九七式戦闘機(キ-27)とは、大日本帝國陸軍が運用した初の本格的単葉戦闘機である。連合軍から付けられたコードネームは「ネイト(Nate)」。
1935年2月4日、名古屋北方40kmの各務ヶ原飛行場にて、とある機体の飛行テストが行われた。ライバルの大日本帝國海軍が開発した史上初の単葉機である九六式艦上戦闘機が、要求速度350km/hを遥かに凌駕する450km/h近い速度を叩き出したのだ。更に安定性と操縦性も優れているという国内どころか世界にも通用する高性能ぶりを発揮。
驚異の性能を間近で見せつけられた帝國陸軍は、まさかの海軍にお願いして九六式艦戦を譲ってもらう。もちろんそのまま運用するのではなくこれをベースに自前の単葉機を作り出そうとした。1935年末、陸軍は現行の九一式高翼単葉戦闘機及び九五式複葉戦闘機に代わる次期主力機の開発を中島飛行機(キ-27)、川崎航空機(キ-28)、三菱重工(キ-33)の三社に命じる。設計には九六式艦戦を調べて吸い出したデータも活用され、さっそく三社の競合開発が始まった。
三菱は新規開発にあまりやる気が無く、九六式艦戦を少し改造した程度のやっつけ機体を提出しただけに留まり、陸軍も当然のように採用を見送る。一方やる気満々な川崎は1936年初頭より開発を開始。ベースとなる九六式艦戦を徹底研究し、空冷エンジンを搭載して「高速性」や「上昇力」といった長所を拡大発展させる形でノウハウを注ぎ込み、10月には試作1号機を完成させた。10月15日に利根川付近の飛行場で初飛行。徹底的な軽量化が図られており、あらゆる分野に新機軸が組み込んで長所をしっかりアピールする事が出来たが、かえって早すぎて小回りが利かず、また試験中に故障を起こしまくる空冷エンジンの印象の悪さが足を引っ張って採用を見送られてしまった。機体性能こそは良好だったが、空冷エンジンに技術が追いついていなかった故の敗北と言える。
残った中島は不世出の名航空機設計者である小山悌(こやまやすし)氏を主任設計者に据えた。九五式戦闘機の試作に破れた反省から独自開発したPE(Pursuit Experimental)実験機を1936年7月1日に完成させ、社内のパイロットを使って尾島の飛行場で初飛行を実施。テストパイロットが「小山さん、これは物になりますよ」と評価した事で確かな手応えを感じた。PE実験機は陸海軍の指示ではない独自開発であったが、非公式ながら陸軍の搭乗員もテストに協力してくれ、「大変よろしい」と太鼓判を押した。早速小山氏はPE実験機の資料と経験をベースに設計を開始、太田稔技師や入社間もない糸川英夫技師らも加わり、必要な素材が全て手持ちの物で補える幸運にも恵まれ、風防やスパッツ等を改良したキ-27試作1号機を10月15日に完成させる。続いて小山氏はかつて付き合いがあった外人技師たちの設計手法や戦闘機思想を思い起こしつつ、陸軍搭乗員の「ソ連軍機に勝つには格闘性能が第一」という考えを汲み取り、出来るだけ機体を軽くするとともに空気力学的に洗練されたものにしようと考えた。こうして翼面積が大きい主翼の搭載と更なる風防の改良を加えた試作2号機が1937年2月に完成。審査を行ってみたところ、飛行テスト中に最高速度475km/hを記録し、搭乗員からも「使いやすい」と好評を得た。さすがに複葉の九五式戦闘機には旋回性能で劣ったが、奇しくも川崎と同じように「高速性」と「上昇力」の長所を伸ばす事でカバー。ついに採用内定を勝ち取った。しかし同年7月に盧溝橋事件が発生したため審査を9月で切り上げ、九七式戦闘機として制式採用された。
審査中も小山氏が翼の改良を続けた。三菱が提出した九六式艦戦の改良型キ-33の長所も貪欲に取り入れ、前縁を直線に、後縁をテーパー翼とした「捻り下げ」構造を導入。これにより横安定性が良好となり格闘戦での射撃を有利にしている。陸軍搭乗員は「まるで的に吸い込まれるようだ」と評して絶大な信頼を寄せたという。空中被弾時における火災を避けるため胴体内燃料タンクを小型化し、不時着時に風防が開かなくなるアクシデントを考慮して背もたれを倒して胴体後部から点検扉を経由して脱出出来るようにした(脱出用スペースには1人分載せられる広さがあったため、不時着した味方の搭乗員2名をそこに載せて連れ帰ってくるという、奇想天外な使い方もされていたとか)。欧州では空気抵抗を抑える引き込み脚が広く採用されていたのに対し、引き込み脚では重量が増える事、予想される対中ソ戦線では必ずしも整備されているとは限らない事から、強度に勝る固定脚を採用。
高い旋回性能と操縦性、そして機銃の命中精度を誇っていた事から「世界最優秀機」や「空の狙撃兵」と評された。
1938年4月3日、九七式戦闘機は中国大陸に進出して支那事変に参加。今まで複葉機が主力だった陸軍に単葉機という全く新しい姿をした次世代機が届いたのだ。九五式複葉戦闘機と比べて速力と上昇力に優れていたので、九七式戦闘機は現地の部隊から歓呼の声で出迎えられた。
配備から1週間後の4月10日、前線基地の帰徳飛行場に中国国民党軍機が大挙襲来。これを迎撃するため九七式戦闘機15機が投入される。敵はソ連から輸入したI-15戦闘機約30機で三重の防衛線を敷いており、数に勝る敵機に包み込まれそうになったが、数の不利を覆して24機を撃墜(日本側の被害は不明)。鮮烈なデビューでその名を轟かした。やがて九七式戦が充足されていくと敵軍は恐れをなして奥地へと撤退していった。九七式戦を操縦した搭乗員曰く「飛行機に乗って操縦しているのではなく、自分自身の体が飛んでいるという感じだった。両翼端が両手先と同じ、車輪の下が足の爪先と同じと言って良い」と評している。
