震災後の社会不安に役立つ(?)社会心理学の知見

御用学者と謂うレッテルや、科学者対市民のような構図が意図的かどうかまではわかりませんが、つくられている事について、どらねこは色々と懸念をしております。ただ単に心配性なだけかも知れませんが、集団の心理やレッテルの威力を考えるとどうしても不安に思ってしまうのです。こうした状況は異なる集団間の葛藤を生み出しますし、集団の外にいる人間が述べることは信用ができないと考えてしまいがちです。震災後の復興では、私たちは互いに協力し合い、現実的な対応を行っていかなければならないと思いますが、信用のできないと考える相手との作業には、機会費用が多くかかる事がしられており、このような高コスト体質はその妨げになると考えられます。相手を信用するために担保が必要となるからです。問題をおこしたときの罰則を厳しくする事、第三者の検証を増やすことで手続きが煩雑になる事などなどです。こうした問題は見逃されがちですが、非常に重要なものであるとどらねこは考えます。これらの問題を理解する為には社会心理学の知見が大きなヒントになるのではないかと思い、幾つかエントリにしてみたいと考えております。不必要なレッテル貼りや集団間の不毛な対立をどうやったら減らすことが出来るのでしょうか・・・、一緒に考えていただけたら嬉しいです。
今回は、それらを考える上で重要だと思われる用語や概念などをメモしておこうと思います。次回以降の記事ではこちらを参照しながら論を進めていきたいな、と謂う希望をもっておりますが、はてどうなることやら・・・(弱気)

■アクセシビリティ効果
単語などを提示する事により、事前に活性化された概念については、その後の刺戟についても用いられやすくなる傾向がある。あまり意識されないような短時間の提示でも影響を受けるとされる。事前に敵意の概念が活性化された状態では、新しく目を向ける対象についても無意識のうちに敵意を持ちやすい(Srull&Wyer,1979)と考えられている。このようなアクセシビリティ効果はステロタイプ*1が人の思考に及ぼしうる影響について示唆を与えてくれると思う。

例えば、福島原子力発電所事故の前後では『原子力発電所』に対して抱く印象は大きく変わったことであると思う。おそらく、『危険』であるとか『怖い』などというネガティブなイメージを持っている人が多いのではないかと思います。ところで、テレビなどの報道では、原子力発電所の映像や話題などの後に科学者が登場し、解説を行うパターンが多いように思われますが、もしかすると、この構造が無意識的に科学者への敵意醸成に関与しているのではないか?というのがどらねこの憶測です。こうしたステロタイプによる活性化はステロタイプを持たないヒトに対してもアクセシビリティ効果として現れるという実験結果(Devine,1989)が報告されています。一連のプロセスは意識せずに行われるものと考えられており、自身がそうした傾向を持っている事に自覚的である事が対処法の一つであると考えられるでしょう。
■対応バイアス
他者の行動を見たり聞いたりしたとき、どうしてそのような事を行ったのか推測する場合、当事者の性格や能力など本人の問題であるのか、それとも状況や環境など周囲の影響によるものであるのか大きく分けて二つの要因にわける事が出来る。実際には、本人及び周囲の状況が複雑に絡まり合い、事例によりその割合は異なるだろう。ところが、他者がある出来事をおこした場合に原因を推測するとき、その本当の理由はわからなくても、その行動の原因は本人の性格や能力などパーソナリティに起因するものであると考えてしまう傾向がある。この現象を対応バイアス(Gilbert&Malone,1995)という。

悪いことをしたのなら、その本人の性格なりに問題があるに違いない。そうした推測を私たちは無自覚に行う傾向にある事は、テレビなどの報道で虐待死亡事例などに接したときを想像してみると実感できるかも知れない。私は結構短絡的なので、「何ていい加減な親なんだ!子どものことを大切に考えていない自己中心人間め!」などと憤ってしまうのですが、本当にそう判断するだけの十分な情報が報道されていたのでしょうか?確かに、そのような事件を引き起こしたこと自体は問題ですが、そうせざるを得なくなるような厳しい状況があったのかもしれません。例えば、子どもに大きな発達の問題などがあり、周囲のサポートも受けられないまま貧困なども加わり思い詰めての行動かも知れないのです。こうした私たちの無意識の思い込みが、事態を引き起こした外的原因について、十分な検証を怠りがちにさせ、同じような事態を繰り返してしまう可能性がある事はもう少し知られて良いと思います。

