趙姫(ちょう・き ? ~ 紀元前228年)とは、趙の大きな家の娘であったが、呂不韋と恋人関係となった後、秦王となる子楚(しそ、異人(いじん)とも)の后となり、子楚の死後は、秦の太后となった人物である。
本来の姓(氏)名は史書でも伝わらず、趙の国で生まれたため、「趙姫」と呼ばれる。
中国の初代皇帝である始皇帝の母であったにも関わらず、なぜか、史書にも姓(氏)名が記されず、趙の国で生まれたことしか分からないため、「趙姫」と呼ばれる。
史書では「邯鄲(カンタン)の豪家(大きな家)の娘」と書かれており、「その通りである」と、近年の研究者もみなしているが、創作だけではなく、歴史解説書でも、「趙の国の歌妓(歌や舞、夜の相手などで男性を喜ばせる仕事の身分の低い立場の女性)」と紹介されることが多い。
これは、
・趙姫が「呂不韋の家にいた邯鄲に住んでいた舞いに優れた美女のうちの一人」と書かれ、呂不韋の本妻でなかったと思えるような記述があること。
から来る誤解であると思われる。
趙の国では音楽や舞踊を好み、あちこちの富豪のもとに「玉の輿(こし)」を求めていく女性は多いと史書にも書かれ、趙姫もこのような女性の一人であったと考えられる。趙ではこれが普通のこととして、大きな家の女性でも、行っていたようである。
だが、行動や特技が、後世における「歌妓」に似ているがために誤解が生まれ、中国では明代や清代における歴史研究家にすら、「子楚(後述)の夫人となった時に、趙の富豪が娘分にしたのであろう」とする説や「呂不韋(リョフイ、後述)が金を出したので、趙姫の実家が裕福になっただけであろう」という説を、となえられることとなった。
また、これは、明代や清代の中国の大きな家で生まれた女性が、そのような行動が許されない状況であったという時代背景から来る誤解とも思われる。
趙姫を「歌妓」とした記事もソースが無いわけではないことに注意しなければならないが、やはり、「趙姫大きな家の娘の出身」と解釈した方が自然と考えられる。
趙の都であった邯鄲の出身。上述した通り、大きな家の娘であった。
おそらくは、邯鄲に商売に来ていた大商人であった呂不韋のもとに、趙の国の多くの女性と同じように自分を売り込みにいったものと考えられる。
趙姫は、呂不韋にその舞と美貌を気に入られ、呂不韋の家に住み込み、その側室の一人となった(この時、呂不韋に正妻がいたかは不明)。
ある時、その呂不韋が、趙の国への人質となっていた秦の公子(王族)である異人(イジン、人名)が、邯鄲にいることを知った。
「奇貨(きか)居くべし」と考えた呂不韋は、その異人を抱き込み、秦の国の後継者とするべく、秦の国へ工作を行う。呂不韋は秦の都である咸陽(カンヨウ)に出向いた。
呂不韋の工作は見事成功し、異人は、秦の太子であった安国君の後継者となることができた。異人は子楚(シソ)と名を変えた。
紀元前260年、邯鄲にもどってきた呂不韋が子楚を屋敷に呼んで宴会をする。この時、趙姫も子楚の歓待に加わっていたが、子楚に惚れられてしまう。子楚は、呂不韋に趙姫を妻として譲ってほしいと頼んだ。
呂不韋は怒りを感じたと史書に記されているが、今までの投資を考えたのか、泣く泣く趙姫を譲ることにする。勝手に自分の運命を決められてしまった趙姫の心理は史書には記されていないが、趙姫は子楚の夫人となった。
紀元前259年、子楚との間に子が生まれる。これは「政(もしくは「正」)」と名付けられ、後の始皇帝となる。時期が時期だけに後世に、「始皇帝の本当の父親は呂不韋ではないか?」という風説が史書にも残るようになった。
しかし、紀元前257年、秦が邯鄲を包囲し、生命の危険があった子楚は呂不韋とともに邯鄲を脱出するが、趙姫は息子の嬴政とともに取り残される。
趙姫は嬴政とともに、実家の大きな家にかくまわれるが、この家にも対立する家があり、息子の嬴政(エイセイ、「政」のこと)はつらい思いをしたようである。
やがて、紀元前251年、子楚が秦王の太子となることができたため、秦の都、咸陽に呼ばれ、嬴政とともに咸陽につく。趙姫は秦王である「荘襄王(そうじょうおう)」となった子楚の后となり、嬴政はその太子となった。
しかし、「荘襄王」はわずか在位3年で急死(紀元前247年)。趙姫は未亡人となる。嬴政が秦王となり、太后となったが、元々、積極的な女性だった彼女は、さびしく要求不満な身柄となる。
次第に、趙姫はかつての夫であり、現在では秦の「相邦(しょうほう、宰相)」となっていた呂不韋と宮廷で会う機会が増えたこともあって、密通を繰り返すようになった。
露見をおそれた呂不韋は、「ちんこ男性の一物」が巨大という評判があり、趙姫と同じ邯鄲出身であった嫪毐(ロウアイ)という人物を探し出してきて、宴会を行い、「ちんこ男性の一物」で車の車輪に持ち上げて歩く芸を披露させた。
果たして、趙姫はその噂を聞いて、興味を示し、呂不韋に嫪毐を自分に欲しいと、呂不韋に所望してきた。全て、呂不韋の思惑通りであった。
そこで、嫪毐は「腐刑(ふけい。ちんこ男性の一物が切られる刑)」を受けたものということになった。
その後、嫪毐は、ひげと眉を抜いて、去勢した男性であるとして、宦官(かんがん、宮廷の中に仕える人物。この時代は必ずしも去勢したとは限らないところは注意)として、趙姫に仕えることとなった。嫪毐は、給事中(きゅうじちゅう)という役職についた。
趙姫は、宦官に仕立て上げた嫪毐と密通し、子供までみごもった。
