飛鳥時代 単語

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飛鳥時代とは、日本史上の時代区分である。雑な理解で文献史学が成立し得る段階から、遷都の710年まで(細かい説明は後述)。

概要

実態はともかくとして、聖徳太子中大兄皇子大海人皇子等、ようやく実際にあったことらしき「記憶」が共有されている時代。

大雑把にいえば飛鳥に都があった時代なのだが、この定義に沿うと推古天皇の時代くらいとなってしまう。ここで、政治史的には大化の改新(645年)くらいまでを射程に取り、もっとも大雑把な理解では仏教伝来前後から遷都(538年710年)ということも言われていたりする。

なぜこのような大雑把な時代区分かというと、もともと時代と時代の間に位置する、美術史由来の時代区分だからである。

奈良時代遷都くらいから説明せざるを得ないため、この記事では、もっとも広い範囲の天皇文武天皇期を飛鳥時代の記事に括る。

女帝の時代前史

奈良地に成立したヤマト王権は、大陸との回路と一種の砲艦外交で列地域の広くに自身の権威を広めることに成功した。実際の血縁関係はのままではあるが、武力によって新たに政権を打ち立てた継体天皇がそれまでの「臣」に並び立つ新の側近「連」を取立、覇権を築くことに成功したのである。

かくして、時代は天皇に移り、部民制を中心とした専制王権が確立する。ここで天皇を支えたのが、大臣の蘇我、大連の物部尾輿であり、両者は仏教の受容を巡って対立したように、「臣」と「連」を代表する存在が然と政争をくり広げていたようだ(蘇我氏も蘇我氏で「臣」の中ではぽっと出なんだが…)。なお、この頃は後の藤原氏につながる中臣子は物部営にいたりする。

こうして、火種を抱えたまま、専制君天皇が死ぬと、敏達天皇が即位。大臣は蘇我馬子、大連は物部守屋が跡を継ぐ。このころまではまだ、継体天皇以来の物部氏が有力だったのだが、続いて、蘇我氏が外戚となった用明天皇が即位してしまう。

これで一気にパワーバランスが変わると、用明天皇仏教帰依を宣言。明らかな陰謀を悟った物部守屋は軍勢を集め、押坂人大竹田皇子を呪詛する。これもうまくいかず、物部守屋は次から次に提携先を探すが、ついに用明天皇の死をきっかけに、蘇我馬子物部守屋側の穂部皇子と宅部皇子を殺し、物部氏を討伐。崇峻天皇を擁立したのであった。

こうして、蘇我氏は大連を止して、大臣制一本に絞らせた。ところが、この崇峻天皇は次第に蘇我馬子を疎んじるようになり、ついに暗殺されてしまう。こうして巡りにめぐって推古天皇の即位につながり、女の時代へと移っていく。

推古天皇と蘇我馬子・厩戸皇子

崇峻天皇が死んだとき、厩戸皇子竹田皇子、押坂人大(この時期生きているか死んでいるかぶっちゃけいまだにわかっていない)の3人はまだ大王になるには若すぎた。ここで白羽の矢が立ったのが、敏達天皇皇后・額田部皇女である。かくして推古天皇が即位し、記紀に描かれた記憶としてはともかく、大王としては史上初めての女の時代が始まったのである。

ただし、この飛鳥時代奈良時代の女が、中継ぎかどうかという未だに決着していないめんどくさい論争がある。とはいえ、そもそも後の皇后に値する存在は、この時期一定の政治的実権を持っていた。つまるところ、この論争をスルーしたところで、一定の政治的実績はあった人物に依頼されたのではあろう。

まあ、この辺は置いておいても、推古天皇厩戸皇子を立太子して、即位した。この、厩戸皇子こそが、後にあまりに多くの伝説られて実像がわからなくなる、聖徳太子である。なお、こいつ実在したの?的なあの件はややこしい内部事情があるので、ほぼパスで。

推古天皇期には、太子である厩戸皇子と、引き続き天皇バックにいる蘇我馬子国家を差配していた。かくして、氏族ではなく個人の業績で位階を決める、冠位十二階が成立したのだが、割と忘れられがちなこととして、蘇我氏はこれを授ける側である。とはいえ、推古天皇時代の官制度ははっきりわかっていないことも多く、まだ芽ともいうべき明期であったようだ。

なお、憲法七条は、この時代にない国司という単語があるなど、『日本書紀』が書かれた時代の知識が遡及された形跡がある。とはいえ、大化の改新が結局あったのと同様、なかったと言いれるほどの判断材料がないことも事実である。

なお、この推古天皇期の有名な事績が、遣隋使派遣である。これも事情は新羅の躍進による危機感から、武力ではなく、随との外交によって権勢を得ようとしたものであるが、ぶっちゃけ皇帝煬帝がいったんは怒ったにもかかわらず隋が対等な交流を、結局認めたのかはよくわからない。さらに言えば、隋もあっけなく滅び、推古天皇期に唐も成立しているので、推古天皇は提携相手を唐に替えしている。

また、推古天皇期に進んだのが、寺院の建立である。飛鳥寺や、斑鳩寺、四天王寺等、蘇我馬子厩戸皇子といった有力者達は寺を建てていった。なお、この斑鳩寺と法隆寺に連続性があるのかどうかは、考古学研究でだいぶあるということになってきたのだが、そうなると記紀火災の記事は一体、というが増えつつある。これもとりあえずパスさせてほしい。

