究の大部分は「日本人=集団主義」説を支持している研究者が行ったものなのだって。メデタシメデタシ?
どらねこはコレで十分と思うのだけど、『やっぱり日本人は集団主義』と考えている方には納得できないだろうな、とも。本ではコレだけでなく、過去の状況や事例の提示なども行い、多くの方が納得できるだろう説明を続けております。この点に興味のある方は本を読んでもらうとして、先に進んじゃいます。

■どーしてそうなった?
大事なところは、実証的研究では見いだせなかったのに、どうして自他共に集団主義的と見なされるようになっちゃったの?という部分だとおもうのです。この問題を突き詰めていくと、日本人論だけでなくその他の文化ステロタイプや歴史認識、差別なども同じ構図なのでは?という点に思い至る重要なところです。

その1:歴史的な問題
集団主義的日本人について述べられたベストセラーであるベネディクトの『菊と刀』が出版されたのが1948年の事。ついこの前までの軍国主義時代を誰もが思い出せる時期だった。なので、簡単に受け入れてしまった。

これに対しては、一億総火の玉みたいなスローガンにみられるような軍国主義こそが日本文化特有の集団主義のあらわれなんだよ!という反論もありそうです。では、第二次世界大戦時にみられた現象は日本ならではのものなのでしょうか。高野氏はこう反論します。

『別に集団主義的な文化や国民性を持ち出さなくても、人間の集団というモノは一般に外部からの脅威に直面すると団結をかためてそれに対抗しようとする一般的な傾向を見せる』

そして

『第二次世界大戦中は日本だけでなく自由の国と呼ばれるアメリカも移民というだけで自国民に対し強制収容を行ったり、徴兵、情報の統制、信書の検閲、共産主義者の追放など総力戦に向けて結束を図った。記憶に新しいところでは9・11同時多発テロの後にもアメリカの集団主義的行動を見ることが出来る。ブッシュ大統領の「団結は最強の武器だ」という演説に対し、実に9割近い国民がその姿勢を支持したのだ。この時、アメリカのアフガニスタン攻撃に対し、反戦集会を開いたひとに対しては「非国民」というやじが浴びせられたという』

このように外からの脅威に対しては人間というのは団結して対応するというのが妥当な見方だということがわかります。日本については明治の開国以来、欧米列強の脅威にずうっとさらされ続けてきました。外国に日本が広く認識されだしたのは明治期以後の事だと思いますので、この間の日本は団結して欧米列強に立ち向かおうとしたとも考えられ、その様子を見てきた外国の方々は日本という国は集団主義的な国なのだなとうつったのかもしれません。

その2:思考のバイアス
どうして集団的な日本人という国民性を多くの方が受け入れてしまったのか、それには人間が誤解を起こしやすい考え方の癖が影響していると考えられます。心理学ではそれを『認知バイアス』呼びます。これらは研究結果を解釈する場合に影響を与えるもので、心理学の研究ではこの効果を除外するように研究計画が立てられたりします。また、この効果そのものを心理学は研究の対象にもします。今回どらねこがこのエントリを書こうと思った理由の1つ*7が、このバイアスのオハナシを説得力のある形で紹介したかったからなのですね。
さて、人間には様々な認知バイアスがあることが分かっているのだけど、それぞれがどのように日本人は集団主義だという主張と結びつかせたのか簡単に並べてみます。

対応バイアス:
行動の理由に対し、性格や能力などの内部特性を重視し、状況などの外部要因を軽視してしまうというバイアス
→軍国主義時代の日本人の行動は特別な状況のせいで生じたのではなく、国民性に由来している・・・と誤解された

確証バイアス:
ニセ科学批判ではお馴染みのバイアス。自分の主張を支持する証拠ばかり探してしまう特性。例えば、読む前に与えられた情報があったとして、同じ書物内に合致するものと合致しないエピソードが同じ数だけ述べられていても、事前に与えられた情報に合致するエピソードばかり沢山思い出せるという傾向が一般に見られる。
→事前に日本人は集団主義だという情報を持っていると、それをしじする事例が容易に思い出されるようになってしまう。