ところが戦線が奥地へ移動していくと九七式戦の航続距離が足りなくなる事態が発生。そのせいで爆撃機の援護が出来ず、大きな損害を出す結果となってしまった。九七式戦闘機はギリギリまで切り詰めた機体設計のため拡張性に乏しく、改良型は造れなかったためこの反省を活かし、次期主力機は航続距離を伸ばすようにしている。
次なる戦いは1939年5月11日のノモンハン事件で迎えた。敵は中華民国とは比較にならない強国ソ連。
5月12日、ハイラルにある第23師団の二個小隊のみが急派され、細々と地上部隊の支援を行っていた。やがて飛行第11、第24戦隊の九七式戦闘機40機が増援で到着すると九七式戦闘機の秘めたる力が解放。まず5月20日にハルハ川上空で初撃墜の戦果を挙げ、これを皮切りに軽量化によって得た破格の格闘性能で数に勝るソ連軍戦闘機を圧倒。彼我の戦力差はおよそ1対5であったが、それを物ともせずに戦果を拡大し続け、キルレシオは1対10だったと言われている。強力なソ連軍の機甲師団を前に地上の山縣支隊は死者・行方不明者171名、負傷者119名を出して惨敗を喫したが、空中では九七式戦が我が物顔で暴れ回り、損害ゼロでソ連軍機54機を撃墜している。あまりの損害に5月28日には飛行禁止令が出されたほど。地上の惨敗とは対照的に空中では完勝を収めていたのである。
ノモンハンでの空戦は多くのエースを輩出する土台にもなり、その活躍は新聞紙上に掲載されて臣民を熱狂させ、戦闘を見ていた各国の観戦武官からも高評価を獲得した。荒地にも着陸できる安定性(固定脚だと折れる平原でも難なく着地可能)、緊急時は胴体のスペースを使って脱出できる利便性、操縦性の良さ、機銃の命中率の高さも評価され、陸軍搭乗員に愛着を持たせている。
第二次ノモンハン事件では78機の九七式戦闘機が参加。6月27日の越境攻撃でタムスクとサンベースに駐機中のソ連軍機100機を地上撃破した時、九七式戦は迎撃に現れたソ連軍戦闘機約70機を撃墜してみせる。ソ連軍機を次々に撃ち落としていく九七式戦闘機は間違いなく傑作機と言えた。もっとも当初のソ連軍パイロットの錬度は低く、I-16戦闘機も運動性劣悪な機だったため上手く相性が噛み合った点も大きい。あまりの無双っぷりに陸軍内では「軽戦闘機至上主義」がはびこり搭乗員を頑固にしたとされる。
しかし被害に驚いたソ連軍が新型機とスペイン内戦帰りの経験豊富なパイロットを投入した事で状況が一変。格闘戦を極力避け、一撃離脱戦法に切り替えた事で、7月以降は九七式戦闘機の被害が激増したと言われている。防弾性能が低いせいで指揮官の死傷が多く、人的被害も無視できなかった。それでも地上部隊の大敗北っぷりと比較するとまだ持ちこたえていた方で、9月の停戦まで戦い続けた。
1940年、陸軍は旧式化が進んでいた九七式戦闘機の練習機転用を考案。陸軍航空工廠と満州飛行機が協同で改造を行い、翌1941年に試作1号機を完成。操縦性と安定性をしっかり引き継いでおり、練習機には打ってつけの性能を発揮。開戦後の1942年1月に制式採用され、内地や満州で運用された。
陸軍は後継機の一式戦闘機隼を制式採用していたが生産数が少なかったため、既に旧式化していたにも関わらず大東亜戦争にも投入された。本機が持つ格闘性能や旋回力は連合軍機にも有用で、マレー方面の空戦では米英機を圧倒する活躍を見せた。輸送船団の護衛や、触接に現れたカタリナ飛行艇を撃墜するなど献身的に快進撃を支え続けた。マレーやフィリピン、ビルマで連合軍機と交戦し、一式戦が充足するまでの時間を見事に稼いで見せた。
しかし1942年4月18日のドゥーリットル空襲では迎撃へ上がったものの、B-25に追いつけず見逃すという決定的な性能差を見せ付けられてしまった。九七式戦の性能不足を痛感した現場は、後継機キ-43の配備を熱望した。1942年中期には南方の第一線から引き上げ、支那戦線に転用された。1943年8月に現役を退き、その安定性や操縦性を見込まれて練習機になった。戦争末期には特攻に使用され、その数は陸軍機最大だった。亜種の二等高錬も特攻に使われた他、B-29迎撃にも参加。練習機ながらF6F-5を1機撃墜する戦果を挙げた。
最終的に3386機が生産され、陸軍第3位の生産数を誇る。息の長い航空機だった事は間違いない。生産数の多さから満州国やタイ王国に輸出された機があり、中には臣民の献金で購入されたものも。
福岡県朝倉郡筑前町にある町立太刀洗平和記念館に、唯一の現存機が展示されている。
1996年の博多湾の護岸工事中に発見され、引き揚げられた。元々は沖縄方面に向かう特攻機で、満州から中継地の熊本県菊池飛行場に向かっている時に博多湾へ不時着。搭乗員の渡辺利広少尉は無事で、機を乗り換えて知覧基地から出撃、戦死した。
二式高等練習機はインドネシアのサトリア・マンダラ博物館に展示されている。
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最終更新:2024/12/23(月) 23:00
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