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「やらない善よりやる偽善」への私の主張です。意見や感想を教えて下さい。 「やらない善よりやる偽善」という言葉は、一見すると前向きで、行動を促すように見える。だがこの言葉の本質的な問題は、偽善を肯定することではなく、人を行動によってしか判断しなくなる思考を助長する点にある。 人間の行為とは本来、その人の動機に支えられている。「なぜそれをしたのか」「何を思ってそうしたのか」という内的な意志こそが、行為に意味を与える。だが「やる偽善」を是とする考えは、動機を切り捨て、行動の結果や有効性だけを重視する。そこでは人の価値が有用性によってのみ測られ、内面の誠実さは無視されてしまう。 行動の評価を優先する社会では、他者を「役に立つかどうか」でしか見られなくなる。結果が良ければ称賛され、悪ければ非難される。その基準の中で、人は次第に「なぜ行動するのか」を問わなくなる。つまり、人間が持つべき固有性、すなわち「自分だけの動機」や「自分なりの善悪の感覚」が失われていく。 本来、善悪とは行動の形ではなく、行為の根にある意志によって決まる。偽善とは「動機の歪み」であって、「行動の欠陥」ではない。だからこそ、偽善を悪として退けるのではなく、その動機をどう理解するかが問われるべきなのだ。動機を問わずに行動のみを称賛する社会は、結果的に「人間を手段化する社会」である。人の存在はその行為の効率に還元され、誠実さや迷い、優しさといった人間的な厚みが消えていく。 重要なのは、偽善かどうかではない。その行動の背後にどんな動機があるのか、どんな固有の思いがあるのかである。行動を評価する前に、その動機を理解しようとするまなざしを失えば、人と人の関係は「有用性」による取引に堕する。 固有性を見つめることで、私たちは人間を有用性の尺度から取り戻すことができる。 それは、人を結果ではなく存在として見るという、最も人間的なまなざしの回復なのだ。

回答(9件)

疑問があります。 「動機を問う」とありますが、その内容は 1.「動機に不純さがあるかどうかを問う」のか、それとも 2.「動機に善があるかどうかを問う」のか、どちらでしょうか? この二つは表裏ではありません。善の動機と不純な動機は普通に混在しうるからです。 またどちらもないことも普通にあり得ます。 たとえば4人がボランティア活動をするとします。 A.純粋に人助けだけの気持ち B.就職活動でアピールするため仕方なく C.人も助けたいが就活目的も D.人助けしたいとも思わず、就活に使う気もない。暇だから友人の付き合いで参加。 Aは純粋さのみ、 Bは不純さのみ、 Cは両方あり、 Dは両方なしです。 あなたの意見としては「AとBは、たとえ同じ成果を得るとしても動機が違う」ということなんでしょう。 AとBの違いは明確で、違いが行動に表れることもあるでしょう。でもAとC、BとCの差はとても曖昧。というか、違いのほとんどは「A寄りのC」と「B寄りのC」でしかないのでは。 そういう曖昧な現実の中で、あなたはどのように偽善を考えるんでしょうか。

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これってさぁ、固有性を有用性の上に置いてるのに、 善と悪っていう二元論で、固有性を否定してない? 「固有性を解く者は、いつでも他人の固有性に不寛容なのだ。」 って感じかな。 まぁ、数千の「有用性」による取引でよ作られた、堕するプロダクトの代表みたいなスマホとインターネットで、こんなこと言われてもねぇ…って思いました。 まぁ、この手の議論のせいで、偽善によって助かる人が減ったりもするので、ほどほどに(笑) 「同情するなら金をくれ!」

ここでは考察が先に立ってしまって、事実や定義の確認が後回しになっている印象を受けることがままあります。僭越ながら、その点は自戒を込めて、少々生意気ながら意見を述べさせていただきます(*´ω`) 本件について「この言葉の本質的な問題は、偽善を肯定することではなく」は概ね賛成ですが、「行動によってしか判断しなくなる思考を助長する」というのは少し違うように思います。 そもそもその言葉は、「偽善」という批判への反論として使われており、行為者を「偽善」とはみなしていません。 その上で、批判者に対して「たとえあなたが行為者を偽善と呼んだとしても、その行為自体は目的に対して善であることに変わりはない。何もしないよりは良いのだから、批判自体が意味をなさない」というのが、この言葉の真意だと思います。 要するに、批判者に対し「つべこべ言うな」というだけの言葉なのですよ。 だとしても半強制的に善行を求めてはいないし、世の中が行為で判断されていくという性質のある言葉ではありません。 むしろ、「他者の行為を上っ面で批判するな」という道徳観として機能している気もします。 >本来、善悪とは行動の形ではなく、行為の根にある意志によって決まる。 そこは本来の定義とは違うかな? 善とは行為の評価のことで、その善を行う意思は「善意」と言われます。 >偽善とは「動機の歪み」であって、「行動の欠陥」ではない。 同意します。 >だからこそ、偽善を悪として退けるのではなく、その動機をどう理解するかが問われるべきなのだ。 そもそも、行動の欠陥という意味で偽善と言っているケースはほぼ無いと思います。一般には、動機が不純(動機の歪み)であるから偽善とされるのだと思います。 >動機を問わずに行動のみを称賛する社会は、結果的に「人間を手段化する社会」である。人の存在はその行為の効率に還元され、誠実さや迷い、優しさといった人間的な厚みが消えていく。 その理念については同意します。 ただ、むしろ人間は感情的な生き物であるため、行動には合理性よりも感情的な動機の方が介在していると思います。ですから、逆に「結果が問われる」という側面もあるのかなと。

名称未設定さんの意見に補足 やまゆり園の件は、植松という人物に襲撃をうけた障碍者施設です。 善の気持ちからそのような悲劇が起こったと論じておられますが、正しく解釈すると、植松が障害者差別をしていることがこの施設の悲劇であり、「安全運転をしても貰い事故を受けるのだから、安全に配慮する動機に意味がない側面もある」といってるような主張に見受けられます。

これは私の考えなんですが「やらない善よりやる偽善」というのは本質的には自己満足できるかどうかだと思うんです。 対外的にどう評価されるか、それも勿論あるとは思うのですが、それ以上に「やらずに後悔してしまうくらいなら、やってから後悔しよう」ということではないのでしょうか。

これは「善」を動機で見るか結果で見るか、という議論だね。 君の立場は「動機が大事」てことだと思うけど、これってカントの義務論に極めて近い気がする。 カントは「定言命法」で動機を重んじた。 「結果が大事」ってのは功利主義の考え方。 だから「やらない善よりやる偽善」はそのまま功利主義と言ってもいい。