錯誤相関:
なにか先入観を持っていると、現実には存在しない相関が先入観を支持する内容であれば存在すると思ってしまうバイアス。
→実際にはそのような相関がないのに、日本人は集団主義的な行動をする事が多く、アメリカ人は個人主義的行動をとることが多いと思いこむ。

信念の持続:
ある信念のもとになった根拠がくつがえされても、信念それ自体は持続するというバイアス
→いくら反論しても既に日本人は集団主義的論を受け入れてしまったヒトには通じないのかも知れない・・・

コレ、ホメオパシー問題をみているとじっかんできるんだよねぇ。

外集団等質性効果:
自分が属している集団の仲間の個性は良く認識できるけど、そうでない集団の個性はあまり目立たないというバイアス
→日本人は個性がなくて集団主義だというレッテルを貼った側には日本人の個性は見出しにくかったという話し。情報量の不均衡と重なって大きな影響力を発揮したのかも。

その3:オリエンタリズム
オリエンタリズムというのは、ヨーロッパ視点の考えで、支配の対象となる地域について、事実には基づかず自らの願望に基づいて『オリエント』にヨーロッパと対照的な劣ったものとしての特質を見出すような認識のありかた、とされており。自由の国アメリカ(ヨーロッパ)の個人の自由が尊重されるというイデオロギーに対して劣位に置かれたのが、集団的日本人の姿であったと指摘しています。


日本人は実は集団主義ではないという事について、この説明だけで納得して頂けたでしょうか?イエイエ、納得頂けなくてもしょうがないカモです。コレで終わりではなくて、その3では『日本人論と文化、その国民性とは』みたいな内容で続けたいと考えております。




おまけ
■社会調査とバイアス
今回紹介した誤解を招く心理傾向についていくつか、バイアスに注目してなんか書いてみます。
日本人=集団主義仮説が日本に紹介され、それが多くのヒトに認められるようになったのにはソレを支持する多くの書籍も一役買っているようです。そういった日本人論は作家さんだけじゃなく、文化人類学者や社会学者も同じように実在するモノとして研究・検討を行っております。この本によって解体されたように実態の無いものについて、どうしてその事を見抜けずに実在するモノとして検討してしまったのでしょうか?研究者も認知のバイアスから自由でないのですよね。社会を実証的に検証する社会学者も過去には同じようなバイアスにとらわれて来たことがこの例からも伺えるのです。研究というのはどうしても、自分の主張なりを明らかにするために行うという欲求があって行われるのでどうしても結果の解釈にはそういったバイアスが入りこみ易いのですね。門外漢のどらねこがこんな事を謂うのはおこがましい話しですが、現代の研究者はこの点も考慮に入れて、バイアスがなるべくは入り込まないような形で、研究計画を立てるようにしているのですね。なので、社会学のプロの研究では社会調査に先入観が紛れ込まないように綿密に計画を立てると思うのですが、最近、みかけた社会調査モドキにはちょっと驚かされてしまった記憶があります。細かい内容は此方を読んでもらいたいのですが、この内容は社会調査としてはダメダメのまったくオハナシにならないモノにどらねこにはみえました。
それもそのはず、このアンケート調査を行ったのは脳研究家として有名な川島先生だったのですね。なんで、脳研究家が社会調査を?そんな疑問が浮かびます。実際、その解釈には疑問の連続なのですが、バイアスの強力さを知る事例というだけでなく、社会調査というのは素人が簡単に手を出して何かを述べられるような簡単なモノではないのだ、という事を改めて明らかにしてくれたと思います。新聞・テレビなどのメディアが行う意識調査、アンケート調査はヒトの誤解釈を除外できない考慮できていないモノばかりです。社会調査→自分の主張を通す(ウソをつく)道具になりさがっているのです。社会調査ってそんなに簡単なモノじゃないんだぞっ!と、社会心理学・社会学者はもう少しこの点について情報発信してもらいたいなぁ、個人的にはそう思っております。

