第72代横綱の稀勢の里が引退を表明した。
 残念だ。
 とても悲しい。

 当コラムの連載の中で、これまでに何度か
「もう大相撲は見捨てた」
 という主旨の言葉を書いた記憶がある。
「もう相撲については書かない」
 と明言したこともある。

 で、その度に自分のその言明を裏切ってきた。
 なさけない話だ。われながら、不徹底な態度だったと思っている。

 大相撲を一時的に見捨てたことがなさけないと言っているのではない。結果として見捨てなかったことが不徹底だったと悔いているのでもない。
 見捨てることなんかできっこないくせに、「見捨てる」だとか「もう見ない」だとかいう直情的な断言を、口走るだけならともかく、わざわざ文字にして残してしまったことがみっともなかったと私は申し上げている。バカな態度だった。

 しかしまあ、何かに対して愛情を抱くということは、その対象についてみっともない人間になるということでもある。これは、人が人である以上、仕方のないことだ。

 何かや誰かに対してみっともない振る舞い方をする時、その人間はその誰かや何かに対して愛情を抱いている。
 まことにみっともないなりゆきだが、本当のことなのだからしかたがない。
 私は、相撲について書いたり話したりする時、論理的に一貫した冷静な人間であることができない。
 ほぼ必ず情緒的で怒りっぽくも未練たらたらな厄介なオヤジとして過剰な言葉を並べ立ててしまう。

 もっと、事実に即した書き方ができれば良いとも思うのだが、
「事実に即して書くくらいならはじめから原稿なんか書くもんか」
 と、大相撲ライターとしての私は、どうやら本気でそう思いこんでしまっている。

 困ったことだ。

 ともあれ、相撲ファンである私は、一時的に、相撲をめぐる報道や、土俵の周辺で起こる愚かな事件にうんざりすることはあっても、相撲そのものを嫌いになることはできない。
 その私の大相撲への愛情の大きな部分を担っていてくれていた力士が、ほかならぬ稀勢の里だった。

 稀勢の里の相撲は、デビュー当時から大好きだった。
 土俵の外での言動や故郷でのエピソードや稽古風景も含めて、あらゆる点で尊敬できる相撲取りだった。

 報道によれば、稀勢の里は「引退させてください」と親方に申し出たのだそうだ。

 なりゆきからして、逃げ場のない選択だったのだろう。

 初日から続いていた黒星が3つ並んでしまった時点で、引退は、本人の決断の問題というよりは、世間の空気として、既に動かしがたい状況だった。

 NHKの大相撲中継の実況アナウンサーや解説陣の口吻からも
「空気読んでください」
 という引退勧告に近い気配が横溢していた。

 というよりも、前日、すなわち2連敗が決定した初場所2日目段階で、世間の趨勢は固まっていた。

 「あー、これは引退だな」
 と、横綱に「潔さ」を求める多くの無責任な日本人は、そう感じていたはずだ。

 初場所2日目の土俵で、横綱の2つ目の黒星が記録されると、テレビカメラは、支度部屋に殺到する報道陣の後ろ姿をとらえて、その印象的な画像をしばらくフィックスのまま流し続けた。

「大勢の報道陣が支度部屋を取り囲もうとしています」
と、実況アナは、国技館の通路を走るカメラを持った人々の様子を実況してみせた。

 「あああ」
 と私はそう思いながら画面を眺めていた。
 相撲ファンの大多数は同じ気持ちだったはずだ。

 われわれは
 「あああ」
 以外に適切な単語を思い浮かべることができない。それほど、私たちの気持ちは千々に乱れていた。

 野次馬は違う。彼らはむしろハイになっていたはずだ。

 野次馬諸氏は
 「おっ?」
 と思いながら、身を乗り出して画面に注目する。毎度同じだ。彼らはあらゆる不幸な事態を面白がっている。別の言い方をすれば、どんな状況に対してであれ、騒動が拡大する方向で推移することを願っている人々をわれわれは野次馬と呼んでいるのであって、彼らは、とにもかくにも他人の転落や悲嘆が大好物なのだ。

 私が個人的に残念に思っているのは、大相撲の世界が、この10年ほど、その野次馬の意図と願望に寄り添う方向の決断を繰り返してきた点だ。

 もう少し実態に即した言い方をすると、朝青龍を追放し、雅山を排除し、日馬富士に引導を渡し、貴ノ岩を叩き出したこの10年ほどの角界の改革三昧は、相撲の世界を正常化するための避けて通れない試練であったように見えて、実のところ、角を矯めて牛を殺す愚行に似た、浅はかな弥縫策以外のナニモノでもなかったということだ。

