雑記。

うっすらとした知り合いがどうやらうつ病の末、自殺されたようで、うっすらとした罪悪感を抱く。
心の病ゆえの自死は、ひょっとしたらその病に苦しみ続ける人間にとっては「救い」なのかもしれない、の考えを
中高年である私は心の底に持っているが、それでも出来ることならやめて欲しかった、と思う。
ネットでは、児童ポルノ法やら、内田樹先生のセックスワーク論やらが花ざかりで、
セックスワークといえば、必ず「女性学!」の方が物申すことになって、その手の記事も読んだものの、
「セックスワークに就く自由!」てなものがあったとして、それは「自殺する自由!」と言われるのと同じで、
まあ、常識人なら「やめておきなさい」が基本的な立場だろう。
「自殺するのは私の権利!」と宣言されたとき「ケースバイケース」と答えるのはあまりにも概念の亡者と言うか、
ある意味心を病んでいるというか、私は、目の前の人間が自殺なり、売春なりをしようとしていたら、止めますな、
どのような事情があろうとも、するべきではないことは存在する。
それは道徳とかの問題ではなく、生命に関わる問題であって、
多分、自殺や売春が宗教(=道徳)で禁忌とされるのは、「生命」を育むための苦肉の策だったんだろう、
その手の呪縛はかなり長い期間有効であるのは事実だから。
ネットを読んでいると、自分自身の生き方がどれほど混乱しているか全く意識しないまま、何らかの運動に突っ走る危うい人を否応なく見ることになって、
その生き方のはてにあるものはなんだろう、と不思議になる。
不思議に思うと同時に虚しくもなる。言葉は魅力的な道具だが、それに囚われすぎてはいけないを、言葉は何故か教えない。
「自殺」も「売春」も、それをする人を責めたり蔑視したりはしないが、止める行為を何らかの言葉で批判されるのは「違う」と思う。
大昔、「春を売る」という言葉があって、その言葉の明るさがなぜ必要だったかを時々思うことがある。
この手のものはたいてい「美」で覆われる、その悲しさがどこにあったかを考える。