■対応バイアスの恐怖?
本分でもちょっと触れましたけど、認知のバイアスの中に対応バイアスというものがあります。これは文化論や国民性論でステロタイプに嵌ってしまうその理由として説明されるものです。
例えば、○○君は遅刻をしました。という状況だけ見て原因を推測をする場合には「だらしない」とか、「いい加減」というような本人のパーソナリティにその原因があると推測する心理傾向です。電車が遅れたのかも知れないのに、そちらの可能性よりも原因を本人に求めてしまう強い傾向が人間にはあるようです。
人間の行動は外的な状況と内的な特性その二つが影響しあって発生するものです。先ほどの例のように第三者がその人の行動の原因を推測するときには、性格による影響を過大にうけとり原因として認識してしまいやすいという傾向があります。ところが、心理学実験の結果を見ると実は行動というモノは本人の特性(性格や能力)よりもその場の状況に強く影響されるという傾向が強いという事が明らかになっています。
どらねこの理解では、大抵のヒトは放っておけば、誤った認識でヒトの行動理由を判断してしまいやすいという事でしょうか。これは恐ろしいですね、本当に恐ろしい。無意識だからこそなお恐ろしいです。ヒトの行動に対して重大な判断を求められるような場面がもしあったとすれば、その危険性を回避するために、自分はそのような誤った判断で相手を見てしまう可能性があるという事を思い起こすことが大切になります。対応バイアスが自分にかかっていないか?一度振り返ることが大切だと思うんです。
つい先日、こんな話題を目にしました。

「クマを殺さないで!」批判殺到 猟友会「現実分かっているか」と反発
http://www.j-cast.com/2010/10/29079577.html
野生のクマが山から人里に下りてきて畑や畜舎を荒らすなどの被害が全国で起きている。民家の近くに現れると命の危険があるため周辺の住民は近くの公民館などに避難。町や地元の猟友会メンバーが射殺するなどして難を逃れている。
ところが、市町村や猟友会に対し、クマの射殺を知った人達から「クマが可哀想だ」との苦情が大量に寄せられている。関係者は苦情の多さに対し「住民の命を守ろうとこちらも命懸けなのに…」と憮然としている。
<中略>
射殺されたのは親子だった。このニュースが流れると、斜里町役場には電話とメール合計100件近くの苦情が来た。内容は「どうして殺傷したんだ。他の方法はなかったのか」というものが多かった。

親子連れのクマであった事が明らかになった途端、殺到した苦情。このニュースが事実だとすれば、親子連れのクマを撃ったという事が苦情電話の原因と謂うことだろう。
親子連れのクマ・・・できればそのまま山に帰ってもらいたい、その心情はわかる。じゃあ、猟師はどうして撃たなければならなかったのか・・・そうせざるを得ない状況だったんじゃないかぐらいの想像は簡単にできそうである。でも、対応バイアスの影響というのは強力だという事を考えれば、そうならないでカワイイクマのオヤコを撃った原因を猟師の内面に求めてしまう心理傾向が働いた可能性が高いと思う。カワイイクマを撃てる人間=『残酷・利己的』そんなイメージで猟師を捉えたとしても不思議はない。そうでなければ、わざわざ苦情のメールや電話を余計なお世話を働いてまで行うことはないだろう。
誰もが状況によっては普段の自分からすれば思っても見ない行動をとってしまいますが、これは多くの方に知ってもらいたいことです。犯罪と呼ばれる行為は状況によって誰もが行ってしまう可能性があるのです。個人を糾弾するだけでは犯罪は無くならないし何の解決にもならないと謂うこと。不必要にヒトを追い詰めることはとても危険な事だと思うのです。無理をしない、させないそれが大切なんじゃないかなぁ?どらねこは個人的にそう思うのです。

*1:「集団主義」という錯覚−日本人論の思い違いとその由来−高野陽太郎著 新曜社刊 2008

*2:ここがくせもので、自分の主張を正当化させるつもりで高野氏の著書を引き合いに出している可能性が高い

*3:このエントリでは引用文そのままではなく要約や文章の流れにそって書き換えていたりします

*4:実際に著書を読もうねというはなし

*5:本の中では実際にその事が表れている事例を文献を証拠として提示している

*6:社会学だとこの手の実証的な研究に用いられるのが主に社会調査で、心理学だと行動の実験だったりする

*7:どらねこはこうしてウソをつく