五式戦闘機とは、大日本帝国陸軍の戦闘機である。略称は「五式戦」。
陸軍キ番号(試作名称)はキ100。実戦参加が終戦間際だったこともあり、他の三式戦「飛燕」、四式戦「疾風」のような愛称もつけられておらず、また連合国側のコードネームもない。
終戦間際の1944年。日本本土上空をB-29が飛来するようになってきたものの陸海軍の中で満足な高高度戦闘を行える機体は少なく、陸軍は高高度戦闘に対応するため三式戦闘機二型の生産に着手していた。ところが、一型に搭載されたエンジン・ハ40の性能向上形、ハ140はハ40以上に生産性に難があり、1945年1月時点の段階で満足に完成したのは31機。残りはエンジンの無い首無し機体だけが370機以上も工場に並ぶというとんでもないことになる。話によるとエンジン未搭載機体を置くスペースはなくて、工場から国道沿いに2kmほど首無し機体が並ぶという異常なことになっていたようだ。
さすがに陸軍もこうなることは予想していたらしく、1943年3月に陸軍飛行実験部の今川一策大佐が空冷式エンジンの搭載案を提示していた。この時には既にキ100と命名されていた模様。1944年10月1日に軍需省がエンジン換装を命令し、三式戦闘機の開発元である川崎飛行機に三式戦ベースの空冷エンジン搭載機を求めていたが、土井武夫氏ら開発チームは難色を示していた。確かにわざわざドイツのDB601エンジンをライセンス生産してまで液冷エンジンに拘ったのにここで後退するようなことを簡単に頷けるほどではないのも理解できる。また構造的にもクリアすべき点も多く、その最たるものはエンジンの設置だった。もともと三式戦はエンジン直径が細くできる液冷により機体がスマートだった。搭載されていたハ40エンジンの全幅は739mm、空冷エンジンではシリンダーなど星型配置になるとどうしても直径が大きいなる。おまけに陸軍が提示した代替エンジンは当時四式戦などが搭載していたハ45(直径1120mm)ではなくハ112-2(直径1218mm)とこれまた大きい代物だったのだ。これにエンジンカウルなどがつけばさらに大きくなる。
どうエンジンを搭載しても細い胴体との間に隙間が出来る。と言うものの飛ぶどころかエンジンも機体が300機もあまるような状態ではもはや否応はない。開発チームは否応なく空冷エンジンの乗せかえに着手することになった。
開発チームは当時日本に輸入で届いていたドイツのBf109やFw190A-5の機体デザインを参考にして、隙間部分を埋める形で推力式単排気管を設置。エンジンから出る排気を推力に変える単排気管によって(空力的に)隙間を埋めることに成功した。元々三式戦自体、主任設計の土井氏らしいシンプルで頑丈な設計をされていたためエンジン搭載にあたって特別機体を修正することなく、空冷には不要なラジエターなどの補器類を撤去するという簡単な修正のみほどこし、三ヶ月という異例な速さで五式戦闘機の初飛行を行うことに成功した。
いざ飛んでみると三式戦闘機より最高速度は若干落ちたものの上昇率は上がり、液冷に必要な補器類とそのバランスをとるためのカウンターウェイトが無くなったことで軽量化。運動性が上がるというおまけつきだった。模擬空戦の結果、急降下性能は三式戦に劣るものの、それ以外の全性能は他の陸軍戦闘機を超越。B-29を撃墜できる武装を持ち、手堅い空冷式エンジンのおかげで整備性も良好というヤッツケ改良の割には高性能を叩き出した。ゆえにパイロットからの評価が高く、陸軍もこれを高く評価することになった(当時、四式戦に搭載されていたハ45の稼働率に悩んでいた軍にしてみればやっつけで作らせてみたら予想外な出来の良さに喜んだらしい)。
常陸教育飛行師団のベテランパイロットが行った四式戦vs五式戦の比較では、「急降下速度は四式戦に劣るが上昇力は格段に五式戦が上で、四式戦が高空を占位しても2、3回の上昇で逆転可能。格闘戦でも操舵が重い四式戦と比べて優位に立ち、諸性能が高いので着陸も楽」という高評価だった。陸軍戦闘機が苦戦するP-51やF6Fに対抗できる機体として、1945年1月に制式採用。陸軍最重点量産機種に指定され、未完成の三式戦は全て五式戦に改造するよう命令が下された。月産200機を目指して量産を始め、5月までに月産111機まで持っていったが、6月の空襲で川崎航空機岐阜工場が破壊され、7月には一宮工場も破壊されたため生産不能となってしまう。終戦まで400機に満たない数しか生産できなかった。
前期型(通称I型甲)は三式戦の胴体をそのまま転用したもので300機ほど。後期型(通称I型乙)は風防を代え、機体後部を手直ししたものが99機作られたという記録が残されている。また排気タービン過給機付きのハ112-2-ル エンジンを装備したII型も試作された。