 稀勢の里の身の回りに起こった度重なる故障と、その故障がもたらした早すぎる引退それ自体は、相撲協会の愚かな決断の直接の結果ではない。
 が、人一倍巨大な責任感の持ち主である稀勢の里が、暴力や賭博の問題で揺れる角界を支えるために必要以上に自分を追い詰めていたのであろうことは否定できない。

 こんな異常な事態が続いている状況でなかったら、稀勢の里とてもう少しゆったりとした構えで土俵に向かうことができたはずだ。もし仮に、怪我をおして土俵に立つ決断を、彼が撤回できていたら、稀勢の里の引退のタイミングは、もう2年か3年先に持っていくことができた気がする。そう思うと残念でならない。

 総体として、日本相撲協会は、ファンの声に耳を傾けているようでいて、その実、野次馬の邪悪な叫び声にコントロールされていた。
 で、「記事になりやすい扇情的な見出しを提供する」標準活動に血道をあげ、「騒動の拡大を喜ぶ野次馬に向けて劇的なシナリオを用意する」べく努力を傾けてきた。
 その結果が、「品格や相撲の美を強要して力士を追い詰め」るアナクロニズムであり、「相撲を相撲としてではなく、何かの代理戦争として楽しんでいる邪悪な見物人の要望に応える」幾多の改革や処分だったと、私はそういうふうに受け止めている。

 要するに相撲の運営をまかされた面々は、この10年ほど、SMO48の運営側みたいな杜撰なアイドル見世物商売まがいを繰り広げてきたのである。

 引退の第一報を受けて、テレビ各局は、
「19年ぶりに誕生した日本出身の横綱」
 というフレーズを連呼していた。

 ニュースを片耳で聞き流しながら、私は、またしても大相撲を見捨てる気持ちに傾いていた。
 感情的にならずにおれなかった。
 それほど心の底からあきれかえってしまったからだ。

 おそらく、大相撲ファンでない普通のテレビ視聴者は、この「日本出身の」という奇妙な言い回しが醸しているニュアンスを言葉どおりの意味では了解できていないはずだ。なので、以下、いささか押し付けがましくなるが、私が知っている限りの事情を解説しておく。

 この「日本出身の」という、はじめて聞いた人間にはにわかに意味のわからない不可思議な言い回しには、実は、古くからの相撲ファンならよく知っているちょっとした来歴がある。

 はじめて使われたのは、2016年の初場所に大関琴奨菊が優勝した時だった。

 用例としては、この時の琴奨菊の優勝が「日本出身の力士として、2006年初場所の栃東以来10年ぶりの優勝」であることが、しきりに強調されたのである。

 どうして「日本人力士による10年ぶりの優勝」
 と、普通にそう言わなかったのかというと、「日本人力士の優勝」ということになると、2012年の5月場所にモンゴル出身の帰化日本人である旭天鵬が優勝していたからだ。

 つまり、単に「日本人力士の優勝」という言い方をすると、それは4年ぶりに過ぎなかっただったわけだ。
 それを「日本出身の日本人力士としての優勝」に限定すれば10年ぶりになる。その点を強調したいがために、この言い方が発明されたのである。

 もう少し丁寧に言えば、「日本出身の力士による10年ぶりの優勝」というこの言い方は「生まれも育ちも日本で、両親も日本人である生粋の日本人と、外国にルーツを持つ外国生まれの元外国人である帰化日本人を区別して、別の日本人として扱うのが、わが国の『日本人』のスタンダードである」
 ということを行間で示唆するために発明されたフレーズだったわけだ。

 このことからわかるのは、われわれが、「日本人」という言葉に「国籍」(ナショナリティ)「血統(民族性)」(エスニシティ)と「文化的バックグラウンド」をすべてひっくるめた極めて厳密な資格審査を求めているということだ。

 してみると、帰化した日本人は、国籍においては日本人であっても、血統や文化性においていまだ日本人と呼ぶには足りないわけで、だからこそ、その「ニセモノの日本人」をあぶり出して区別するための記号として、メディアは、「日本出身の」というタグを発明した次第なのだ。