■責任帰属
過度に当事者の内面に問題があったと考える傾向が対応バイアスであると書いたが、その出来事の責任は誰にあるのかどの程度責任があるのか等を考えることを責任帰属という。その出来事の原因はいったい何であったのかを考える事を原因帰属という。子どもが遊具で遊んでいてケガをした場合を考えると、子どもの不注意が事故の責任であると考えられますが、遊具の設計や親が十分な監督をしていなかった事にも責任があると考えることも可能である。責任帰属の話を考える上で重要なキーワードに公正世界仮説がある。

■公正世界仮説
公正世界仮説(Lerner,1980)とは、『正しい行為を行う人には良い事が、悪事をはたらく人には悪いことが起きるという、この世界は公正に出来ているという信念を私たちは持っている』という前提から、悪いことが起こった場合にはそれを引き起こす何かを被害者が行ったのだろう、と被害者に責任を求めるように考える、というものである。(なるほど、呪術的であるが、人が昔からこのように考える傾向がある事で呪術的思考が生まれたと考えればスッキリするよね。正義の問題とも関わってくる部分で、一概に否定できない面もあるだろうね。妊娠出産の場面では死産や産まれた子どもの健康に問題がある場合などで責める要因になっていると考えられる。本当に悩ましい問題だ)

公正世界仮説は、犯罪の加害者だけでなく被害者にも事件や出来事などの責任を求められる事が生じる根拠となりうるでしょう。痴漢被害を例に考えれば、痴漢の被害にあった女性自身にも問題があったと責任を求めるような心理です。痴漢にあったのは、その女性が露出の多い服を着ていたからに違いない、夜遊びなどで夜遅くまで外を歩いていたからに違いない・・・等など。いじめの問題でも、被害者にも原因があると責任を求めるような言葉を誘発し、二次被害を招く大きな要因となっていると考えられます。もしかしたらどらねこも、無意識のうちに被害者を不当な思い込みで傷つけてしまっていることがあるのかも知れません。公正世界仮説について自覚的になる事は、こうした事例の予防のためには非常に大切であると考えます。*2

■素朴な現実主義
人は自分の行った『解釈』は正しく、相手も同様に理解している(できる)はずであると思いこむ傾向がある。相手側も同様に、自分の行った解釈は正しいと考えており、利害関係が異なる場合にはそれぞれに有利な解釈がぶつかり合うことになり、話しあいは平行線になるだろう。このような事が起こる理由は様々な認知バイアスに基づく素朴な現実主義が関わっている。素朴な現実主義は3つの信念から成り立っている(Ross&Ward,1995,1996)。

その1:自分はあらゆる事象を客観的事実をそのままに見ており、自分の態度や信念は情報に対して冷静で歪みがないように理解した結果得られたものである。
その2:自分と同じ情報に基づき、筋道を立てて熟慮し、偏り無く吟味できれば、相手も自分と同じ反応、行動、意見にいたる。
その3:自分と他者が意見を共有できなかった場合、次の3つの理由の一つであると考える。(1)他者は自分と異なる情報と接触している。(2)他者は怠慢で理性的でない為、筋の通った結論を導くことが出来ない。(3)社会的信条や利己主義や価値観などの歪みにより正しい解釈や論理的思考ができない。

なるほど、相手も同様に考えていれば、大抵は(3)を導き、話し合いは物別れに終わってしまう事が多いのは容易に想像が出来ますね。所謂ニセ科学批判関係の話でも、意見の異なる者同士の遣り取りが物別れに終わることが多いのはこれの影響が大きいのでしょうね。対話者一方にそのようなバイアスの認識があってもダメで、双方が同じような理解で対話に望まないと建設的な議論とならない・・・と謂うのはハードル高いと思います。どらねこもこういった活動(?)の原動力は素朴な現実主義にあるような、相手が間違っているからなんとかしなきゃ!的な説得への欲求であったのですよね。原動力ではあるのだけれど、方向付けられた力の行く末には色々と気をつけないとイケナイと思います。結果、相手を敵視したり、蔑視したりする事にもなりかねませんので。容易に「○○を信じているのはバカだ」みたいな思考に陥りがちな自分を反省して・・・
■スポットライト効果
自分自身の心的状態を元に、他者についても推測・判断をする事で実際とは異なる判断を下してしまう事を自己中心性バイアスという。その一つにスポットライト効果と呼ばれるものがある。
スポットライト効果とは、自分の振る舞いや格好が実際よりも周囲の注目を集めているように当事者が持つ認識の傾向の事である。これは外見についてのみではなく、議論に於いても自分の発言は周囲にインパクトを与えているという認識にも影響(Savitsky,Gilovich,Berger,&Medvec,2003)を及ぼしている。このスポットライト効果は否定的な評価についても、自身が思うよりも周囲の人からより否定的に見られているといったように過大に見積もる傾向をもたらしている。あまりにも自分の主張が正しいモノであるとの思い込みは他者との関係性においてネガティブな影響をもたらしうるが、望ましくない行動をとった時に、自分が目立ってしまっていると過剰に見積もることは、望ましくない行動の抑制にも繋がっているとも考えられる。