生産機数も少なかったため現存する機体はわずか1機。イギリスが接収し本国に持ち帰った五式戦が今もイギリス空軍博物館にあるのみである。
1945年4月頃から実戦配備され、陸軍飛行第18戦隊、飛行第244戦隊、飛行第59戦隊、飛行第5戦隊、飛行第17戦隊、第1教導飛行隊に配備されていった。エンジンの不調に泣かされた三式戦や四式戦と比べて稼働率が戦ったので用兵側から好評を得た。しかし機体の多くは本土決戦用に温存された飛行戦隊にまわされたため、実戦参加の記録も数少ない。
数少ない有名なエピソードとしては1945年7月16日、飛行第111戦隊所属の24機の五式戦が硫黄島から出撃した96機のP-51を迎撃。“義足のエース”こと檜與平少佐がP-51に乗るジョン・ベンボウ大尉機を撃墜したエピソードがある。これは日米双方の記録で確証されている。
檜與平少佐は43年に一式戦搭乗のさいにP-51に襲撃をうけ負傷。右足切断という負傷からジェラルミン製の義足をつけて前線復帰。見事足の借りを返したという形になった。ちなみにこの後、少佐は15機のP-51に包囲されたものの無事回避、帰還している。
登場したのが戦争末期で評価が難しい機体でもある。機体が新規設計ではないこともあるし、1945年に1500馬力級の戦闘機というのは周回遅れの感はたしかにいなめない。
が、当時2000馬力級のハ45(海軍名・誉)エンジンが品質・整備性の問題で稼働率に悩まされていたことも含めて考えれば次善の策としては妥当ではないだろうか。
元々余力のあるシンプルな機体設計を常としていた土井武夫氏らが作った三式戦の素性の良さが液冷から空冷へのエンジン搭載変更という珍しい事態にも乗り切ったともいえる。
頑丈に作られた機体は降下スピード800km/hを超えてもなお不安なく、最高速度では同時期の戦闘機に比べると見劣りするものの、実際の迎撃戦が行われる中、低高度域であれば必要十分かつ、エンジンの馬力と軽量の機体にものをいわせた空中機動で十分に対抗できたという。
また、液冷に慣れていなかった整備兵にとっても空冷エンジンのハ112-2は扱いやすかったらしく評判もよく稼働率も高かったという記録が残されている。
実戦参加が短いため搭乗員たちの評価は定まってはいないようだ。三式戦に乗りなれた搭乗員たちからはエンジンが大きいことから「不恰好」と言われたようだが、その軽さからくる機動性は魅力だったようだ。
一式戦に慣れたパイロットは「四式戦3機より五式戦1機の方が価値がある」と評価し、陸軍・自衛隊でパイロットして有名だった小林照彦少佐は「五式戦をもってすれば絶対不敗」との証言を残している。
また四式戦闘機「疾風」との模擬戦が行われ、ここでは同程度の技量をもつパイロット達によると、「高位戦(優位戦)からは自在に攻撃をしかけられ、低位(劣位)からでも二、三回の上昇で四式戦を抑えられる。突っ込みでは四式戦が優位だか上昇や旋回性能では上」という証言が残っている。
(これは機体特性もあるので一概に優劣を決められるものでもない。機体に応じた戦闘があり、前述の通り中・低域の格闘戦では優越があったという証だろう)
交戦した連合軍からは「新型機が登場した」とショックを与え、ニュースになったという。陸軍戦闘機最優秀という声も残されているぐらいであるから、生まれは望まれた形ではないにしても良く作られた戦闘機だといえる。
いま少し早い段階で空冷エンジンへの移行が進んでいたら…と思う人もいるだろう。そういう意味では惜しい機体ではあるだろう。
掲示板
35 ななしのよっしん
2021/11/18(木) 17:50:32 ID: xiZCwEiEWK
涙滴型風防の合わせが密着しなくて約1cmの隙間があったという話、
川崎に技術がないせいなのか戦争末期で日本の工業力が低下したせいなのか、どっちなんですか?
後者だとしたら五式戦や飛燕二型だけでなく末期の日本機全体の問題だったのですか?
ファストバック式にはこういう問題はなかったのでしょうか?
キ-64もデロリアンみたいな横に回す方式っぽいから問題なし?
36 ななしのよっしん
2022/08/20(土) 21:23:51 ID: 0xM5+xR588
37 ななしのよっしん
2023/05/03(水) 11:03:18 ID: KFEomisqiR
もっと評価されて良い機体だと思う。
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最終更新:2025/01/11(土) 06:00
最終更新:2025/01/11(土) 06:00
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