 で、そのタグがいままた稀勢の里に対して適用されている。

 今回のケースでは、「日本出身の横綱」というこのフレーズは、
 「日本国籍を持つ日本人ではあるものの、日本生まれの日本出身の日本人ではない曙や武蔵丸と生粋の日本人である稀勢の里を区別する」ために用いられてもいれば、
「現在のところはモンゴル国籍なのだが、既に公式に帰化を申請していることが報道されており、いずれ日本国籍を取得する見込みの横綱である鶴竜と、生まれつきのどこからどう見ても完全な日本人である稀勢の里を区別」
 するために使用されてもいる。

 いずれにせよ、この言葉には「日本生まれで両親が日本人で日本の国籍を持っている生粋の日本人であるわれわれの横綱を私たちは特別に尊重しようではありませんか」というニュアンスがこめられている。

 

 考えすぎだろうか?
 あるいは考えすぎなのかも知れない。
 実際、ほぼ同じことを書いた私のツイートに対しては、
「考えすぎですよ(笑)」
「そうやって差別的に解釈するおまえの脳内が差別的だってだけの話だよ」
 という感じのリプライがいくつかとどけられている。

 なかなかむずかしい問題だ。
 いまのところ、私は、この件について、明確な答えを持っていない。

 なので、この場では「聞きようによっては差別に聞こえかねない言い方は、差別と思われても仕方がないのではなかろうか」と言うにとどめておく。

 ただ、「本当の日本人ならそんなことは気にしないはずだ」という言い方が、ほぼ完全に差別そのものであることだけはこの場を借りて指摘しておきたい。

 

 ともあれ、2016年の初場所の千秋楽、琴奨菊の優勝報道を横目で眺めながら、私は「ああ、うちの国のメディアの人間たちは、いまだに帰化した日本人を本当の日本人として扱うことに納得していないのだな」ということに強い印象を抱いた。

 もっとも、この時、旭天鵬のもとにインタビューに行った記者もいて、その記者は旭天鵬の口から「オレも日本人なんだけどなあ」 という味わい深いコメントを引き出している。

 私はその記事を読んで、「でもまあ、こういう記事が新聞に載ってもいるわけなのだからして、まるっきりうちの国がモンゴル差別一色ということでもないのかな」と、一方では、やや安心してもいた。

 ちなみに申し上げるなら、ふだんから大相撲中継を毎日見ているディープな相撲ファンの中に、この種の国粋的な文言を振り回す人間はまずいない。
 というよりも、相撲を愛するファンにとっては、あくまでも好きな相撲取りや強いお相撲さんがいるだけのことで、国籍や血統や民族性は周辺情報に過ぎない。

 たしかに、稀勢の里が茨城県牛久の出身で遠藤が石川県鳳珠郡穴水町の生まれであることを私が暗記していることからもわかる通り、相撲は伝統的に力士の出身地を大切に扱う地域オリエンテッドな格技ではある。とはいえ、少なくとも外国人力士に門戸を開いて以降の現代の相撲ファンは、国籍や民族性をさして重視していない。ファンはあくまでも、個々の力士の力量と相撲っぷりに惚れ込むことになっている。そうでなくても毎日相撲を見ていれば、じきに外国人であるのか日本人であるのかは、たいした問題ではなくなる。

 ところが、相撲について知識も愛情も持っていない市井のワイドショー視聴者は、もっぱらスキャンダルと国籍と不祥事を通して相撲を鑑賞している。 

 であるからして、ワイドショー視聴者向けに稀勢の里という力士を紹介する文脈では、ただただ「19年ぶりに誕生した日本出身の横綱」の引退を惜しんでいるかのように聞こえるこの不自然な連呼を繰り返すことになる。

 この「日本出身の」というこの奇妙な言い方が稀勢の里を引退に追い込んだと言い張るつもりはない。

 ただ、モンゴル人力士と日本人力士の間にある確執であるとか、力士間に蔓延する暴力と賭博とプロテインであるとかいった、噂の真偽よりも、単にそれを面白がる人々の娯楽のために書かれている与太記事が土俵を害していることはまぎれもない事実だと思っている。また、21世紀の大相撲を間違った方向に誘導しているのが、相撲取りでも相撲協会の人間でも相撲ファンでもない、非相撲ファンのバカな野次馬だということもまた目をそらしてはならない事実だと思っている。

 とりあえず、日本相撲協会は、ワイドショーのレポーターと週刊誌メディアの取材を拒絶するべきだと思う。

 広報担当の人間には、
 「うるせえばか」
 という言葉をおぼえてほしい。

 たいていの取材は、このフレーズで対応可能だと思う。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

たいていの取材は本当に、このフレーズで対応可能でしょうか……。

 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)

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