「日本書紀」箸墓伝説の「大坂山」の謎 「日本書紀」崇神紀には、 乃葬於大市 故時人号其墓謂箸墓也 是墓者日也人作 夜也神作 故運大坂山石而造 則自山至于墓 人民相踵 以手遞伝而運焉 時人歌之曰 飫朋佐介珥 菟藝迺煩例屡 伊辞務邏塢 多誤辞珥固佐縻 固辞介氐務介茂。 すなわち、大市(桜井市地域の地名)に葬られ、当時の人はその墓を箸墓(はしはか)と呼んだ。 この墓は、昼は人が作り、夜は神が作った。 大坂山から石を運び造ったが、山から墓までは人々がバケツリレーで、石を運んだという。 当時の人達は(この光景を)歌にした。 大坂(おほさか)に 継(つ)甲ぎ 昇運(乙のぼ)れる 石群(いしむら)を 手越(た甲ご)しに越(甲こ)さば 越(甲こ)しかてむか甲も(大変、努力したのだろう)? (私訳です。甲・乙は上代特殊仮名遣いの分類) ここで、質問です。 この大坂(おほさか)とは、どこを指す地名ですか? 「古事記」履中記には、大坂山口(おほさか・やまのくち)の記載があり、これは太子町地域から虫穴峠を越えて、 奈良盆地に向かう、山道を云ってものであり、ここの石を運んだというトンデモ説?は、距離感からして、常識外であり、私には受け入れられません。 これは、纏向川流域の山道ではないのでしょうか? 尚、私が云うトンデモ説には、大和朝廷の威厳を示すため、当時から、良く知られた遠くの山道地名(大坂山)をあえて、この様にしたとする説がありますが、これを云い出せば、サイエンスの世界での楽しみ方とは違うと思います。