『好きなアイスは?』


 行きつけのバーがある。どれくらいの頻度で何度その場所を訪れたら「行きつけ」と言えるのか、その言葉を知った頃くらいから、塩梅がわからないけれど、それはチェーン店の店だけれど、行きつけといっていいだろう。なぜなら店員が顔を覚えるからだ。顔を覚えるけど、親しくはない。もしかして覚えているようにふるまっているだけだろうか。そういうわけではないらしい。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ」
 落ち着いた声と物腰だが、年齢は自分より年下だ。自分がもういい年なのだ。松原さんはにっこりと、毎度切れ味のいいほほ笑みを見せる。今日はカティーサークにしようと決めていた。ひとくち味わうと、やっと周囲が目に入ってきた。少し気が高ぶっていた。大きなへまをやらかしたとか、けんかしたわけじゃないけれど。
 白い物体だ。同じカウンターの、五つ向こうの席の客の前に、小さく白く丸いものがひかっている。なんだろう。女性のひとり客だから、よけいにしげしげ見るわけにはいかない。彼女は、スプーンで器からそれをすくって食べた。アイス、バニラアイスなのか。
 挙動不審をみてとった松原さんが、くりっとしたまなざしをこちらにむける。こちらが声を発しようと息を微かに吸うあいだに、さっと距離をつめてきた。
「アイスなんてあった?」
「ご用意しております」
 こともなげに、にっこり。ドリンクメニューはながめることがあっても、フードはいつも真剣にみていない。特製の燻製チーズを店員にすすめられるのも、最初だけ。気楽で常連ぽいけれど、さみしいところもある身勝手さ。
「そうなんだ」
 生返事をしながら、もう一度、バニラアイスのほうをみたくなった。かろうじてごまかした。
「バニラかな」
「バニラアイスです」
 松原さんが、ご用意しましょうかスイッチがはいったようにみえて、あわてていった。
「いや、いいから。すいません」
「いつでもおっしゃって下さい」
 にっこり笑って、距離をとる。すました顔で。
 アイスそのものか、バニラアイスが入っている器か、スポットライトをきらりと反射したスプーンか、彼女が気になっているのか。気にしていないふりをして、琥珀の液体に集中しようとするが。カティーサークには申し訳ない。バニラアイスとウィスキーなんて、天使の導きであり、悪魔のささやきだ。いざバーへきてバニラアイスを注文するのは、なかなか不思議な勇気がいる。こういう店なら、リッチなアイスを用意しているはず。
 彼女は絶妙な間隔で、スプーンでバニラアイスを運んでいる。その気配がする。横目でも見ないようにしているのに、見えてしまう。左頬に左手をあて、文庫本を取り出したが、暗くてあまり読めない。店内は基本的には暗くて、ところどころに手元にスポットライトがあたる席があるが、ここはそうではない。軽く飲んだらすぐ帰るつもりだったし、ここではあまり読書はしない。しょうがなく、文庫本を伏せておく。スマホをとりだしてツイッターでもみていいが、ここではなるべくそれをしたくない。ペンとメモ帳をとりだしてへたくそなネコの落書きでもするか。松原さんをつかまえて、ちょっとしゃべるか。今日もミーティング続きで、たくさんしゃべって、成果はあるけど、ときどき変な気もするんだ。本当にこんなに時間をさいて話して書いて意味があるのかな、なんて。ははははは。否。頭の中で懸案事項について整理整頓するか。いまはそれはいちばん無意味な提案だ。できるわけがない。しかたなく、ゆっくりと息を吐く。小さいキャンドルの炎を見つめる。瞑想かな、迷走かな。
 どうしてこんなにアイスのことが気になるのだろう。彼女にひかれているのか? アイスにかこつけて彼女をみたいのか、彼女にかこつけてアイスをみたいのか。アイスを見たい? おかしいじゃないか。何に向かって何を考えているんだ? ひとり百面相をすれば、すぐに松原さんに見つけられる。いやきっと、もうおかしいことはわかっているだろうけど、声をかけるほどのことではないと、防犯上ジャッジしているだけのことだ。
 平静を装いながら、ひとりですったもんだしたあげく、彼女よりも先にチェックを頼んだ。
「こんな日もあるんだよ」
 松原さんが不思議そうな顔をする前に、いや、きっとそんな顔はしないだろうけど、言い訳のようにいった。
 家の近所のコンビニエンスストアで、何食わぬ顔でバニラアイスクリームを買った。きっと店でだしているような高級アイスとはちがうだろう。くるりときれいに丸くえぐり出して、よく冷えた器にのせられたものとは違うだろう。それをたべるのは、きれいなアイスクリーム用スプーンではないだろう。それでいいのだ、それで。
 風呂上がりに、ようやく、アイスの紙の蓋をあけ、シールの蓋をはがしたとき、安心感と虚脱感が同時に襲ってきた。それといっしょに、冷たいバニラアイスをがつがつとしみじみと味わった。



(2000文字ぐらい)