発覚をおそれた趙姫は、たたりを避けるように占いのおつげがあったことを名目に、嬴政と離れるため、咸陽から、かつての秦の都が存在した雍(ヨウ)の離宮に移る。
趙姫の嫪毐への寵愛は深く、多くのものを与え、全ての物事は嫪毐の判断に任せた。やがて、嫪毐の権勢は、呂不韋に匹敵するものとなった。
趙姫と嫪毐の関係はその後も続き、子供が二人生まれるに至った。雍での彼女の生活はそれなりに幸せなものであったと想像される。
しかし、紀元前239年、ついに、趙姫は嫪毐との関係を暴かれ「嫪毐は去勢者ではありません。以前から、太后(趙姫)と密通しています。子供も二人まで生まれているのです」という告発が、息子の嬴政に行われる。
その告発の中で、「嫪毐は太后(趙姫)とひそかに秦王の死後に、自分の子を跡継ぎにしようと計画している」と語られているが、本当に趙姫が嬴政を殺害して、嫪毐との子を秦王にしようとしたのかということになると、かなり信ぴょう性が乏しい。
嫪毐と趙姫との間の子は、どうあっても、嬴政の父である子楚の血をひいていないため、現実的には不可能な謀略だと思われる。
嫪毐は謀反を起こしたが、この時も太后(趙姫)の玉璽を偽造している。嫪毐の反乱は失敗に終わり、嫪毐は捕らえられ、処刑された。
趙姫も捕まり、二人の子は嬴政によって処刑されたが、趙姫自身は、雍に幽閉されるだけで済んだ。
これを考えると、趙姫は嬴政を殺害しようという計画には加担していないと考えた方が自然である。
幽閉されることになった趙姫であるが、斉の国と趙の国の使者が来た時に、斉人の茅焦(ボウショウ)という人物が、嬴政に進言した。
「秦が天下を得ようとしている時に、大王(秦王・嬴政)は太后である母君を幽閉されてしまうとは。諸侯(斉などの秦を除く六国)がこのことを聞いたら、秦に対して謀反を起こすかもしれません」
諸侯のことは別にして、この時代の中国において、よほどのことがあったとしても、親にひどいことをすることは道徳に背いてしまう。
結局、趙姫は許されて、雍城から咸陽に迎え入れられ、再度、甘泉宮に住むことができた。
さすがに、子二人を殺害された趙姫と嬴政の関係が元通りになったかは分からないが、それからは、特に何も起きることはなかった。
紀元前237年、かつての夫である呂不韋は、この事件により、「相邦」を解任される。さらに、紀元前235年には自害にまで追い詰められた。
紀元前228年、趙姫は死去し、帝太后(ていたいこう)と贈り名をされ、夫の荘襄王(子楚)とともに埋葬された。
史書においては特に趙姫についての評価は記されていない。
ただ、趙姫が嫪毐と密通したことを後世に残り、世間では好色な男性を「嫪毐」と呼ぶようになり、「毐」とは品行の悪い男性を示す文字となった。
創作の中の趙姫は、「歌妓」とされることが多く、「好色で呂不韋や嫪毐の言葉に乗りやすく、息子の嬴政を謀殺しようとするだらしない女性」として描かれることが多い。
趙の土地に住む人柄などについては、『漢書』地理志や『史記』貨殖列伝に詳しい。
趙の土地と隣接する中山の土地と同様、土地はやせているため作物が余りとれないが、人口は多い。
男性はよく集まり、遊び好きで、歌い叫び、他人を殴り人のものを奪い、人の墓を暴いてものを盗むことを好む(人間が多い)。また、悪だくらみを行い、様々なものをもてあそんで手品を行う人間が多く、旅芸人のような生態をみせる。
女性については、めかしこんで、音楽を好み、長い「たもと」の色っぽい雰囲気の衣を着て、細いくつをはき、流し目を使って男性に好かれようとして、男性の年齢にかまわず金持ちの男性を求めて、遠い土地まででかける(人間が多い)。そのため、そういった女性が中国各地の諸侯の家庭に入り込んでいた。
趙姫もまた、(身分が低く、職業として行った歌妓ではなく)、そのような女性の一人であったと思われる。
その中でも「邯鄲」は趙の大都市であり、土地は広く、様々な風俗はまじっているが、おおむね精悍(せいかん)かつ性急であり、気勢をたっとぶが、悪事に手を染める傾向が強いとされる。
このように余り評判がよくない、趙の人々であるが、「勇敢であること」、「荒々しいこと」また、「ずるがしこい人」や「悪人」が多いことは、廉頗(レンパ)、藺相如(リンソウジョ)、趙奢(チョウシャ)、李牧(リボク)、郭開(カクカイ)のような人物を輩出したことからも納得できるものがある。
2021年12月において、週刊ヤングジャンプにおいて連載中の作品。
趙姫は史実の通り、この作品の準主人公にあたる嬴政(後の始皇帝)の母にあたる。
元々は邯鄲でよく知られた美女であったが、この作品では「歌妓」であるという設定であるため、史実で、趙姫を助けた一族は、この作品では存在していない。
子楚と呂不韋が邯鄲を去った後、迫害を受け、生活に困窮し、悲惨な生活を送ったため、精神がすさんでしまい、嬴政を苦しめる、いわゆる「毒親」となってしまっている。
太后となった後も、嬴政に愛情を感じることはなく、呂不韋とともに、嬴政の政敵として対立する。
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最終更新:2025/01/12(日) 05:00
最終更新:2025/01/12(日) 05:00
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