ええと、どらねこはこのスポットライト効果について、なるほど〜、と実感するところが沢山あります。なんか凄いイイコト謂ったよね?自分、みたいな事をよく考えますし、変なことを書いてしまったことにとても恥ずかしくなってクヨクヨしたりします。こうした認識から逃れることは非常に困難ではあると思いますが、自分の発言などを評価や検証をされる機会を持つことである程度修正することができるんじゃないかと思ってます。そうしたツールの一つとして、はてブやツイッターを用いている側面があります。ちょっと気合いを入れて記事を書いて、紹介したのに、思ったほどブックマークが付かない。大事な事をツイートしたつもりなのに、何も反応がない・・・などなど。自身の発言の評価を過剰に気にしすぎるのもどうかと思いますが、評価の乖離について自覚的になることは大切であると思っております。
■内集団贔屓
一般に人は、自分が所属している集団については高い評価や肯定的に見る傾向があるが、自分が所属していない集団については低評価や否定的に見る傾向がある。この傾向を内集団贔屓という。この傾向は単なるランダム要素で振り分けられた集団同士でも生じることが実験(Tajfel,Billig,Bundy,&Flament,1971)で明らかにされている。このような働きは集団同士が競合的な状況ではより強くなる傾向が見出されている。このような内集団贔屓が生じる理由については、自分たちとは別の集団に対する差別的認識は、それ自体が目的ではなく、むしろ自分たちの集団のメンバーに利益を与えようとする行動の副産物であるとも考えられている。(この分野は進化心理学の観点からも説明されるなど、様々な意見があるようだ)

ざっくばらんに謂うと、身内びいきと呼ばれるようなものだけど、ほとんど自覚の無いまま無根拠に相手集団を自分よりも下に見てしまうと謂うのは恐ろしいなぁ、と思う。世の中には色々な対立構図があるけれど、「貴方はこの集団ですよ」とか、「こっちの側においでよ」と謂う声に対しては色々と慎重になって良いと謂う示唆を与えてくれますよね。だってそれだけで、相手を差別してしまいかねないのですから。公務員と企業サラリーマンとか、原子力村とか科学者と一般市民みたいな集団対集団の構図は具体的な根拠無く、それだけで相手への評価に影響をもたらしかねません。そんなグループ分けに手を貸すような事には慎重になった方が良いよ、そんな役割を社会科学に携わる方には期待していたりします。
他にも大事なキーワードは沢山ありますが、とりあえずこの辺にしておきます。

■おわりに
久しぶりに社会心理学関連の本を開いてみて、今の状況に於いて解決のヒントになる事が色々書かれているなぁ、と思いました。勿論、スポットライト効果によるものなのかも知れませんが。どらねこは所謂ニセ科学批判的な活動を行ってきましたが、原子力発電所事故を受けての心配の暴走や妥当性の乏しい対応を採り入れたりする反応や○○バッシングと謂う現象などに対応するためには別のアプローチが必要なんじゃないかな、と思うようになってきました。特定の小集団に対する対応では、大きな集団同士のいがみ合いに発展しそうな雰囲気があるからです。そうした問題を考えるには、社会心理学関連の知見は参考になると思いました。こうした観点から『もうダマされないための科学講義』と謂う本のとある章をを読んでいく事で、このあたりの理解を深められたらと思っております。さて、どうなるでしょうか。

*1:決まり文句やクリシェ、紋切り型とも

*2:震災後の天罰発言が生み出される背景とも考えられる。また、それをすんなり受け入れているように見られる人が多いのはこのためではないか?