乙巳の変~大化の改新第一幕~

かくして、暗殺と戦争に始まった蘇我馬子の時代が、逆に平和に終わろうとしていた。ところがこの時期、高句麗貴族体のクーデター済で国王の専制化という二つの対照的な事件が起きる。それもこれも、隋が滅んで唐が東西に拡大を始めた結果、東アジア全土に危機意識という名の緊が走り、政変が起きうる土壌が一気にできたのである。この流れで起きたのが、新羅・済・高句麗からの使者が集う儀礼の場での一大クーデターの変である。

推古天皇が628年に死んだあと、既に厩戸皇子も亡く、押坂人大系統である押坂王に属する田村皇子、厩戸皇子の系統である上宮王の山王の二ができ、結局押坂王田村皇子が舒明天皇として即位した。さらに、舒明天皇の死後、蘇我夷は皇后である皇女を皇極天皇として擁立すると、上宮王を滅ぼす。

が、これに盛大に反発したのが、押坂王に連なる息子中大兄皇子である。中大兄皇子は自身に近づいてきた中臣足や蘇我氏の分連中を味方にすると、蘇我本宗に連なる蘇我夷・蘇我入鹿蘇我氏系の異・古人大皇子らを一気に滅ぼす。クーデター全に成功し、皇極天皇の同・孝徳天皇に史上初めての生前譲位が行われ、中大兄皇子倍内麻呂蘇我山田石川麻呂といったクーデター犯者たちは、新政権の要職を務めていった。

難波遷都した新政権は、大化の改新を始めた。公民制は古い理解であり、正確にはこれまでの人的資を間接的にやり取りしていた部民制から、広く統一化された公民制に代わった、という程度しか言えないようだ。なお、ちょっと前までは、大化の改新なんてありません!なぜならこの時代使われていない単語があるからです!という話もあったが、ぶっちゃけその単語の用例が見つかったのと、そもそもその程度で全否定できるのか?的な論調が定着したのとで、全否定はされなくなっている。

なお、大化の改新の内、孝徳天皇の時代にに行われたのは、評制の実施である。つまり、造制が止され、全が中央から命じられた土地区分で分けられた、ということである。

第二のクーデター~大化の改新第二幕~

かくして、難波地域を転々とし、ようやく豊崎宮に都をおいた孝徳天皇であったが、天皇導で行われていた政治に不満を抱いた中大兄皇子が、孝徳天皇皇后・間人皇女、および先代の皇極天皇を引き連れて飛鳥に戻ってしまった。

とはいえ、皇極天皇あらため、重祚した斉明天皇は、孝徳天皇息子有馬皇子もいるのでそこまで大ごとにはならないだろうと思っていたかもしれない。が、有馬皇子は蘇我踏み絵にまんまと引っかかってしまい、殺される結果となってしまった。かくして、斉明天皇の跡中大兄皇子くらいになってしまったのである。

そして、このタイミングで、いよいよ東アジアに前々から蔓延していた危惧が現実のものとなる。朝鮮半島一気に戦乱が勃発し、済が追い落とされる。これに済側で介入を試みた倭だが、斉明天皇の遠征は彼女の死で頓挫し、一緒にいた中大兄皇子が最終責任者として前線へと軍勢を投入する。ところが、江の戦いで敗戦し、中大兄皇子は外征をあきらめ、飛鳥に戻っていった。

かくして、朝鮮への介入の鎮静化と、山による多重の防衛ラインを敷くと、大津宮で中大兄皇子はついに天智天皇として即位した。そして、ついに制と太政官制が敷かれ、唐をモデルにした制をし始めたのである。

壬申の乱~大化の改新第三幕~

天智天皇は、法制を整備し、息子大友皇子への継承を着々と進めていた。ところが、この時代の有力者として台頭したのが、天智天皇大海人皇子である。しかし、大海人皇子は出し、々と宮廷を離脱した、はずだった。

ところが、吉野に身を置いた大海人皇子は、天智天皇が死んだ後に喪中で即位もできないまま政務を行う大友皇子の様子を息子たちから聞くと、盛大にクーデターを起こした。申の乱の勃発である。

かくして、正攻法にこだわった大友皇子戦略・政略に長けた大海人皇子に敗れ、大海人皇子は天皇として即位したのである。天皇軍事的才覚に優れた存在であり、江の戦い以降の緊状態の中、軍事力に基づく軍国体制の専制君となったのである。

一方、天皇息子皇子、大津皇子、甥の川島皇子ら皇族たちを活用した、皇政治をとった。かくして天皇の代に、天智天皇の治世に実際にあったかどうかわからないレベル近江をさらに発展させたとされる、律令国へと移っていったのである。

藤原京の時代

天皇の時代から、次第に藤原へと都を移すことが、富本銭の導入などと合わせて予定され始める。皇子の系統への継承を企図していた皇后・鸕野讚良は、大津皇子などを取り潰していったが、結局皇子はく死んでしまう。というわけで、孫の軽皇子に即位を論むが、まだ幼かったこともあり、鸕野讚良が持統天皇として即位したのである。

かくして、持統天皇の代になり、飛鳥浄御原の制定と藤原宮への遷都は、引き続き進められた。さらに、天皇の皇子の中で年長であった高皇子も死去すると、持統天皇は軽皇子・文武天皇に譲位した。

文武天皇の時代に、藤原が栄えたが、大宝の制定や32年ぶりの遣唐使等が行われたにもかかわらず、この文武天皇もあっけなく死んでしまった。かくして、後の聖武天皇となる首皇子が即位する前に、文武天皇母親元明天皇が即位した。ここで、元明天皇がついに遷都し、奈良時代へと移っていくのである。

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